愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

権力の内部告発は厳禁!権力批判を封じるスパイは放任免罪!戦前の特高思想継承の秘密保護法は墓穴へ!

2013-10-28 | 日記

 中国の尖閣への「脅威」、北朝鮮の核ミサイルの「脅威」、「テロ」に対抗するためとする「日米安全保障」上の「特定」の「秘密」を「保護」するための法案が、国会に上程されましたが、このフレーズで、日本国中というか、マスコミが思考停止に陥っているような気がする昨今の日本です。全国紙も地方紙も一応は「知る権利」が擁護できるかどうか、不安や心配を記事にしています。それは読売にしても、産経にしても、同じです。 

しかし、問題は、国民の運動に対する監視(スパイ)活動に対する告発、情報公開も「安全保障」を口実とすれば、「特定」の「秘密」となるのです。だからその「秘密」は「保護」の対象になります。「内部告発」問題については、「知り権利」問題として触れられてはいますが、この視点は、あくまで愛国者の邪論が調べている限りという限定ですが、ほとんどありません。ここに、国民主権に対する最大の挑戦・否定があるのです。

 

まず、このような憲法違反の法案を上程する安倍自公政権に、ノーを突きつけられない日本の民主主義の現状から出発しなければなりません。一つには、憲法の平和主義を使って、安部自公政権の「口実」「根拠」「言い訳」を封じていくことです。二つは、彼らの危険な思想と論理の根拠を暴いていくことです。ということを踏まえて、記事を書くことにしました。以下の記事のポイントは、以下のとおりです。

 

1.「『君主制廃止』と天皇陛下の体制に攻撃を加えるのは日本共産党だけだから」(纐纈)という思想と論理こそ、安寧秩序」の維持、「国体護持」思想です。これを守るためには手段を選ばないという思想です。

2.その手段として使われたのが、内偵線(スパイ活動)であり、情報の隔離・独占でした。「スパイを使うことは治安対策の大きな柱」(纐纈)であったという証言です

3.その活動の典型は、「徹底的取り調べでドロをはかせるのさ」(纐纈)と、人権否定に対する反省も謝罪も教訓も微塵もないことが判ります。それは現在日本においては、現在進行形、いや、このままいけば未来進行形です。

4.「党組織を破壊するうえで、スパイは不可欠の存在」(纐纈)と言いいますが、アジア太平洋戦争遂行のためには、共産党の組織の破壊が不可欠であったことです。このことは人権と民主主義を否定することを意味していたことです。ここに天皇主権を標榜する大日本帝国憲法の人権抑圧装置の本質が浮き彫りになっています。逆に言えば、戦後国民主権を謳った日本国憲法の意義が鮮明になってくるのです。

5.「湯水のごとく機密費を使っても」(纐纈)と、臣民の血税を、このような発想で正当化するのです。このこと現代日本においても継承されています。そうです。「官房機密費」です。マスコミ関係者にもばら撒かれている「機密費」です。

6.「スパイを使う経費として機密費から支出するので、その際管理上、機密費を渡す相手先として、スパイ名は分かる。日記帳を見ればもっと正確な話ができる。なにしろ一日もかかさずつけていたか」(纐纈)と言いますが、勿論、この「日記」の公開は「極秘」です。ここに、今回の「特定」「秘密」「保護」法の本質が透けて見えてくるのです。

7.「ぼくの分だけで月五百円あった。警視庁特高課長になってからは、それよりはるかに多くなった。特高課長の月給は当時百数十円だが、機密費のほうがず-っと魅力だった」(纐纈)ということは、どのように使われているか、不問・極秘ですから、私腹を肥やすために使ったとしても、国民の知るところにならないのは当然です。

8.しかも、「CICは日本があのように大規模な戦争をおこなうことができたのは、特高制度があったからだとみた」(纐纈)と自慢している思想に、侵略戦争に対する反省もありません。同時に侵略戦争が人権と民主主義を否定してはじめて成り立ったということを浮き彫りにしました。

