日本棋院、将棋会館もそうでしょうが対局が佳境に入る頃には話声などは無く石音・駒音しか聞こえないそうです。(将棋の場合、始まりは結構話もするそうですが、午後ともなればとてもそういう余裕は無いらしい)
人あって深山幽谷のごとく・・・と言うことは時折聞こえる石音はあたかも樵の斧の音(それではサボリ過ぎのランバー)!。
想像は出来ますが見たり聞いたわけではないので”だ、そうです”と言うことになります。
碁会所などではアマ・ザルは自由にいろんな人がいろんなことを言いながら打っています。
「ウルサイ!」と言いながらもいつの間にか話の中に加わっているような人もいます・・・が、それでもいつもウルサイわけでも無いので一応”時による”と言うことにして置きます。
うるさいのも時による
打ちながら世間話をするわけではありません・・・そういう事の方が少ない。
私の知っている例では、ある会社のOBの定例囲碁会の席では週日の午後ほぼ貸し切りに近いのでたいていのことは許されますが、仲間同士で話をしながら打つことは少ないのです。
まず初めに、嘗ての同僚の消息、仲間や家族の健康の話題などを中心に対局前に話が交わされるのです。
ひとしきり情報交換した後で「では打ちましょうか」になるからそういう意味では品が良いグループだと思います。
(若い頃は他人ごとですが、聞こえて来るのはいつも「健康」「病気」「消息」の話題ばかりなので、『たまには他の話題は無いのかな』と聞いておりましたが、この年になるとそういうことが自然に分かるようになります・・・年をとりまして)
では対局中は深山幽玄かと言うと、流石にアマですからそこまでは行きません・・・町場の雑木林くらい?。
このグループは関西系の人が半分近くいますから、交わされる会話に其々のお国言葉が混じりまして、関西系は他の地域の言葉よりも目立ちます。
話の展開にもどこかしら郷土色があり、使われる慣用句にも多少の違いがあるように感じています。
例えば「ここに手洗う手水鉢」;初めて聞いた時は驚きました。
発音は「ココニテアロウ、チョウズバチ」手水鉢は意味がわかるのでアロウ=洗うと言う関連で想像出来る・・・と言うことで意味は単に「ここに手があるぞ」
状況としては対局相手は気がついていないがここには手があると言う意味で、そこで手段を発動する時に「ここに手洗う手水鉢」などとさらりと呟いて手洗いに立つ。
現在では碁会所で石を打つ前に手を洗うどころか、石もアルコール消毒をした方が良いかもしれませんが、当時はインフルエンザは流行って居ませんで、これはなんとなく人形浄瑠璃調?あるいは上方落語調。
関西系の訛りがある方が似合いそうな言葉だったようです。
Y口さんの場合は関東出身ですからこの言葉は彼の得意フレーズではありませんが、ちょっと有利になりそうな手があるとそれを打つ前に「ちょっと失礼」が出る・・・手洗いに立つのです。
「手洗う手水鉢」的行動を実行。
確かに良い手があると感じた時に直ぐに打って失敗する経験は誰にでもありますから、Y口さんもそういう失敗の繰り返しの結果、打つ前に手洗いに立って一旦頭を冷却しようとしているのは明白・・・従ってY口さんが対局途中で手洗いに経てば、彼は自分が優勢あるいは優勢に立つ岐路に立っていると感じている事を示唆していると言うことになります。
マア判断が正しいかどうかは別の問題でもあるので手洗いは勝手に行ってくれです・・・一局に2回も、2局続けて手洗いに立ったり・・・もう調子が良い日はまさに小便小僧ですね。
これは相手にとってはまさに癪に障る恣意行動(シィー行動?)。
実際一局で何度も対局中に中座されて待たされては、一人碁盤の前でカッカ。
この辺の呼吸を本人も承知していて、手洗いパフォーマンスにもなっている。
