昼休みの徒然にネットで「囲碁格言」を検索、プリントして読みまして、、、
人生とか生き方に関する格言ですと、「そういう風に生きられたら立派」とか「それも一つの生き方」と言う風なもの、処世訓などが出て来る。
囲碁の場合は「HOW TO」的な事を的確に指しているような気がします。
そいう意味では上達の指針であり、一つの目標みたいな感じですが、そうであるから普通のザルでは到達出来ていない問題も含んでいるとも言えるような気がします。
格言には二つの種類があって、一つは技術・手法的なもの、もうひとつは判断とか考え方を言っています。
それと、格言コーナーにもいろいろあって、格言の信頼確率が出ている物もある・・・つまり信頼率100%では無いわけで、例外と言う部分があることを認めている。
格言はノウハウであり、目標であり上達の指針であるのですが信頼率が常に100%では無いと言う問題もある。
要するに格言を(定石もそうですが)覚えることだけでなく、その先で的確に使い分けることが出来るか出来ないかで上達の度合いが分かれるのだと思う。
昔の碁会所仲間でYさんと言う方がいまして、彼のお師匠さんがK泉さんで私の師匠がK畑さん・・・この二人が仲が良くてほぼ互角の棋力。
それにK泉さんには私も良く教えて貰いましたからYさんとは従兄弟弟子みたいなもので、彼とも良く打ちました。
手合いは向う2子か3子・・・格言と言うと彼を思い出すのです。
置き碁ですから打ち出しは黒が景気が良いのは当たり前ですが、その辺りは彼はご機嫌で打ち進める。
一手打つたびにコメントが飛び出す「一間トビに悪手無し!そうでしょ?先生」
「私は先生ではありません」
「でも私に置かせる碁を打っているのだから先生です。先生は生徒に教えなくてはいけないのですよ」
これは素面での会話です・・・相当相手の機嫌が良い。
「一間トビに悪手無しでしょ?」
私:「一間トビも時による」
「ツケにはハネよ、オッ伸びましたね。ハネには伸びよ」
(私)『うるさいなー』
「オヤッ?先生。厚みに近づきすぎてはいませんか?。アーそうか焼き餅を焼いていますね?」
こういう感じで進んでいくのですが、格言を守って打っている割に手合いが変わらないと言うことは、勝率は五分・・・格言のおかげで50%勝っているのか、格言に忠実なのに50%しか勝てないのか?・・・さあどっちなんでしょう。
答えは格言にはなさそうです。
格言と雖も常に正しい物は少ない筈で、正しい使い方で正しい組み合わせをしないと効果が無い、あるいは逆効果があるでしょう。
病気を治す薬剤だって、効果は時によるだろうし組み合わせ方だってあり、功罪は薬剤に有るのでは無く、使い方に有るわけで、加えて毒が薬になることもある。
そういう意味ではへそ曲がり的な見方も効果がある時も・・・。
ア 「アキ三角は愚形の見本」:見本だから100%どうにもならないのかと言うと、たまにはアキ三角が強いこともある気がする・・・そんなことを言っているからいつまでもヘボなんでしょうが。
中には『アキ三角などヘボの打つ手は死んでも打てない』と言うような人も見受けますが、相手の読みに無い形として効果がある時だって・・・
イ 「石を取ってその碁に勝てず」:取らなきゃ勝てない時だってあるし、取ることが勝利の近道だってある。
但し捨て石作戦とか、振り替わり戦術とかがあるわけで、そういう事との比較を忘れて「鹿を追う猟師」になってはいけませんという戒めだと・・・でも私はまず「取ること」を考える・・・と言うことは人間性に問題があるのかな?
