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被災放送に、TV時代・広告代理店時代の終りを見る

2011-03-20 05:20:33 | コミュニケーション-メディア
放送局は企業からの広告費で運営されているが、各局は、独自の方針で、取材と編集と発信を続けている。系列局といっても、番組配給のための下へ流す組織となっている。
しかし放送局は、すでに一方通行のものではなく、電話・FAX・ケータイメール・Twitter・Facebook・Webサイトなどの交信手段を使えば、情報を集めるところにもなっている。投書・FAX・メールの読み上げや視聴者参加番組という次元を越えて、公的に提供された大容量の発信チャネルと、IPネットワークによる情報収集・処理力を活かせば、すでに政治力をもっている時代だ。

今、人の共感力と行動力を信じて、被災現地からの情報と、支援可能地からの対応を、循環させることができれば、知られない・知らされない人の命・人の努力・資源の停滞や消耗を、防ぐことが出来るのではないか?
今、日本人がパニックに陥らなかったのは、その、ラジオ・TV・ポケベル・PC・ケータイにより、多様な交信が、お互いのストレスを発散する相手があったからではないのか?そのエネルギーを、日常の生活・事業に加えた支援へと、振り向けるには、キー局同士の、分担が必要ではなかったのか?

その分担を主導するのは、放送局自身ではない。スポンサーの了解を得、各局の放送枠・広告枠に総合的に関与できる、大手広告代理店の役割ではなかったか。スポンサーの広告を代理するのが使命であれば、今こそ、スポンサーの社会性・信頼性を訴える好機ではなかったか?

Webとは別の規格にてデジタル放送化を独自に進めて、地上波デジタル化によりデジタルTVへお買い換えを進めた。次はネットに繋ぐための機能が統一かされないのは、日本の放送局と家電メーカーの思惑だったのか?広告代理店は、すべてのモニターという出口にたいする事業へと転換しているのだろうか?それは、「電子書籍」という編集されたデジタルコンテンツの流通モデルなのか?ソーシャル・メディアという課金システムは、広告によるメディア事業とは別のモデルへの対応は、どこまで進んでいるのだろうか?しかし、少子・高齢化の逆ピラミッドが更にすすむ日本において伝達の太いチャネルであるTVに、スポンサーを確保しながら、双方向化に対応したする広告代理店の事業モデルは、情報システム基盤づくりへと進んでいるのだろうか?

通信・交通・運輸、人のコミュニケーション・人の行き来・物の配分を、調整する技術と運用が、政治の時代になった。放送も、政府と事業者の広報機能とは別の次元にはいっている。教会からの役割交代が啓蒙時代の報道であり、近代科学信奉による検討・批判するアカデミーの権威を懐かしむのは、一面が残っていてもいい。近代メディアの主役、ラジオ・映画・TVの発信モデルは、デジタル・ネットワーク時代の情報環流モデルがその下層にに入り込んで、メディアとコミュニケーションが連続氏・相対化されたものになってきている。
そこで、個別スポンサーの寄付金や支援行動は、自己宣伝としての範疇を超えない。被災民と一緒に悲しんだり、支援者と一緒に、支援対策の不備を嘆いたりしていること自体が、TV時代のポーズなのだと、なぜ自覚しないのだろうか?

被災直後は、、日本の電通・博報堂など、主要スポンサーにより番組・CM枠を、放送局の違いをこえて調整する能力がある広告代理店が、被災地からの情報を伝え合う機能を各放送局に分担させて、そのチャネルの多さを発揮でる絶好のチャンスだった。事業と社会行動が一致できた一週間だったはずだ。何故、個別視聴率のためのスキャンダラスな映像や、専門家の担ぎ出し、原発集中報道・・・などを続けさせたのか? 長期的には、各放送局が、取材・制作力を失って、横並びの簡易な番組づくりに走らせたのは、誰なのだろうか? 分業・外注体勢で動かなかったのか?それぞれの現場の個人の感性と思考と実行力が、なぜ発揮されないのか? もとをたどってゆくと、大手広告代理店業の大きなチャンスを、見逃したのではないか? マスメディアは、社会的責任を問う立場ではなく、スポンサーの方を向きながら、スポンサーに答えられなかったという、事業破綻をさらけ出しているのではないか?
そして、パーソナル・コミュニケーション、パーソナル・メディアが、爆発する現代は、マス・メディアの役割を、マス・コミュニケーションへと切り替えるチャンスなのだ。そのスポンサーをまとめられるのは、このような社会的規模の被災時が、チャンスだったのに・・・・


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