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なんとなく囲碁夜話

私は囲碁が好きだ。初めはなんとなく、ニアミスを繰り返し、深みに嵌ってしまった。

日々是好日

2009-12-21 00:01:28 | Weblog
 「喫茶去」を調べていてそれが禅語であることは昨日書きました。
 禅語を検索して一覧表のようなリストを見ていますと、難しい漢字が並んでいると言うのが第一感・・・漢詩のような雰囲気があったり、対聯(こういう名前だったと思いますが)みたいに韻を踏んだ対句になっているものもあったりして、それだけで有りがたい感じが漂うのです。
 言葉は老子の物があったり、高僧の言葉だったりしていますが、意味としては複雑な事を単純な真理で表わすような感じ・・・何にも分かっていませんので、あくまでもイメージ。

 さて、文字を読んでみてなんとなくわかるようなものもあります。
 例えば「破草鞋」:多分草で編んだ草鞋が擦り切れるくらい歩いて探すのでしょう・・・悟りの境地などとは程遠いのですが、なんとなく言わんとする意味が推測できるような気がします。
 色紙に書かれている言葉で良く目にする言葉もある。
 「日々是好日」:第一感穏やかな印象、毎日を”おまげさまで”という気持ちで暮らす・・・まあ単純に言えばそういうことでしょうが、そうそう簡単に言える日ばかりも無いので実際には相当な覚悟が出来てなければ実行できない事でしょう。
 この言葉の説明に良寛和尚の言葉が引用されていました:「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬが良く候」
 
 ここで思い出によぎるものはありました。
  ラジオ番組で良寛特集みたいなものを聞いて、生噛りの言葉の知識でそれを使ったのでしょう・・・恥ずかしいですが。
 昔通っていた碁会所の風景、常連さんのことなどを「碁会所スケッチ」として書き留めていたことがありまして、数年前にブログで「銘銘伝」の形で書いたことがあります。
 K畑先生が級位の方のリクエストで勉強会を開いていた時にお手伝いをしたことがありまして、そのメンバーの一人が31文字の歌が好きな方でした。
 その方の囲碁に関する三十数首の手作りの小さな歌集を戴きました・・・相当昔のことになります。

 ご主人に「続ければ進歩するよ」と励まされて、週に2,3回碁会所に通っていたのですが、時としてからかわれて・・・
 「初段の日いつやと 夫のからかうを 聞くうちが花 ゆるゆる行かん」
 「趣味もてと 我に囲碁を奨めたる 夫が此の頃石持たぬなり」
   対等に打てるのが目標でしょうが、実際にそうなると案外ご主人が逃げ腰になったりして・・・そういう問題もありそうです。
 さて、だんだん囲碁の魅力にはまって行っても、夕方になるとそこは主婦ですから、時間が来ると帰らなくてはいけません。
 「碁に負けて 顔火照るまま急ぎ来ぬバス停にバス発車の直後に」
 これは指導碁についての感想だろうか
 「見落として あっさり諦めて 投げられて もらいし勝を  持て余すなり」
 「腑に落ちぬ 一手続くも おだやかな 面を変えずに 応え打つ上手」
 腑に落ちない手を打っているのは上手か下手か・・・たくさん置いた碁の上手は怪しげな手を打つこともあるのですが、そんなことでは指導碁になりませんね。

 ところでこの方は非常に性格が真面目、何かを学ぶのに真面目さは大事ですし人間性と言う意味では大切なことです・・・が、時に真面目過ぎるのも・・・事・勝負を争う、あるいは目前の勝敗だけでなく将来の棋力と言うことになると、やや違う要素も必要な気がします。
 例えば対局中に自分の大石が危険に陥った時、その石が生きるとか危険から脱出することが大事なことですが、それは単にもがく事とは少し意味が違うと思うのです。
 凌ぐ手があるのか無いのか、可能性があるのか、相手も素人だからやってみなければわからないという面はあるにしても、ただ打っている(もがいてる)だけなのか、、、。
 どういう風に考えようと投了すれば負けは決定するので投げられない?。
 最後まで頑張るのが良い事なので、途中で投げ出すのはいけない事?
 最善を尽くすことが相手に対してもマナー違反にならない?
  確かに、まれには相手に信じられないようなミスが出たり、あるいは考えてもいなかったようなサプライズ的な手が生じたりすることはあるにはある・・・無いとは言えない。
 でも、こういうことは勝敗に関してはそういう可能性があったとしても、それが棋力アップとどういう関係にあるかは難しいですね。
 ましてや指導碁的な碁では・・・
  横で記録を取っていたりして「適当なところで投げて、並べ直して振り返った方が良かったです」という感想も必ずしも当人にはすんなり受け入れられるとは限らないのです。
 実際には投了已むなしの場面から、ではどうすればそうならずに済むのかを考える・・・更に遡る・・・そういう事が大事なのに。
 「敗けること」と棋力とは関係ないことが多い、逆に「敗けることで強くなる」ことだってある・・・「タイミングの良い投了」が身に着くことも大事。
 そういう事って「上手が下手に訳の分からない事を言っている」感じかも知れません・・・何回か話した筈ですが説明能力不足でしたので、何やら禅問答っぽくなったようで、当人から「では、どうしたら良いのですか?」と反対に聞かれたことがあります。
 「勝負事ですから負ける時は負けるのです。負け碁を勝とうするといろんな悪い面が出そうです」みたいな分かったような分からないような説明をしたことがあります・・・『説明になっていない?』
 (不利な碁を勝ちに持って行くと言うこととは違います)
 おそらく、その時のことを詠んだのだと思いますが、説明不足が恥ずかしい。
 「敗ける時は 敗けるがよしと 言われしを 思い出しては 噛み締むるなり」。
 
 やっと良寛様に戻って来ました。
 素人ごですから勝ったり負けたりで楽しんで。
  碁を打って「日々是好日」。
 負け方で棋力向上に資するものもあるだろうし、何より打つことが楽しければ。