-今日の独言- 歌枕の多きこと
図書館から借り受けてきた「歌ことば歌枕大辞典」を走り読みしている。まあ正確に言えば見出し語ばかりを読み飛ばしているようなものだ。それにしても歌枕となった語=地名の多いことに半ば呆れつつ感嘆。「赤城の社」「明石」と始まって「青墓」「青葉の山」まで、「あ」の項だけで60語。このぶんだと1000に届かずとも500は優に越えるだろう。平安期の能因や西行、江戸期俳諧の芭蕉や蕪村らは旅を友とし歌枕の地を訪ね歩いているが、殆どの歌人は現にその地を踏むこともなく脳裡に描いた想像上の地図のなかで詠み込んできたわけだから、これほどの多きを数えるのも別して驚くにあたらないのかもしれない。
<歌詠みの世界-「清唱千首」塚本邦雄選より>
<冬-12>
花と散り玉と見えつつあざむけば雪降る里ぞ夢に見えける
菅原道真
新古今集、雑、雪。大宰府詠。承和12年(845)-延喜3年(903)。参議是善の子。宇多・醍醐天皇の信任厚く、右大臣に昇ったが、藤原時平の讒言にあい延喜元年(901)、太宰権帥に左遷され、配所で没。菅家文章・菅家後集に詩文、類聚国史・三代実録の編著。新選万葉集の編者。
歌意は、この筑紫でもやはり雪は花のように舞い散り、庭に敷いた玉石のように見える。そうして私の目をあざむくので、雪の降る郷里の里を夢にまで見たことよ、と望郷の想いが強く滲む。
邦雄曰く、道真集に見える大宰府詠は、自らの冤罪を訴え、君寵を頼む述懐歌が多いが、この歌は例外的に、筑紫に降る牡丹雪を眺め、その美しさに都の雪景色を夢見たという、むしろ歓喜の調べである、と。
われのみぞ悲しとは思ふ波の寄る山の額に雪の降れれば 源実朝
金塊和歌集、冬、雪。建久3年(1192)-建保7年(1219)。鎌倉三代将軍。頼朝の二男。正二位右大臣。鶴岡八幡に正月拝賀の夜、甥の公暁に殺された。和歌を定家に学び、家集に金塊和歌集。
実朝には、「社頭雪」という題詠の「年積もる越の白山知らずとも頭の雪をあはれとも見よ」に代表される、白髪の老人ならぬ若き青年が、老いの身にやつして詠んだ老人転身詠があり、この詠も同種の趣向とみえるが、若くして諦観に満ちた運命の予感を潜ませているのだろうか。
邦雄曰く、崎鼻の雪、波の打ち寄せる小高い山にしきりに降る積もる雪を遠望して、何を「悲しとは思ふ」のか。しかも初句「われのみぞ」と限定するのか。無限定、無条件の述志感懐は、ただ黙して受け取る以外にない、と。
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