観自在

身辺雑感を気ままに書き込んでいます。日記ではなく、随筆風にと心がけています。気になったら是非メールください!

ヘタウマ?

2008-08-28 02:16:25 | 絵画
 『週刊朝日』に連載されていた故司馬遼太郎氏の「街道をゆく」を毎週楽しみにしていた時期があります。その土地土地で、ごく普通の人たちと接しながら、過去から現在、そして未来へと飛翔する司馬史観に魅了されたのは私だけではないでしょう。
 私が楽しみにしていたのはそれだけではありません。須田剋太画伯の挿絵が好きでした。画伯の絵は、近代絵画の技法などを超越し、対象に迫り、一体化するような迫力にあふれていました。奔放な絵や書は、一見「拙絵」「拙書」と言えそうですが、画伯自身は華奢で神経質そうな方で、浮世離れした純粋さをお持ちのようでした。画伯は20年近く、司馬氏と街道を旅していたと記憶していますが、その純粋さで司馬氏を愛していたのだと思います。
 須田画伯は、生前、自分には恩師が三人いて、一人は造型をたたき込んでくれた人、もう一人は人を愛することを教えてくれた坊さん、そして、その二人をくっつけてくれたのが司馬さんだったと言って、年下の司馬氏に敬意を表していました。異分野の才能が出会い、刺激し合って、散ることのない大輪の花を咲かせたのが「街道をゆく」シリーズだったと思います。
 急に画伯を思い出したのは、この夏、知人がアイルランドを旅した話を聞いたからです。須田画伯は「愛蘭土紀行」にも同行し、「街道をゆく」には「須田画伯と愛蘭土」という一章もありました。画伯が、こよなく愛したというアイルランド、知人の話を聞いて、その挿絵をまた見たいと思いました。

ブックリスト~『求めない』

2008-08-26 02:21:05 | 読書
『求めない』 加島祥造 小学館

 1年ほど前に出版された、比較的新しい本です。掌サイズの可愛らしい装丁も目をひきます。
 作者は、早稲田の英文科卒で翻訳などをされていたようですが、老子に影響を受け、老子に関する著作も多いようです。信州伊那谷に住み、詩作、著作のほか、墨彩画の制作もなさっているということです。御歳85歳くらいでしょうか。
 これは、詩集と言うよりアフォリズムというか、「求めない」と繰り返し、それがどういう心的作用を及ぼすかを平易に述べています。
 私達が日々、不安であったり、憎しみあったり、悲しんだり、満たされなかったりするのはなぜか。作者は、そのキーワードとして「求めない」というフレーズを使っているようです。その思想は、老子であり、禅的でありましょうが、原始仏教に通じる明快で実践的なものを感じます。悟り澄ませと言うのではなく、少しでよいから発想を変えろと教えられているようです。
 常に相手に期待し、自分の思い通りにならないと、それもすべて相手のせいにしてしまう。それが人間関係のつまずきの源ではないでしょうか。最初から相手に求めず、自分の中にあるものをしっかりと見つめる、それが大切だということを気づかせてくれる本でした。
 

映像の恐ろしさ

2008-08-25 00:27:56 | 映画
 「泥の河」「伽倻子のために」「死の棘」「眠る男」「埋もれ木」を監督した小栗康平氏は寡作ですが、優れた作品を世に送っています。静謐な映像は、私もファンのひとりです。
 小栗氏が小学校で「映像」に関する次のような授業をしたそうです。氏は児童達にバラの花を見せ、五感でそれを認識させた後、花束を花瓶から抜き取り、床に投げ捨てる芝居をします。そして、自分が怒っていて、それを踏みつけたい、誰か代わりにやってくれないかと言う。皆、生きた花を踏むことに躊躇します。そこで、氏がバラを踏みつけると、児童達は緊張します。その模様はビデオに撮影してあって、児童を席につかせた後に、映像で見せる。それがどう違うかというのが、授業の核心になります。画像には痛みがなく、他人事のようであり、抜け落ちてしまったものがたくさんあるということに気づかせるのです。
 私達は映像の時代に生きていると言ってもよいと思いますが、大切なものが抜け落ちていることに気がつかないとしたら、恐ろしいことです。百聞は一見にしかずと言い、視覚は物事の認識に重要な地位を占めるでしょうが、万能ではないと改めて気づかされます。
 このように映像に対して鋭い感覚を持つ小栗氏が、次に何を描いて私達に問題を投げかけてくれるのか、次作が楽しみになりました。