ウ 「馬面は形が悪い」:こういう言葉が載っていましたが、こういうのは初めて見ました。
「犬の顔」についてはそういうことは聞いていますから「犬の顔より馬の顔」なら分かるような気がします。
格言を無視したり反対の事をやったりするのです。
でも型に嵌って良い子で打つより私にはこの方が性に合っているのです。
もう少し品行方正なら勝率も多少は変わるような気もしますが・・・でもそれではせっかくの道楽の意味が無いので、このスタイルは変えにくい。
格言の方はこれからも断続的に続きを書きます(期待されていないかも知れませんが)。
人生とか生き方に関する格言ですと、「そういう風に生きられたら立派」とか「それも一つの生き方」と言う風なもの、処世訓などが出て来る。
囲碁の場合は「HOW TO」的な事を的確に指しているような気がします。
そいう意味では上達の指針であり、一つの目標みたいな感じですが、そうであるから普通のザルでは到達出来ていない問題も含んでいるとも言えるような気がします。
格言には二つの種類があって、一つは技術・手法的なもの、もうひとつは判断とか考え方を言っています。
それと、格言コーナーにもいろいろあって、格言の信頼確率が出ている物もある・・・つまり信頼率100%では無いわけで、例外と言う部分があることを認めている。
格言はノウハウであり、目標であり上達の指針であるのですが信頼率が常に100%では無いと言う問題もある。
要するに格言を(定石もそうですが)覚えることだけでなく、その先で的確に使い分けることが出来るか出来ないかで上達の度合いが分かれるのだと思う。
昔の碁会所仲間でYさんと言う方がいまして、彼のお師匠さんがK泉さんで私の師匠がK畑さん・・・この二人が仲が良くてほぼ互角の棋力。
それにK泉さんには私も良く教えて貰いましたからYさんとは従兄弟弟子みたいなもので、彼とも良く打ちました。
手合いは向う2子か3子・・・格言と言うと彼を思い出すのです。
置き碁ですから打ち出しは黒が景気が良いのは当たり前ですが、その辺りは彼はご機嫌で打ち進める。
一手打つたびにコメントが飛び出す「一間トビに悪手無し!そうでしょ?先生」
「私は先生ではありません」
「でも私に置かせる碁を打っているのだから先生です。先生は生徒に教えなくてはいけないのですよ」
これは素面での会話です・・・相当相手の機嫌が良い。
「一間トビに悪手無しでしょ?」
私:「一間トビも時による」
「ツケにはハネよ、オッ伸びましたね。ハネには伸びよ」
(私)『うるさいなー』
「オヤッ?先生。厚みに近づきすぎてはいませんか?。アーそうか焼き餅を焼いていますね?」
こういう感じで進んでいくのですが、格言を守って打っている割に手合いが変わらないと言うことは、勝率は五分・・・格言のおかげで50%勝っているのか、格言に忠実なのに50%しか勝てないのか?・・・さあどっちなんでしょう。
答えは格言にはなさそうです。
格言と雖も常に正しい物は少ない筈で、正しい使い方で正しい組み合わせをしないと効果が無い、あるいは逆効果があるでしょう。
病気を治す薬剤だって、効果は時によるだろうし組み合わせ方だってあり、功罪は薬剤に有るのでは無く、使い方に有るわけで、加えて毒が薬になることもある。
そういう意味ではへそ曲がり的な見方も効果がある時も・・・。
ア 「アキ三角は愚形の見本」:見本だから100%どうにもならないのかと言うと、たまにはアキ三角が強いこともある気がする・・・そんなことを言っているからいつまでもヘボなんでしょうが。
中には『アキ三角などヘボの打つ手は死んでも打てない』と言うような人も見受けますが、相手の読みに無い形として効果がある時だって・・・
イ 「石を取ってその碁に勝てず」:取らなきゃ勝てない時だってあるし、取ることが勝利の近道だってある。
但し捨て石作戦とか、振り替わり戦術とかがあるわけで、そういう事との比較を忘れて「鹿を追う猟師」になってはいけませんという戒めだと・・・でも私はまず「取ること」を考える・・・と言うことは人間性に問題があるのかな?
ウ 「馬面は形が悪い」:こういう言葉が載っていましたが、こういうのは初めて見ました。
「犬の顔」についてはそういうことは聞いていますから「犬の顔より馬の顔」なら分かるような気がします。
格言を無視したり反対の事をやったりするのです。
でも型に嵌って良い子で打つより私にはこの方が性に合っているのです。
もう少し品行方正なら勝率も多少は変わるような気もしますが・・・でもそれではせっかくの道楽の意味が無いので、このスタイルは変えにくい。
格言の方はこれからも断続的に続きを書きます(期待されていないかも知れませんが)。