92年段階で核開発に歯止めをかけることができなかった理由をスルーしている毎日!
憲法平和主義は
武力による威嚇は永久に蜂起していることを無視した違憲社説!
脅し=威嚇を容認して武力行使が起こったらどうするか!
武力行使が全面戦争に連動したらどうするのか!
北朝鮮軍による韓国への侵攻に備えるとともに
「朝鮮半島武力統一」論は現実的か!
微笑み外交・融和政策こそ9条の理念の具体化の一つだろう!
毎日新聞 米韓の合同演習始まる/まだ圧力を緩められない 2018/4/2
米軍と韓国軍による合同軍事演習が始まった。北朝鮮軍による韓国への侵攻に備えるとともに、米韓連合軍の作戦能力の維持・向上を図る狙いがある。
例年は2月末か3月初めから約2カ月行っているものだ。今年は年初来の南北関係進展を受けて、韓国で開かれる平昌(ピョンチャン)冬季五輪とパラリンピックの閉幕後に延期されていた。
期間は例年の半分となる約1カ月で、米軍の空母や原子力潜水艦、戦略爆撃機は参加しない見通しだ。北朝鮮への圧力を高めるため空母などを大規模に動員した昨年からは様変わりとなった。
27日の南北首脳会談、来月までに行われる見込みの米朝首脳会談を控え、米韓両国が必要最小限の規模にとどめたのだろう。
金正恩(キムジョンウン)朝鮮労働党委員長は先月、韓国の特使に演習への「理解」を示したとされる。実際に北朝鮮は特別な反応を見せていない。北朝鮮が米国との交渉実現を最優先して自制していると見ることができる。
韓国では一時、対話の流れを尊重して演習を再延期すべきではないかという声も出た。
だが、軍事的圧力には外交交渉を下支えするという役割もある。外交的な目的達成への道筋が明確に見えていない状況で、軽々に方針変更をすべきではない。
春の演習は1992年に中止されたことがある。北朝鮮が国際原子力機関(IAEA)の査察に協力する姿勢を見せたためだが、結局は核開発に歯止めをかけることにつながらなかった。
今回の状況も大きくは違わない。
金氏は「非核化」に言及し、米韓や中国との首脳外交に乗り出した。軍事的な挑発を繰り返すのに比べれば、はるかに好ましいことだ。
しかし現時点で、北朝鮮の核・ミサイル開発をめぐる状況が変わったと言うのは難しい。雰囲気はよくなっているが、金氏の言葉を裏打ちする動きはまだ認められないからだ。
北朝鮮が非核化へ向けて具体的な行動を取るまで、経済と軍事の両面で圧力を緩めることはできない。これまでの経緯を考えれば、この原則は譲れない。
演習中止を論じられる環境を作るには北朝鮮の行動が必要である。(引用ここまで)
日本の役割は憲法平和主義・非核三原則を使うこと!
核兵器禁止条約の批准を行い世界に呼びかけることだ!
黙っているわけにはいかないぞ!
朝鮮戦争の背景とは日本の関係は無視はできない!
北朝鮮の核問題をめぐる経緯と展望
http://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_8091645_po_0775.pdf?contentNo=1
米朝枠組み合意 - Wikipedia
北朝鮮における最高指導者の交代と核問題をめぐる 対米外交政策の変化
二.第1次核危機における金日成と金正日の核問題をめぐる対米政策
1980 年代末頃にはIAEA 保障措置協定に調印しない北朝鮮が核兵器を開発しているという疑惑が広まり始めていたが,北朝鮮でも米国の核兵器の脅威に対する危機感が高まりつつあった。ソ連が1990年9月30 日に韓国と国交を結んだことで,北朝鮮ではソ連の核の傘が機能しなくなったという危機感を持ち始めた。10月5日に北朝鮮は,ソ連が同盟国としての役割を果たしていないと批判した(33)。
しかし,この危機に対して,北朝鮮は米国に対して敵対的な行動に出るのではなく,むしろ米国や韓国との和解をより積極的に進めようとした。1991 年7月30 日に北朝鮮外交部は,朝鮮半島非核化地帯創設を韓国と共同で宣言することを声明で提起した(34)。9月27 日に米国が,韓国にも配備されていた戦術核兵器の撤去を宣言し,韓国の慮泰愚大統領は12 月18 日に韓国に核兵器が存在しないことを宣言した。12 月31 日に南北朝鮮は「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」の文案に合意した。1992年1月7日には,北朝鮮側が懸念を示していた米韓共同軍事演習であるチームスピリットの中止が宣言され,1月20日に南北朝鮮は「朝鮮半島の非核化に関する共同宣言」に署名した。
