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「嗤う伊右衛門」を読む

2005-08-23 08:21:18 | 本と雑誌
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>>疱瘡を病み、姿崩れても、なお凛として正しさを失わぬ女、岩。
そして、その民谷家へ婿入りすることになった、ついぞ笑ったことなぞない生真面目な浪人・伊右衛門―。渦巻く数々の陰惨な事件の果てに明らかになる、全てを飲み込むほどの情念とは―!?愛と憎、美と醜、正気と狂気の物語。

私も遅まきながら初めて京極さんの本と出会った。

おどろおどろしい雰囲気を漂うものの、魑魅魍魎の類はほとんど出てこない。
ただ、ほんとうに恐ろしいのは人間の持つ、性(さが)業なのだと思う。

4世鶴屋南北のオリジナルは歌舞伎などで見られるように、
伊右衛門が自分の野心のため、出世のため、仕官できる家柄の娘との婚姻を望む。
しかし、子まであった岩が邪魔となり、毒を盛って惨たらしく殺めてしまう。
伊右衛門に捨てられた岩は恨んで伊右衛門にとり憑く。
もっとも、伊右衛門は良心の呵責によって幻に苦しめられ、狂死したとも見えるのだけど。

京極さんはその四谷怪談を人間の心の闇の恐ろしさ、人間の深層心理を突いたお話に変えてあって面白かった。

私はこの本を純愛物語として読んだ。
不思議な余韻の残る物語だ。

本に登場する岩は名は体を表すか、どちらかと言うと男に近いような頑固なまでに強い女性だ。
元々たいそう美しい女性であったが、美貌にも執着はなく自分が醜くなった(顔半分がただれててしまった)など、意にも介さない。
それがどうした、笑う者は笑えばよい。

端正な面差しを持ち、腕も立つ境野伊右衛門は、しかし、人には言えない暗い過去を持ち、以来、笑うこともない浪人であった。
人生になんの意味も見出しえないで、婿養子にと請われるままに岩と結婚する。

ただ、伊右衛門は誠実で心根が優しかった。
岩と伊右衛門、まことに性が反対のような気がする。

伊右衛門は長い浪々の孤独な身の上で、人の愛し方さえ知らぬ不器用者。
岩を気遣うあまり、岩の顔を正視もできず「すまぬ」を繰り返すばかり。

>>慈しみと哀れみ、そうした気持ちはー。
誹りとあざけりと、そうした気持ちに摺り変わる。
凡ては加減次第。その按配が伊右衛門には量れなかったのだ。

岩は自分の顔色ばかり見る夫に苛立った。

京極・岩は原作の運命に従うだけのお岩さんと違って常に行動的である。
岩は自分の姿には恥じることはないと思っているが、一緒に住む者はどんなに気遣いが要るかを知った。
伊右衛門は岩が離縁を口にしたとき、
>>俺のー 俺の気持ちは如何なるのだというのだー。
伊右衛門は困惑し、泣いたり怒ったりした。

これが男の純情か。
笑うこともなかった伊右衛門がここで激しく自己主張をしたのは興味深い。
岩も伊右衛門と出会わなければ気楽な一人身を貫いたろう。
こうして、二人は互いを深く想いながらもすれ違っていく。

人間はなぜ見えるものしか理解できないのだろう。

岩の思いは伊右衛門の幸せのみ。
自分は伊右衛門を幸せにはできぬ、ならば、身を引こう。
「どうして伊右衛門殿は幸せになれぬのじゃ」という岩の絶叫は心に響く。

伊右衛門は岩の本心を量りかね、悪意ある者のせいで引き裂かれ、生きて地獄に落ちた。

私は速読、飛ばし読みの悪い癖があるが、この本は至るところに布石がしてあるので慎重に読まないと面白さが半減する。
周到なミステリーなのだ。

ここから結末に触れています。
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最後に全ての謎は解け、驚愕の事実が明かされる。
>>”誰にも渡したくなかっったか”
そんなことが許されるものか。

>>生きるも独り。死ぬのも独り、
ならば生きるの死ぬのに変わりはないぞ。
”岩は俺がもろうた”

死ぬことでしか岩は伊右衛門のものにならなかったか。皮肉な。
伊右衛門は岩の骸に優しく寄り添い”嗤っていた”

岩が伊右衛門の元に戻った頃から、伊右衛門の顔には’嗤い’がよみがえっていたのだ。
狂気とも見える二人の姿は血の池に咲いた二輪の真っ白な蓮の花のように美しい。

桐の箱の中の二人を見て、役人が訳もなくはらはらと涙を流す。
これは読む者が感じる哀しさと同じ気持ちなのだろうと思った。