9.また「世界に冠たる特高警察制度は将来アメリカにとっても参考になる時が来る。そのための資料にしておきたかったのではないか」(纐纈)というように、特高の「手口」をアメリカが学ぼうとして纐纈氏に報告書の提出を求めたこと、纐纈氏も、公職追放解除を狙って、その求めに応じていたということに、安倍首相の祖父、戦犯容疑者であった岸信介元首相がアメリカに命乞いした構造が浮き彫りになりました。その構造が、今回の「特定」「秘密」「保護」法にも見られるのです。

 

それでは、以下の資料をご覧ください。

森村誠一・下里正樹・宮原一雄『日本の暗黒 実録特別高等警察3』(新日本出版91年1月刊)

 

第一章 ある特高官僚の証言

ある特高官僚の証言

 五色大会について、纐纈元特高課長は一九五五年『文芸春秋』八月臨時増刊号の手記「赤色戦線大検挙」のなかでつぎのように書いている。

 「五色温泉の創立総会を確認して以来半歳余の努力が続けられたが、党の最高幹部の所在はどうしてもつかめない。捜査陣の首脳部の間には漸く焦燥の色が濃くなってきた」

 纐纈は本棚から手記掲載の雑誌を取り出し、その行に、赤鉛筆で線を引きながら語る。

 「いや、最高幹部がみな地下に潜り、ようとしてゆくえが知れず、手がかりもない。手づまり状態の時に、『無産者新聞』に徳田球一が昭和三年二月の総選挙に福岡三区から立候補するとの記事を見た。党の最高幹部たちの所在を把握する手がかりができた、『しめた』と思ったよ。

注:纐纈特高課長が見たのは「無産者新聞」の一九二八(昭和三)年一月十五日付一面下段に掲載された「各労農政党の立候補地、立候補者一覧」見出しの記事と、二月一日付「並いる判検事を震え上らす剽悍(すばやく荒々しいこと)無比の徳田君」の記事。労農党から立候補した徳田は当初福岡三区からと発表されたが、四区に変更となる。

ぼくはさっそく福岡県警察部に電報を打ち、選挙期間中の徳田球一の尾行を依頼した。そのころ、二七年テーゼが出て、選挙中の二月一日付で『赤旗せっき』創刊号が出た。日本共産党の公然化だ。特高にたいする不敵な挑戦状ですな。警視庁特高課、司法省刑事局、内務省警保局で大問題になった。それだけでなく、『天皇と結びついた資本家地主の政府を倒せ』『帝国主義戦争反対』などの日本共産党名の入ったステッカーが電柱に貼られるようになった。これを指導している党の最高幹部をなんとしても一刻も早く検挙することが至上課題となった。内偵線(スパイ)も動かし、党員名簿の入手を急いだが、実現しない。『無産者新聞』や『赤旗』を赤鉛筆を引き引き丹念に読み、ヒントをえようとしたがダメである。そこで徳田しかいないとしぼり、ねらいをつけた……」

 一九二八(昭和三)年二月、第一回普通選挙がたたかわれるさなかに、日本共産党中央の幹部を、なんとしても捕まえるのだ……。警視庁特高課の第一着手は、徳田球一の検挙であった―と纐纈弥三はいう。徳田が検挙されたのは一九二八年二月二十六日、総選挙を終えての帰路、門司で床屋から出たところを特高に襲われた。纐纈ははいう。