銀座のBAR

2008-08-24 18:38:25 | 
 土曜日の夜、雨の銀座で知人と落ち合い、バーへ行きました。残念ながら、知人は男性です。銀座のバーと言えば、敷居が高く二の足を踏むのが普通でしょう。以前の私もそうでした。ところが、今回二度目にお邪魔したその店は、著名人も出入りする名店でありながら、気取ったところが微塵も感じられず、「さすがに一流のもてなしだ」と納得させられるバーです。
 ただの酒飲みで、カクテル通でもない私は、気取るのも嫌なので「ジンベースで甘くないもの」「ラムベースでポピュラーなカクテル」などと適当な注文をして、バーテンダーにお任せするという具合です。すると、「よろしければ・・・・・・」というふうに、バーテンさんが見つくろってシェイクしてくれますので、緊張することはありません。今回は、アイリッシュウイスキーのロック、ハバナ・マティーニ、ダイキリ、オリジナルマティーニを4杯いただきました。軽食もあって、つまみも充実しています。
 お値段を紹介したいのですが、マスターと知人が親戚のため、相当にサービスしていただいていますので、参考になりません。でも、カクテルは1000円前後、おつまみも700~1200円程度を考えていただければ十分でしょう。味、雰囲気、サービスを考えれば、けっして高くないと思います。とても満足できる夜でした。これでご婦人と飲めればなあというのは欲張りでしょう。
 

2008-08-21 17:31:51 | コラム
 今日は仕事で、勤めて最初に赴任した街へ行きました。行ってみてびっくり。駅前からかつての職場まで、街並みがすっかり変わっていて、懐かしく感傷に浸ることもできませんでした。
 アリスの「遠くで汽笛を聞きながら」、BOROの「大阪で生まれた女」、伊丹幸雄とサイドバイサイドが歌った「街が泣いてた」などなど、街に別れを告げる歌には名曲が多いですね。私も住居を転々としましたので、感情移入する部分が多いのかも知れません。
 敬愛する建築家の安藤忠雄氏は、阪神淡路大震災のとき、街が崩壊するということは、単に街並みがなくなることではなく、そこで暮らした人々の記憶や思い出が消滅することだといった話をなさいました。さすがに偉大な建築家だと舌を巻いたものですが、街とは、あるいは建築物とは、そういうものだと思います。西欧では、戦災などで壊滅的な被害を受けた街並みを何十年もかけて元通りに復元しています。街や地域社会を大切にする思想が窺えます。
 今日、わずかに記憶に残っていた建築物は、古びたスナックと雀荘が長屋になったモルタル二階建ての廃墟だけでした。それが無くなれば、あの街と私との接点も完全に消え失せてしまいます。

生き方を決めた夏

2008-08-19 14:12:11 | コラム
 高校3年生の夏休み、私は禅寺で一ヶ月半を過ごしました。今にして思えば、受験勉強からの逃避だったと思います。雲水(修行僧)さん達に交じってほぼ同じ生活をしました。
 庫裏の二階の一間を与えられましたが、隣には3~4歳年上の男性が参禅していました。彼は大学受験を断念した後、全国をくまなく歩き、すべての都道府県を巡り終わったとのことでした。囲炉裏端や僧坊の一室で、私は彼からいろいろな話を聞きました。彼は与論島の星の砂をとりわけ大切にしていて、ときどき小さな瓶から掌に受けながら、じっと眺めていることがありました。故郷から弟さんが訪ねてきた日には、夜、一人で涙をぬぐっていました。私は、彼の姿に漂泊の俳人、種田山頭火を重ねて、思慕の思いを深めていきました。
 8月の末、村で祭りがありました。私達は小学校の校庭で行われた盆踊りを見に行きました。淡いぼんぼりの灯の下で踊る人々の姿が、この世のものではないように、頼りなく見えました。夏の終わりが迫っていました。
 別れの日、私は彼にすがって号泣しました。人前であんな姿を見せたことは後にも先にもあのときだけです。生まれて初めて知った別れの悲しみでした。彼は、私の肩にそっと手を置いて「たくましくね」と言ってくれました。彼も、某観音堂の堂守になり、寺を去ることが決まっていました。
 毎年、晩夏になると思い出す情景です。その後の私は、知らず知らずのうちに、彼の生き方をなぞってきたように思います。私は彼を純粋に敬愛していました。だから、あまり幸せになれませんでしたが、後悔をする気持ちにもなりません。
 

