愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

生活改善のための政党のホットスポットはたくさんある!投票で参政権の行使を!一票の積み重ねこそ!その2

2013-07-21 | 日記

直近の投票率が発表されました。6.64%ということは、695万7434人ということになります。前回より(あくまで前回比です!)700万人の有権者が忌避しているのでしょうか? 

期日前投票と合わせると、39.57%ということでしょうか? 

まだ時間があります。投票率が過半数にも満たない時は、安倍自公政権の半年間の審判選挙として成り立つかどうか、です。安倍自公政権の正当性の根拠が疑われることにもなります。しかも一票の格差が出ることは明らかです。選挙後の評価も楽しみになってきました。このまま行けば、大変残念なことですが!

参院選投票率 6ポイント低下  7月21日 18時4分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130721/n60386710000.html

第23回参議院選挙は21日朝から全国4万8000か所余りの投票所で投票が行われています。総務省がまとめた午後4時現在の全国の投票率は27.21%と、前回3年前の選挙より6.64ポイント低くなっています。…男女別では、男性が28.75%、女性が25.77%となっています。各都道府県の投票率は、最も高いのが山形県の35.09%、次いで島根県の34.79%、鳥取県の33.72%などとなっています。逆に最も低いのが千葉県の22.42%、次いで埼玉県の23.99%、福岡県の24.03%などとなっています。一方、総務省は今回の参議院選挙の期日前投票について、全国の都道府県を通じて結果をまとめ、速報として発表しました。それによりますと、期日前投票を済ませた人は全国で合わせて1294万9984人で、有権者の12.36%が20日までに投票を済ませたことになります。これは前回3年前の選挙と比べて86万人余り、率にして7%増え、参議院選挙としては過去最高となりました。(引用ここまで 

では、政党選挙と初詣論について、以下の記事をご覧ください。愛国者の邪論は「神頼み」「仏様に手を合わせる」などと思想は持ち合わせてはいません!これはあくまで日本人の宗教心とその行動と政党政治がダブっているからです。要するに神社仏閣にお参りする程度の感覚で政党政治を観ているのではないかという推論です。 

そうであるならば、政党政治は、もっとご利益を強調すべきです。そのことを踏まえた宣伝と活動(布教活動)をすべきです。その点でお布施としての政党交付金は、江戸時代で言えば、寺請制度で保障された仏教と同じで、寝食を忘れて各地を回った平安から室町までの日本仏教の真髄であった布教心、宗教としての真髄が消滅したことと同じことになるのではないかという推論です。

これこそ政党の堕落です。政党交付金をいただきながら、企業団体(労働組合を含めて)献金をいただいているのです。共産党以外は、その点で江戸時代の宗教と同じです。共産党こそ、自力で布教していた宗派宗教ということになります。 

国民も、「神様、仏様、稲尾様」とあるように、また以下の諸事実にみるように、政党政治における「無党派層」ならぬ「無宗教派層」という現実と、それでも神社仏閣にお参りするという意識と行動パターン、それもこれもご利益を求めての話です。特に江戸時代はお伊勢参りに、数百万人もの民衆が旅をして伊勢神社(神宮)参拝をしたのです。五穀豊穣・無病息災を求めてです。これが江戸時代の最後には「ええじゃないか」「世直し大明神」となり、政治変革のパワースポットとなったのです。

先の民主党への政権交代は、偽りの宣伝力もありましたが、日本国民の中に潜むパワーが、証明されたのだと思います。今、それと同じように、定期的に行われる国政・地方選挙を位置づけてみるのです。今からでも遅くありません。「自分の一票ぐらい」と100万人の有権者が考えていたとしたら、また「どうせ変わらない」と500万人の有権者が思っていたら、それほど権力者を喜ばせる論理と思想はないでしょう!こうした論理と思想では、巨大な力とはならないでしょう。しかし、どんな大河も、最初は一滴から始まります。一滴が集まれば、河口に巨大なエネルギーが集中することになります。 

民衆パワーの素晴らしさを、ここで発揮して見ませんか!特に若者のパワーです。最近の若いアスリートの真摯な、前向きなパワーを政党政治にも活かしていくときではないでしょうか? 

後約1時間、時間はあります!

では、記事をご覧ください。

井上順孝『神道入門 日本人にとって神とは何か』(平凡社新書06年1月刊)

 神社は多くの日本人にとって身近な存在、あるいは少なくとも見慣れた存在である。なにしろ初詣には毎年七~八千万人がでかける。二〇〇五年には過去最高の約九千万人であった。関東地方であると成田不動とか川崎大師といった仏教寺院(両寺とも真言宗)に初詣に行く人もいるが、大半は神社にお参りする。東京の都心にある明治神宮には、一九九〇年代以降のデータを見ても、正月三が日で毎年三百万人ほどの参拝客があり、参拝者数のトップを占め続けている。

 明治神宮は境内の地の面積が約七十ヘクタールあり、東京ドームの十五倍強の広さである。また全国の神社の本宗と仰がれる伊勢神宮(正式名称は「神宮」だが、本書でば通例にしたがって「伊勢神宮」と表記する)となると、約五千五百ヘクタールに達し、甲子園球場のほぼ千三百倍にあたる。