 「特高課内にワーツと歓声が上がったねえ。ところが徳田をきびしくとっちめたが、何も出てこない。コミンテルンの指示で、最高幹部から外されているので、いくら責め立てても、何も知らんという……最高幹部の所在が分からないまま、三・一五の一斉検挙を断行した」「五色大会の事実が明らかになり、党が再建されたと分かった以上、内務省警保局、司法省検事局とも、じっとしているわけにはいかない。『君主制廃止』と天皇陛下の体制に攻撃を加えるのは日本共産党だけだから……取り締まりをきちんとしないと上部からお目玉がくる。さあ!本庁特高課は夜も昼もない。当時ぼくは妻に死なれ独り身だったので、ほとんど泊り込み同然で捜査にあたったものだ……。『天皇陛下に弓引く輩を一人のこらずパクらにゃならん』『国賊退治だ!』と特高課全員にハッパをかけた」

 「当時、警視庁特高課は特高係、労働係、検閲係、内鮮係の四係があり、スタッフは七十~八十人ぐらい居たかな……。私を先頭に労働係の浦川秀吉係長、毛利基警部らと会議を開いては、徹底的に内偵・捜査を重ねた。評議会(日本労働組合評議会)、無産政党のメンバーなどしらみつぶしにあたったが、その結果……党員数は特定できたが、その数はやっと七十人足らず……かんじんな最高幹部の所在が分からない」

 党幹部の所在が不明のまま、当局は見切り発車の大検挙を立案した。纐纈の回想によれば、一九二八(昭和三年三月初め、東京・千代田区丸ノ内の東京ステーションホテルで、内務省警保局、司法省検事局、警視庁特高課の三者協議がもたれた。出席者は山岡萬之助内務省警保局長、友部泉蔵保安課長、松阪廣政東京地裁検事局次席検事、平田勲思想主任弥三郎特高課長、浦川秀吉労働係長らであった。

「この時の三者協議で…全国いっせい検挙でいこうということとなった。その日三月一五日をXデーとした。特高課は検事局と緊密な連絡をとり、絶対に、事前に情報が漏れることのないようにしようとー確認した」「なにしろ、対象一二年の、第一次共産党検挙事件のおり…捜査情報が事前に新聞記者に漏れ、手痛い失敗をなめたことがある…。特高、検察は『同じ轍を踏むな』が合言葉になった。検察・特高一体となった思想事犯の取り締まりは初めての体験なので、警視庁のわれられは猛烈を仕事をした」(略) 

第二  内偵線上のアリア

 「日本共産党とたたかうには、表の闘いだけでは絶対に勝利できない。裏のたたかいが必要だ。裏の闘争……それは高度の頭脳戦ですよ」

 綱傾弥三の証言である。頭脳戦とはなにか。纐纈のいうところを聞こう。

 「(一九二八年)当時は……大学出の、頭のいい党員が多かった。これを切り崩し、転向させるためには捜査当局が、かれら以上に党内事情に通じ、かれらの動静をてのひらの上に置くことが求められた」

 わずかな党員しか知らないはずの事実を、捜査当局がすでにキャッチしている…その驚きとショックを与えて、党員を動揺させ、供述させ、敗北感を抱かせ、転向させる。特高警察のもちいた手法である。そのためには、「内偵線」(スパイ)をたえず増やし、切れ目なく、太くしておくことを心がけなくてはならない。「内偵線」を特高官僚は単に「線」ともいう。五色大会(第三回党大会)の事実を探求したのも、「線」からの電話通報を受付たからである。

纐纈弥三はいう。―

 「スパイを使うというと、世間では不道徳のように受け取る向きがあるが、われわれ特高側にしてみると常識の部類だ。何も驚くことではない」「スパイを使うことは治安対策の大きな柱だよ。明治維新以後、治安当局はスパイ政策について研究を重ねてきている。各種の極秘文書として、今も治安当局に残っている。警視庁特高課もこうした政策を引き継いできたんだ」「共産党は、外から見ているだけでは分からない。とくに非公然の時代にはなおさらだな。スパイがいてはじめて共産党の姿、現状が効果的に、正確に分かる。正確な情報を入手してこそ、対策も平確になる。だからこそスパイが必要なのだ」「スパイの養成なくして共産党対策はない…これは昔も今もかわらないねえ。五色温泉での第三回再建党大会も、三・一五事件も、いずれも各方面に放っておいたスパイからの情報がモノをいった……第一報はスパイから入手する。それにもとづいて内偵、捜査をやり、思想犯を捕らえる。検挙したあとは、徹底的取り調べでドロをはかせるのさ