米朝対話も進められた。1992 年1月22 日にニューヨークで米朝高位級会談が開催された(35)。この会談では,在韓米軍撤収を求めていた北朝鮮側が米軍の韓国駐屯を初めて認めたことで注目された(36)。米国や韓国との和解が進むと,北朝鮮は1月30 日にIAEA 保障措置協定に調印し,核査察を受け入れた。金日成も,米大統領の口頭メッセージを携えた米国の牧師であるビリー・グラハム(Billy Graham)と4月2日に会談し,「米朝関係が改善することを望む」と語りながら,将来に米大統領と会談できるであろうと展望を語った(37)。IAEA 保障措置協定調印は4月9日に最高人民会議でも承認され,核査察は5月25 日から始まった(38)。
ただし,北朝鮮では,在韓米軍基地の核査察も求めていた。1992 年6月26 日に北朝鮮外交部はスポークスマン声明で在韓米軍基地の核査察を要求した(39)。7月2日に米大統領であるジョージ・H・W・ブッシュ(George H.W. Bush)が全世界から戦術核を撤収したことを宣言すると(40),7月5日に北朝鮮外交部スポークスマンはそれを歓迎したが,それを証明する処置も要求した(41)。金日成も,この点については「我々はすでにIAEAの査察を受けたように,公正性の原則でいまや南朝鮮にある米国の核基地を査察しなければならない」と8月19 日に語り,米国に核査察の受け入れを求めた(42)。
この頃,金日成の後継者である金正日の外交活動に関した言及はほとんど発表されなかった。
1992 年6月28 日に金日成は,外交活動は自分が行い,金正日は必要な時以外に外交活動をしないと語った(43)。金日成が死去した直後にも金正日は,生前の金日成は党活動と軍隊活動を全面的に金正日に任して,数多くの外交活動と経済活動を直接引き受けたと語った(44)。金正日は,1991 年12月24 日に人民軍最高司令官に就任しており,軍隊に対する最高指揮権は持っていたが,外交活動では金日成が最終決定権を死去するまで持っていたと考えられよう。
ただし,金正日は,国内向けであるが,金日成と異なり,米国に対する警戒心を露わにしていた。
金正日は1992年7月23 日に「今,米帝国主義者たちは我が国でも革命の3世代,4世代が革命的原則を捨てて,変質することを望んでいる」と語った(45)。これは,ソ連や東欧諸国の社会主義体制崩壊を目の当たりにして,北朝鮮の社会主義体制を維持するための警戒であったが,金日成と金正日の間で対米観に隔たりがあったことを示しているといえよう。
その後,米朝関係は悪化した。北朝鮮の核査察受け入れを非協力的と断定した米韓は1992 年10月8日に米韓合同軍事演習の準備を進めることで合意した。さらに,北朝鮮が自己申告した施設の査察だけでは不十分であるとして1993 年2月25 日にIAEA 理事会が北朝鮮に特別査察の受け入れを要求する緊急決議案を決定したが,北朝鮮はこれを拒否した(46)。米韓合同軍事演習が3月8日に再開されると,反発した北朝鮮では3月8日に人民軍最高司令官の名義で準戦時状態を宣布し,3月12日にNPTからの脱退を宣言した(47)。北朝鮮では,米韓合同軍事演習の再開に際して,米国に対して敵対的な姿勢を見せ始めたといえよう。
米韓合同軍事演習に対して準戦時状態を宣布したのは,人民軍最高司令官の名義であるから,金正日である。さらに,NPT脱退を提起したのは,金日成ではなく,金正日の発案であったと北朝鮮の国内では認識されている。北朝鮮で出版されているドキュメンタリー小説である『歴史の大河』では,核問題に関する金日成と金正日の意見の違いが描写されている。『歴史の大河』では,NPT脱退は,朝鮮労働党中央委員会政治局会議で金正日が提案したことになっている。金日成は,もし戦争になったらどうするのかと懸念を表明しながらも,金正日がその覚悟もあると強く主張し,最後には金日成もNPT 脱退を認めたことになっている(48)。北朝鮮では,最高指導者の権威に抵触することは忌避されるので,金日成と金正日の意見の違いが描かれるのは特異である。おそらく,これに近い事実があったと考えられる。少なくとも,北朝鮮では金日成よりも金正日が米国に対して敵対的であったと認識されていることが理解できよう。
金日成と金正日の対米観の違いは,この頃の両者の発言からも理解できる。米韓合同軍事演習の最中である1993年3月11日に金日成は,米韓軍米韓軍事演習を批判しながらも「米国が南朝鮮から自軍を撤収すれば,我々と良き友になれる」と在米朝鮮人達に語っていた(49)。一方で,金正日は,3月29日に「米帝と南朝鮮反動たちが侵略的な《チームスピリット93》活動軍事演習を繰り広げたことで,我が国には任意の時刻に戦争が起きうる一触即発の厳戒な情勢が醸成された」と語っており,米国に対する敵対心を露わにしていた(50)。