 このような広大な敷地をもち、大きな社殿をもつ神社がある一方で、村々の杜のなかや、都会のビルのはざまにこぢんまりとたたずむ神社も数多くある。これらは常駐の神職をもたないケースも少なくない。したがって、地域の人以外が参拝に訪れることはほとんどない。とはいえ、村の鎮守的神社となれば、地域の住民が祭の主役になったり、境内の掃除をしたりと、積極的に支える仕組みになっている場合がある。

 ごく平均的な神社であると、神社を管轄する宮司の他に、若干のの禰宜とか権禰宜とか呼ばれる神職がいて、神社を運営する。年中行事、つまり初詣、節分、春祭、夏祭、秋祭、といった四季おりおりの祭に、氏子・崇敬者と呼ばれる人々が集まる。初宮詣、七五三といった人生儀礼のおりに正式参拝する氏子・崇敬者もいる。

 このように人々とさまざまなかかわりをもって存在する神社は、宗教法人になっているもので大小あわせて約八万社にのぼる。ちなみに仏教寺院は約七万寺であり、ともに町や村、至る所に見出せる宗教的な景観を提供している。

 神社には一柱あるいは複数の神がまつられている。お稲荷さん、天神さま、八幡さま、そうした呼称で広く親しまれた神がいる。特定のご利益があるからと人気がある神もいる。受験時代に、湯島天神とか大宰府天満宮などに参拝した経験をもつ人も少なくないだろう。困ったときなど、つい「カミさま・ホトケさま」と並べて祈願したりする。最近であると、アマテラス、スサノオといった神話の神々を、まずコンピュータゲームやアニメなどで知ったという若い世代も増えている。 

 自分は特定の信仰をもたないと表明する日本人は約七割、調査によっては八割近くに達する。そういう人のなかにも、元旦の初日の出のときにご来光と称して太陽を拝んだり、家のあちこちにお札を貼り、家内安全等の祈願をしたりする人は少なくない。なぜそのようなことをするのか。社会的慣習だからというのが、一つの答えとなるだろう。むろん社会的慣習には違いない。しかし、社会的慣習も続くものと廃れるものとがある。続くものは、続くなりの理由があるはずである。確かな信仰心によっているわけではないにしても、漠然と神仏、あるいは霊の存在といったような、見えない世界への否定しがたい思いを多くの日本人がもっているということは、多くの社会調査が示している。

 はっきりとした信仰心に基づかない宗教的行為は、一見するところ無原則に見える。日本人の宗教生活で外国人からしばしば不可思議なことと受け止められていることがある。年中行事であると、初詣に神社に参拝し、お彼岸やお盆にお寺に参り、年末にはクリスマス気分に浸る人は大多数といっていいだろう。また人生儀礼においても、初宮詣や七五三は神仕に行き、結婚式はキリスト教式で行い、葬式、年忌法要は仏式で行う人は珍しくない。

 外国人記者から日本の宗教についての説明を求められたことが、これまで数十回はあると記憶しているが、彼らがまず疑問を抱くことの一つは、なぜ目本人がこのようにいろいろな宗教に自由にかかわるのかという点てある。ただし、このような疑問を抱く外国人記者は、たいていがキリスト教圏とイスラーム圏からの記者である。つまり、生まれてから死ぬまで、個人が関わる宗教はどれであれ、ともかく一つに決まっているのが普通という国である。

 複数の宗教が混じりあい、渾然とした状態で信仰されているような形態は、シンクレティズム(重層信仰)と呼ばれる。シンクレティズムがありふれている東アジアなどの記者は、あまりこのような疑問を抱かない。たとえば、東アジアや東南アジアに住む華人の間では、「多くの神々、仏に祈っていれば、誰かが助けてくれる」といったような発想法はとくに珍しいものではない。同一人物がある年には初詣に神社である明治神宮を参拝し、次の年には真言宗寺院である川崎大師に参拝するといった行動をすることが多いと知っても、彼らは不思議とは思わないだろう。

 確かな信仰心がないけれども、半ば社会的慣習に従う形で宗教的な行為を行ったり、宗教的観念を受け入れたりする。あるいは一見無原則なシンクレティズム的崇拝や信心のあり方を見せる。こうした側面において神道はいかなる姿を見せているのか、どのような位置を占めているかということも、神道の理解には重要な視点である。(引用ここまで 

島田裕巳『神道はなぜ教えがないのか』(ベスト新書13年1月刊)

 実際、私たちが初詣に出掛けるというとき、ほとんど両者を区別したりはしない。

 たとえば、東京で一番初詣客を集めるのが明治神宮である。正月三が日に、明治神宮にはおよそ300万人の参拝者が訪れる。明治神宮は、明治天皇夫妻を祭神として祀る神社である。

 一方、東京に隣接した神奈川県の川崎市では、川崎大師がもっとも初詣客が多い。川崎大師は通称で、正式には金剛山金乗院平間寺と言う。こちらは、真言宗智山派の大本山であり、仏教の寺院である。

 この二つの宗教施設に初詣に出掛ける人たちは、神社と寺院の違いにさほど関心をもってはいないだろう。神道の信者だから明治神宮に行くわけではない。仏教の信仰があるから川崎大師を選択するわけではない。東京の住民だから明治神宮を選び、川崎の住民だから川崎大師を選ぶのであって、対象はそれどほ重要視されていない。

だが、神社と寺院とではかなり性格が異なっている。その点は神主と僧侶のあり方の違いに根本的な影響を与えている。(引用ここまで) 



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