 スパイの具体名を尋ねても、纐纈弥三は言葉をにごし、実名は一人も挙げない。

 纐纈はいう。-

 [天皇制国家を守るうえで治安維持に果たした三・一五と四・一六の二大事件の一斉検挙の教訓は、後世、また党が大きくなり、国家体制をゆるがすようになれば、再び生かされよう。国政選挙や地方選挙で日本共産党の議席が伸びない時はいいのだがねえ

 「一斉検挙の教訓」とは、ふだんからスパイを要所に配置し、いざという場合にそなえ、弾圧の準備おこたりないことをいう。纐纈ら特高官僚は三・一五弾圧をやって、日本共産党との「たたかいは終わった!」と思った。ところが、また党が伸びて、二度目の四・一六大検挙をやっ。た。これもまた、「たたかいは終わった!」と胸を張った。二度ともつかの間の勝利にすぎなかったが、かれらはあたかも天下を取ったかのごとく、美酒をくみかわし勝利のアリア(絶唱)に酔いしれた。だが、その“勝利”も纐纈がいうようにスパイ頼みの内偵線上に成り立ったアリアであった。暴行と脅迫と甘言と金品で、スパイに堕落させられた人々の苦悩。自堕落。ふてぶてしい開き直り。―その上に特高は。勝利”のアリアを歌ったのである。党組織を破壊するうえで、スパイは不可欠の存在―と級願はいう。

 「スパイを作るためには、党員、主義者個人の持つ弱点を、徹底的に研究する。そしてねらいをつけた者にじわじわと接近する。とくに、本人の弱点が、党の機関に知られておらず、知られると、こっぴどく処分を受けるような弱点にかぎる」「しかも、党幹部になれそうな党員で、将来を嘱望されている者が一番いい。中央委員クラスのスパイを持たないと、質の高い情報が得られないからだ」「スパイをつくること自体……特一に同警察官にとって必死の仕事だ。そう簡単には党員をスパイに仕立て上げることはできない。湯水のごとく機密費を使っても、おいそれとできるわけではない。スパイ工作に失敗すれば、党内の警戒心が高まり、内偵線がこわれる……だからといって、危険があるからスパイ作りをやめるというわけにはいかないからねえ……」

 元特高課長の証言は率直であった。スパイを多用した特高ナンバーワンは、纐纈弥三特高課長の部下だった毛利基である。かれは三・一五弾圧、四・一八弾圧事件を通し、庁内では。“スパイ使いの名手”“特高の神様”の異名で呼称されていた。網傾はいう。

 「毛利君の異例の出世は、かれが三・一五事件以前から優秀なスパイをつくり、育成し、温存するのがうまかったということにつきる……。優秀なスパイとは何か。質の高い情報、すなわち、党の最高幹部の認識、判断、方針を状況に応じて的確につかめればいいわけだ。毛利君は幹部スパイを育成し、いい情報をつかんできたので、いい仕事ができた………」「スパイはそれぞれの警部についていたが、警部同士がどんなスパイを持っていたのか知らない。お互いにそれを知らないようにしていた。本庁の特高課長時代、ぼくは部下がどんなスパイを持っているか、特別に聞いたことがない。それは個々の警部の個人的な関係である。ただスパイを使う経費として機密費から支出するので、その際管理上、機密費を渡す相手先として、スパイ名は分かる。日記帳を見ればもっと正確な話ができる。なにしろ一日もかかさずつけていたからねえ