米朝関係は悪化したが,金日成は米国との対話も進めていった。1993 年6月2日から11 日まで第1回米朝協議が開催され,最終日である6月11 日に米朝は共同宣言を発表して,北朝鮮のNPT北朝鮮における最高指導者の交代と核問題をめぐる対米外交政策の変化脱退は臨時停止することになった(51)。7月14 日から19日には第2回米朝協議が開催され,北朝鮮はIAEAとの協議開始を表明した(52)。
米朝対話に関する金日成と金正日の発言にも隔たりがあった。1994 年1月1日に金日成は新年辞で,「核問題はどこまでも朝米会談を通じて解決しなければならない」と語ったのに対して(53),金正日は同日に「我々を力で屈服させられなくなると,敵たちが融和政策を使っているが,これは我々の革命陣地を内部から崩すための狡猾な策動である」と語り,米朝対話に対して警戒心を抱いていた(54)。
核問題をめぐる状況は再び悪化した。1994 年3月3日にIAEA の査察が再開されたが,北朝鮮側にサンプル採取を拒否されたために3月15 日に査察は中止された。状況が悪化する中でも,金日成は,4月16日にワシントン・タイムズの記者に対して「我々は朝米間で関係正常化が早く成り立つことが良いと思う」と語り,1993年1月20日に発足した米国のビル・クリントン(Bill Clinton)政権になって米朝対話が開かれ,重要な原則に合意したことは意義があると米朝関係改善の希望を述べた(55)。
しかし,1994年6月10日にIAEAが北朝鮮への技術協力を全て停止すると,6月13日に北朝鮮はIAEAからの脱退を宣言した(56)。この事態を打開したのが,ジミー・カーター(Jimmy Carter)元米大統領による訪朝であった。6月15 日にカーターは訪朝し,16 日と17 日に金日成と会談した。18日に韓国に帰って記者会見したカーターは,金日成が「以前も今も,核兵器保有の意思はない」と語ったと説明した(57)。金日成のこの発言は北朝鮮の文献からも確認できる(58)。さらに,3回目の米朝協議が開催され,平和利用にも核兵器の爆発物生産にも使える北朝鮮の黒鉛減速炉を核兵器の爆発物生産には向かない軽水炉へ転換することを米国が支援し,米国による核兵器の不使用の保証が得られれば,核開発計画を凍結すると金日成が約束したと説明した(59)。
このカーター元大統領の訪朝を受け入れる問題でも,金日成と金正日の意見の相違があったことが北朝鮮のドキュメンタリー小説で描写されている。ドキュメンタリー小説である『永生』では,IAEA から脱退して,カーターの訪朝を先延ばしにしようと金正日が提案したのに対して,金日成がIAEA から脱退してもカーターに会わなくてはならないと反論したことになっている。金日成は,「我々はこれまでに,米国の人々と胸襟を開いて話をする機会がなかった……私の経験によれば,たとえ政見と信仰は違ってもお互いに胸襟を開いて虚心坦懐に意思を交わせば,それほど難しくもなく意思が通じると思う」と金正日を諭している(60)。これまでの金日成と金正日の発言の違いから推察しても,これに近い事実があったと考えられる。少なくとも,米国との和解を模索する金日成と米国に対する警戒心が強い金正日の間に核問題に対する意見の違いがあったと,北朝鮮の国内では認識されているといえよう。
その後は,金日成とカーターの会談内容の通りに米朝協議が進んでいった。第3回米朝協議は1994年7月8日から開催されることになった。ただし,その日に金日成が死去したことによって延期され,8月5日から再開された。会談の最終日である8月12 日に黒鉛減速炉と関連施設を軽水炉に転換することを米国が支援することを盛り込んだ合意声明が発表された。9月23 日から再開された米朝協議では10月18日に基本合意文草案に両国が合意し,10月21日に「米朝合意枠組み」が締結された。寧辺にある黒鉛減速炉とその関連施設の建設を凍結する代わりに,米国側が軽水炉を提供し,その第一号が完成するまでの代替エネルギーとして年間50 万トンの重油を送ることになった。北朝鮮外交部は,11 月18 日に黒鉛減速炉とその関連施設を凍結したと発表した(61)。金正日は,金日成と異なって米国に対して警戒心が強かったが,金日成の死後も,金日成が推進してきた米国との和解と朝鮮半島の非核化政策を継承したといえよう。(略)(引用ここまで)