相手に「この辺りで手洗いに行っても良い?」とか「これは手洗いに行って考えなくては」と露骨な発言となる。
言葉とパフォーマンスで攻めて来る。
人あって深山幽谷のごとく・・・と言うことは時折聞こえる石音はあたかも樵の斧の音(それではサボリ過ぎのランバー)!。
想像は出来ますが見たり聞いたわけではないので”だ、そうです”と言うことになります。
碁会所などではアマ・ザルは自由にいろんな人がいろんなことを言いながら打っています。
「ウルサイ!」と言いながらもいつの間にか話の中に加わっているような人もいます・・・が、それでもいつもウルサイわけでも無いので一応”時による”と言うことにして置きます。
うるさいのも時による
打ちながら世間話をするわけではありません・・・そういう事の方が少ない。
私の知っている例では、ある会社のOBの定例囲碁会の席では週日の午後ほぼ貸し切りに近いのでたいていのことは許されますが、仲間同士で話をしながら打つことは少ないのです。
まず初めに、嘗ての同僚の消息、仲間や家族の健康の話題などを中心に対局前に話が交わされるのです。
ひとしきり情報交換した後で「では打ちましょうか」になるからそういう意味では品が良いグループだと思います。
(若い頃は他人ごとですが、聞こえて来るのはいつも「健康」「病気」「消息」の話題ばかりなので、『たまには他の話題は無いのかな』と聞いておりましたが、この年になるとそういうことが自然に分かるようになります・・・年をとりまして)
では対局中は深山幽玄かと言うと、流石にアマですからそこまでは行きません・・・町場の雑木林くらい?。
このグループは関西系の人が半分近くいますから、交わされる会話に其々のお国言葉が混じりまして、関西系は他の地域の言葉よりも目立ちます。
話の展開にもどこかしら郷土色があり、使われる慣用句にも多少の違いがあるように感じています。
例えば「ここに手洗う手水鉢」;初めて聞いた時は驚きました。
発音は「ココニテアロウ、チョウズバチ」手水鉢は意味がわかるのでアロウ=洗うと言う関連で想像出来る・・・と言うことで意味は単に「ここに手があるぞ」
状況としては対局相手は気がついていないがここには手があると言う意味で、そこで手段を発動する時に「ここに手洗う手水鉢」などとさらりと呟いて手洗いに立つ。
現在では碁会所で石を打つ前に手を洗うどころか、石もアルコール消毒をした方が良いかもしれませんが、当時はインフルエンザは流行って居ませんで、これはなんとなく人形浄瑠璃調?あるいは上方落語調。
関西系の訛りがある方が似合いそうな言葉だったようです。
Y口さんの場合は関東出身ですからこの言葉は彼の得意フレーズではありませんが、ちょっと有利になりそうな手があるとそれを打つ前に「ちょっと失礼」が出る・・・手洗いに立つのです。
「手洗う手水鉢」的行動を実行。
確かに良い手があると感じた時に直ぐに打って失敗する経験は誰にでもありますから、Y口さんもそういう失敗の繰り返しの結果、打つ前に手洗いに立って一旦頭を冷却しようとしているのは明白・・・従ってY口さんが対局途中で手洗いに経てば、彼は自分が優勢あるいは優勢に立つ岐路に立っていると感じている事を示唆していると言うことになります。
マア判断が正しいかどうかは別の問題でもあるので手洗いは勝手に行ってくれです・・・一局に2回も、2局続けて手洗いに立ったり・・・もう調子が良い日はまさに小便小僧ですね。
これは相手にとってはまさに癪に障る恣意行動(シィー行動?)。
実際一局で何度も対局中に中座されて待たされては、一人碁盤の前でカッカ。
この辺の呼吸を本人も承知していて、手洗いパフォーマンスにもなっている。
相手に「この辺りで手洗いに行っても良い?」とか「これは手洗いに行って考えなくては」と露骨な発言となる。
言葉とパフォーマンスで攻めて来る。