人間到る処青山有り

2008-08-18 15:10:59 | コラム
 今回、帰省中にしたかったことの一つに海水浴があります。午前中に歩いて浜まで行き、十数年ぶりに海に入りました。さすがに海水浴客も少なく、海も夏の色ではなくなっていました。沖に浮かぶ雲も入道雲ではなく、鰯雲。それでも、潮の香を嗅ぎ、潮騒を聞きながら、波に身を任せているのは気分のよいものでした。
 帰宅する途中、メキシコ料理の店を見つけて入りました。カウンターだけの小さな店です。マスターはメキシコに旅行に行き、そのまま11年間住んでしまったという異色の人。トルティーヤに鶏肉、ジャガイモなどを包み、トマトソースで煮たメインディッシュは、メキシコの主食だそうです。トウモロコシの味わいが何とも言えない逸品でした。驚いたのはアロス・デ・クレマという米のプディング風デザート。甘みがほどよく、実に美味でした。
 メキシコの話を面白く聞いた後は、マスターが「よいバカンスを」と言って送り出してくれました。故郷で思わぬリゾート気分を味わった一日でした。
 「人間、到る処、青山有り」という諺を思い出しました。これは「人間はどこに行っても緑の山があって住めば都」というような意味で使われますが、正しくは「世の中どこでも骨を埋める処はあるから、大きな志をもって故郷を出よ」ということのようです。志を持たずに故郷を出て、帰省してよい店を見つけたなどと喜んでいる私は、まったくこの諺を誤用しているわけです。

祭りのあと

2008-08-17 09:50:52 | コラム
 当地は時々小雨が降る天候でしたが、今年も祭りに参加しました。正式に要請を受けた形です。実際、御輿の担ぎ手が少なく、例年のお札配りの傍ら、御輿も担ぐという展開になりました。おかげで、今日は肩や腰が痛いです。
 毎年、祭り行列に参加していると、沿道を見て、いろいろ気づく点があります。やはり老人が目立つことは確かです。老婦人が真新しい夫の遺影を抱えていたり、昨年は入院していた老人が、今年は元気で木遣を披露してくれたりと様々です。
 一方、祭りで見る若者はいいですね。浴衣や法被姿の女性は言うまでもありませんが、普段はどうということはなくても、祭りで輝く若者がいるようです。例えば、太鼓と笛のカリスマがいて、彼の演奏は皆の憧れの的。競演するのも大感激のようでした。祭りだからではないと思いますが、当地では茶髪の若者が少なくて、意外な気もしました。
 祭りが終わって、今日は急に涼しくなりました。吉田拓郎氏の初期の作品に『祭りのあと』というのがあって、詩人の詩に拓郎氏が曲をつけたものですが、あの淋しさを、今しみじみと感じています。この肩の痛みが消える頃、休暇も終わります。

通信制大学で学んで

2008-08-15 14:27:48 | 仏教学
 十年ほど前、通信制大学に入学しました。既に4年制大学を卒業していたので、3年生の専門課程に編入できました。仏教学を専攻したのは、昔から興味があったためで、信仰とは無関係です。現在も、私に信仰はありません。
 最初に送られてきたテキストは難しく、読んでも理解不能でした。そこで、神田や高田馬場の古本屋街を歩き回り、基本的な書物を集めて読みました。私は、昔から古書店巡りが趣味でしたので、苦になりませんでした。
 各科目の履修は、まず、課題についてレポートを提出します。レポートは1単位あたり原稿用紙4枚の分量だったと記憶しています。レポート試験に合格したら、最終テストを受験し、筆記試験で60点以上取れば単位が認定されます。他に、スクーリングの科目があり、長いときには3週間近く、大学に通いました。
 卒業論文の口頭試問の折に大学院への進学を勧められ、調子に乗って修士になりました。科目の履修は、レポートだけになったので学部の頃より楽でした。しかし、仕事も多忙となり、生活も変化して、論文だけが残り、仕上げるのに2年かかってしまいました。先月、ようやく修士論文を提出し、来月初旬の口頭試問に臨む準備をしています。
 通信制の大学とは、以上のような感じです。仕事をしながら勉強するのは確かに大変ですが、目的を持って生活することは、やはり大切だと思いました。お金はかかったものの、得難い体験をすることができたと感謝しています(来月、修了できたらもっと感謝します)。