 纐纈元特高課長自身のスパイづくりはどうだったのか。著者はたずねた。

 「ぼくは二人の幹部スパイを持っていた。よ。それも前にいったように、党機関が知らない、知ると大問題になるような本人の弱点を、部下からの情報でつかんで、本人に接近して、スパイにした」「その男の名前も、ぼくの日記帳にかいてある。ぼくはそのスパイにいろいろと面倒を見てやった。その時は課長の手元にある機密費を使った」「機密費はぼくが兵庫県警察部外事課長のとき(一九二六年)ぼくの分だけで月五百円あった。警視庁特高課長になってからは、それよりはるかに多くなった。特高課長の月給は当時百数十円だが、機密費のほうがず-っと魅力だった

 特高がスパイ仕立てにねらう党員の弱点とは、自分だけは長期投獄を逃れたいと思う者。党内の人事評価への強い不満、批判を根強く持つ者。土地、家庭、借財などの金銭上の悩みが切迫していて、すぐにもまとまった金を必要としている者。酒と女と金にだらしのない者。家庭内の不和、家族崩壊。妻のよろこぶ旅行、ちょっとしたプレゼント、おしゃれなどの要求を満たしてやりたいが「金がない」と悩んでいる者など。しかもそれがなるべく「党機関に知られていない弱点」-纐纈弥三はこの条件にかなった者にスパイ工作をおこなうというのである。

 日本の秘密警察が蓄積した「内偵線」養成のノウハウは、戦後に日本を占領した米軍の注目するところとなった。日本を占領統治するために、サンフランシスコ条約反対、民族独立を主張する日本共産党を押さえ込まなければならなかったからである。ここに纐纈弥三・元警視庁特高課長が戦後CIC(米陸軍情報部)の依頼を受け、戦前の特高警察のスパイ政策について書いた報告書の下書き原稿がある。網傾は特高生活が長かったため、一九四五年から五一年まで公職追放を受けた。この追放を一日も早く逃れるため、米軍に忠誠を誓って書いたのが、CICへの提出報告書である。

 纐纈は「CICは日本があのように大規模な戦争をおこなうことができたのは、特高制度があったからだとみた。世界に冠たる特高警察制度は将来アメリカにとっても参考になる時が来る。そのための資料にしておきたかったのではないか」と注釈をつける。(引用ここまで



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3 コメント

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色々有るけど (夢想正宗)
2013-10-28 13:45:24
色々有るけど
思想信条の自由を侵す特定秘密法案には絶対反対! 戦時中大本営は天皇を国家求心力を高める為に利用した 終戦の御詔勅然り しかし戦後の敗戦処理をする過程で実はマッカーサー憲法を制定する過程で天皇云々の文言を入れたくなかった しかし戦後混乱状態の中で国民を統制する上で安定材料になるであろうと考えて挿入した マッカーサー憲法では 平和と全ての国民は健康で文化的な生活をする権利がある と言う西欧先進国の文化的国家像を示したかった であるから現行のマッカーサー憲法を未来永劫踏襲しなくてはならない 正に科学的未来志向の憲法である
特定秘密法は (夢想正宗)
2013-10-28 13:48:03
特定秘密法は 国民主権から国家主権にする為の物 共産党をはじめとする自民党反対勢力を駆逐する法案である
国民の生活が縛られるであろう (夢想正宗)
2013-10-28 13:58:11
国民の生活が縛られるであろう
それはどういった事か? 例えば今 福島原発汚染水問題で大騒ぎになっているが 例えばこれに対して国会議事堂周辺や市中でデモ行進をしたとしたら 今度は国家反逆罪で逮捕してしまうと言う事だ 戦時中の治安維持法と同じ であるから 原発反対と政治結社集会や寄合で会合を開いたら 即刻特定秘密法違反で逮捕されると言う事だ 拡大解釈されエスカレートすると家族や友達間で話しても特高警察が聴きつけ逮捕されると言う事である また隣組も自治会単位で活発になり思想信条に敏感になるであろう

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