モノと心の独り言

コミュニケーション/メディア/コミュニティ ココロの建築家になりたいと・・・ 

『モノと心の独り言』 解題

2007-05-30 06:33:14 | ブログ「モノと心の独り言」のご案内
この散文は、「モノと心の関係を知りたい」と
建築科の卒業を延期したときの想いをひきずってきた未練ですが、
なぜ「モノと心の独り言」とつけたのか、今頃になって気がつきました。

’心がモノを・・・’では、観念論となり、
’我思う、ゆえに我あり’のデカルトも、実はこの範疇。
意識される視点から観察できることの因果関係を組み立て、再現性を確認する近代科学もまた、
意識できないこと、感知されない出来事は考慮にも検証もできないので、近代的な思考の限界内に留まってしまいます。

’モノが心を・・・’では、唯物論、
これもマルクスというよりは、人をミクロに生物学的・解剖学的にモノと機能にわけ、物理的・化学的な説明を限度なく続けることになる。進化論でも適応論でも、なぜ生まれたか、なぜ変化してきたか、その誕生・分岐を再現することはできていず、要因を後付けるしかない。身体を生物学的に解剖し、ゲノムまでにたどりついても、また身体の周りを拡げつづけて、アミノ酸のなれの果てを考えても、なぜ生命が生まれ生きつづけようとするのかは、分らない。

そこでモノの見られ方、感じ方から語れば、現象学の展開をたどることができる。
初期の認知科学は、意識の塊を仮定して、そのやり取りをキャッチボールのように意味や指示をやり取りすると考えると、コンピューターの情報交換にぴったりだった。
しかし、複雑な状況を瞬時にコンピューターがフラクタルに集中処理して対応できる分野とスピードは限界があった。身体でも全ての知覚信号を脳に集中して処理して行動しているのではなく、臓器・筋肉・循環系など、それぞれ刺激に対応していることも分ってきた。
他方、アフォーダンスのように対象の見えがかりの方に意味を持たせて、対象が主体に意味を喚起させると考えておく方法もある。その人の身体の動作にかかわる意味もあるし、メタファーとして、帰属する人と共有する概念的な印象まで拡大する考え方もある。脳を中枢とした情報処理では間に合わない動物的な知覚・反応・運動を、言語の違う人同士が共有していることも分った。
しかし、人の精神生活は言語生活により、生まれ・育つ過程でぞれぞれに個人化してしまう。帰属集団・機能集団に分類しようとしても、現代のように、個人が多くの集団に関わりそれぞれの場でで多くの機能を果たしてゆく過程で、個人個人で対象への対応が経験的に分かれてしまう。メタファー自体も、その共通性が失われ、価値基準が多様になると、日々、アクセス数・売り上げ数のランキング、期待という予想感情の集計場という相場などの結果が、社会の規範となってしまう。

だから今は、このモノ=対象としての状況との対応と、
心=精神分析的な主体の症状としてとの相互関係を、個別の現場で起きる状況と意識の反応の手がかりを映像・音・文字などで記録し関連づけてゆくのが、必要だと考えられる。

対象としての状況の中にあるのは器質的な私である。
その私が状況と関わる精神分析的な現実界としての私である。
その状況にいる私の精神分析的な構造が現実界・象徴界・想像界である。これは、それぞれが独立した機能を持っているのではなく、状況にいる私が関連付けてしまうトポロジー的な関係を表している。
それは、外部刺激・知覚・身体運動系・循環系・神経系を通じて活性化される、状況の中の私の関係である。
人間の脳の大きさは、その関係する情報をフラクタルに組み立てる余地である。
物理・科学的には状況と呼応する神経細胞の活性化であっても、
精神分析的には、想像界で意識化される個人的な意味であり、象徴界に眠る社会的な価値・メタファーであり、現実界は、状況に対する行為を知覚するインターフェイスである。
私たちの個人的な意識が自覚されたのは、西欧ではルネッサンスと呼ばれる時代からではないか?それまでは社会としての意識、つまり象徴界の働きがより多かったのではないか?状況との関わりを情報の交差点である脳において細かく観察できる技術が発展してきてみると、この意識は出来事であって、何かの情報の塊ではないのではという疑問が広がってもくる。


主体の二重化として、器質的主体(Organic Subject) と 精神分析的主体(Psychoanalytic Subject)
を斉藤環著「文脈病」によって並置することによって、この意識化にともなう活性化のトポロジーに気が付いた。   生存空間での、主体の二重化による、刺激から意識への流れ


そして今更だが、’モノと心の・・’と並列した理由がわかった。
その時々の、よりこだわりのない、’独り言’として、
主語述語・・・の文の構成、話題のレイヤーなどを無視し、
自動筆記のように、分りにくい散文を書いてきた。
まず身体が何かを吐き出していて、それが言葉で、聴かれてしまう、’独り言’もどきのなかに、何かの言い違い・下記違い・構文の齟齬・日常の使用方法との差異などに気づきを拾えることもある。

また、はた迷惑なことだけど、読まれることを意識するまえに、吐き出して自身をすっきりさせる。ブログにさらして、それを自分で読み直し、書き直し続けてみる。検索されアクセスされた記録からもう一度昔の文を読み返す、などなどと、
それはそれで面白い。(やはり一人よがりのことですが)
凝縮できると詩ともなりえるのですが、言葉の背景の飛躍を楽しんでもらうには、言葉と現実のトポロジーを関係付けられる読み手の体験が必要となる。
これでは、自身の意識状態をただ外にさらしているみたいですが、
逆にいえば、
自身の意識というのは、その状況に浮遊するメタファーをある姿勢で取り組んで変化している状態でしかないのでしょう。

2004年9月の書き出しでは、なるべく自分のコトバでと考えていましたが、
   ブログの書き始め 
突き詰めると、それぞれの分野のコトバになり、その分野間を横断するがゆえに、
散漫・散文に留まります。
これもまた、「心の社会」M.ミンスキーと「肉中の哲学」の間を、G.スペンサーの「形式の法則」的に指し示しながらの、自律分散的な足跡でしょうか。
      「行為の代数学」フラクタルな自己組織化の基点として
この指し示しを繰り返す’独り言’の微妙な位置が、ルーマンの生の動機付けで見えてくるのでしょうか。
   社会システム論のルーマンによる”愛”、生の動機づけ、
数すくない言葉なら、’色即是空・空即是色’
これは、生の空間・地上でこそ価値がある。

ということで、気が付いてみれば最近は「表象検索から空間検索へ」
身近なこと、生活空間の出来事からの散文、独り言に落ち着いているようです。
問い続けられることは、状況の中で問われ続けているという感性をもち続けていることで、その応答こそが地上の喜びであり、その弛緩と興奮の繰り返しが、生きていることなのでしょう。心臓の鼓動・息の呼吸から、目覚め活動し寝入るまで、
朝と夕、夜と昼、を繰り返す、日々の生活です。

さて、今日も、おはよう!
と対象に声かけすることで、一日が始まります。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