老犬

2008-08-14 10:31:52 | コラム
 実家には16歳になるマルチーズがいます。眼は既に白く濁り、よく見えないようですし、玄関の扉の音や自分の名前さえ、もうよく聞こえないようです。彼は、いつも母の側で、うとうとと過ごしています。
 その母も85歳です。もうまともに歩けない母は、テレビの前に布団を敷いて、そこで日がな一日、テレビを見ています。たまに話をすると、妙なことばかり口走るので、慣れないこちらはイライラしてくることもあります。短絡的でステレオタイプな言動ならまだできますが、論理的な思考や新鮮な感動というものからは無縁になってしまいました。高齢なのだから当然でしょう。
 昨日、居間のテーブルの上に、伏せた写真立てがありました。眠っている母を起こさないように注意して見ると、祖母の写真でした。祖母は十数年前に88歳で亡くなりました。お盆が来て、母は祖母のことを思い出していたのでしょう。
 母の傍らには、忠犬が添い寝していました。『方丈記』には花の上に置いた露について、花と露が無常をあらそう様を描いていましたが、老母と老犬も、どちらが先に逝ってもおかしくないような心細さを感じさせました。
 近年の酷暑は、老犬には辛いようです。母のために長生きしてくれよと、心の中で声をかけながら、祖母の写真を元に戻しました。
 写真は私の油彩で、十年くらい前のものかと思います。
 

ブックリスト~落日燃ゆ

2008-08-13 14:01:53 | 読書
 城山三郎著 『落日燃ゆ』 新潮社

 東条英機の終戦前の手記が発見されたというニュースを見ました。
 東京裁判で死刑になった7人のうち、ただ1人の文官だった広田弘毅を描いたのが、この作品です。彼は外相、首相を経験しましたが、一貫して戦争を回避すべく努力しました。例えば、昭和10年、協和外交の一環として中国の在日公使を大使へ昇格させたときは、軍部を出し抜き、米英独など列強にも先んじた英断を下しました。結局、これに反発する陸軍は南京大虐殺へと暴走し、広田の努力は無に帰すわけですが、列強は日本に追随して公使を大使に昇格させ、中国の地位は向上しました。外相の仕事が陸軍を抑えることだった当時、その責務を果たしたばかりか、日本の主権を行使して、他国を利することもできた政治家でした。
 A級戦犯には軍部だけでなく、どうしても文官が必要でした。その文官に、和平に尽力した広田が選ばれたのは、何と皮肉な運命でしょうか。彼は、自分の死によって天皇の戦争責任が回避できると考え、一切の申し開きをせずに処刑されたようです。
 畏敬する故司馬遼太郎氏もおっしゃっていたように、昔の日本人にはすごい人がいたものです。それが、どうして……と思わずにいられませんが、司馬氏がご存命なら、現代日本に対して、どんなことをおっしゃるのでしょうか。

本当に立派な人

2008-08-12 11:47:23 | コラム
 地方の新聞を見るのは楽しいですが、最近、気づいたのは、共通の記事が多いことです。つまり、地方紙A新聞と、別な地方の地方紙B新聞に同じ記事が出ているといったことはよくあります。地方新聞社が、すべての紙面を埋めるだけの取材網や資金を持っているわけはないですから、記事を購入するシステムができているのは当然でしょう。
 今日の朝刊で読んだ「きょうの人」欄なども、いくつもの地方紙に出ていると思います。終戦記念日が近づいたせいか、沖縄戦犠牲者の遺骨収集を続けるボランティアさんの記事でした。具志堅隆松さんは那覇市で医療機器の修理業の傍ら、週末には、ガマで亡くなった人々の遺骨を掘り出しています。最初は頼まれてやっていたそうですが、もろくなって壊れた遺骨に出会ったとき、時間との戦いであることに気づき、頼まれなくてもやるべきだと感じたそうです。活動が家計を圧迫するほどであっても、「金があればいいってもんじゃない」と強がっているといいます。
 何でも金銭面から考えてしまう現代、具志堅氏のように、非業の死を遂げた人々への思いだけで活動することは素晴らしいと思います。大事件や大事故の記憶がすぐに風化し、そこで失われた人命の尊ささえ、簡単に忘れられてしまう時代です。地道な活動であっても、こういう活動に光が当てられることによって、戦争の悲惨さも語り継がれていかなければならないと思いました。
 新聞各紙がオリンピックで活躍する人に注目するのは結構ですが、私たちの身近で、自分のためでなく他人のために、人知れずコツコツと活動している人、私は、それが本当に立派な人だと思います。

ソウルメイト

2008-08-11 12:12:25 | コラム
 かつてボランティアをしていた頃、素敵な女性と会いました。彼女は、病院ボランティアの他に、命の電話などで活動していたこともあるベテラン?でした。私が食事介助してもうまくいかない老婆でも、いとも簡単に口を開かせ、優しく応対している姿は、マリア様のようだと思うほどでした。
 メールのやりとりをするうちに、彼女のことをいろいろ知りました。そして、彼女にソウルメイトと呼ぶ異性がいたことを教えられました。どの程度の関係だったのか、そこまでは知りませんが、相当に苦悩したことは確かなようでした。
 当時の私には、配偶者のいる主婦が、そのような異性と付き合うことが理解できませんでした。彼女を美化していたこともあるでしょうが、露骨に言えば、彼女が不倫をするような人だとは、どうしても思えなかったのです。そんな私を、彼女の方でも理解できないようでした。
 メールが途絶えて数年になり、その間、私の環境も大きく変わりました。そして、今なら、彼女のことが、よく理解できます。私もソウルメイトと出会いたいと真剣に思います。今の環境は壊せないけれど、長くもない人生、このままでは淋しすぎます。せめて、ソウルメイトと過ごす時間があっても許されるという気がしています。自分の環境からだけ言えば、身勝手な考えではないと思うのです。

帰省

2008-08-10 12:46:04 | コラム
 これを読んでくださっている方の中にも帰省する方、帰省中の方がいらっしゃることでしょう。私も一昨日の夜、休暇をもらって帰省しました。
 思えば数十年の間、ゴールデンウィーク、お盆、年越しなどで、毎年数回は帰省してきました。あるときは満員の列車に揺られ、あるときは渋滞にイライラしながら、それでも帰省を続けてきたのには理由があります。
 私は末っ子で、両親に可愛がられました。私が大学入学を機に上京する折、母は卒業したら帰ってきてほしいと懇願し、私もそのつもりでした。しかし、就職して関西に配属され、その後、転職して東京で暮らすことになり、母との約束を守ることができませんでした。私は、その罪滅ぼしのつもりで、帰省を続けてきたのです。そのために失ったものもたくさんあります。「マザコンだ」と去って行った人もいました。
 帰省して何をするわけでもありません。老いた両親の手伝いをしたり、一緒にテレビを見たりしている毎日です。正直なところ、もっとやるべきことがあるのになあと時間を惜しむ気持ちになることもあります。でも、自分にとっても気分転換になり、生活の場を離れて客観的に自分を振り返ることができるという面があります。そして何より、今回もまた両親と過ごせることを喜ばなければならないと思うようにしています。あと何回、こんな時間が過ごせるのかと考えると、この先、そう何度もあるとは思えません。
 私にとって、故郷は両親あってのもの、両親がいなくなれば、もう帰省することはないでしょう。帰省の起源は中国にあり、「省親」、つまり、地方出身の官僚が故郷に帰って親を気遣うということだそうです。
 

天才

2008-08-09 11:36:19 | コラム
 先ほど、赤塚不二夫氏の葬儀でタモリ氏が読んだ弔辞の全文というものをネットで拝読しました。実は白紙だったという情報もあるそうですね。それにしても、心打たれる内容でした。
 私も赤塚漫画で育った世代です。漫画雑誌やテレビアニメで、抱腹絶倒した覚えがあります。笑いすぎると涙が出てくるという経験も、赤塚漫画で初体験しました。弔辞の中には、赤塚氏が、俳優のたこ八郎氏の葬儀で、高笑いをしつつ涙を流していたという一節がありました。タモリ氏の才能を見抜いて居候させた話も有名ですが、スケールの大きな人だったことを改めて感じます。
 弔辞の最後で、タモリ氏は、赤塚氏に感謝の言葉を述べたことがないと告白しています。それを口に出すことで、他人行儀な空気が流れるのが嫌だったと言います。同様に、赤塚氏も誰かにそんな話をしていたそうです。つまり、二人は互いのことをよく理解し、常に気遣っていたのですね。私は、二人とも天才だと思っています。天才と言えば、何か傍若無人というか、傲慢で鼻持ちならない人物を想像してしまいますが、この二人には、対極のものを感じます。素晴らしい人間関係だと思います。
 タモリ氏は「私も赤塚作品のひとつです」と弔辞を結びました。これは、赤塚氏への、この上ない感謝の言葉ということになるでしょう。二人の天才の出会い、奇跡のようなその一瞬に思いを馳せました。