岩木山を考える会 事務局日誌 

事務局長三浦章男の事務局日誌やイベントの案内、意見・記録の投稿

自然が織りなす造形の不思議

2009-01-10 05:33:45 | Weblog
 (今日の写真は岩木山百沢登山道の石切沢を渡ったところに建てられてある「七曲がり」の標識である。
 実は昨日あまりにもいいお天気に誘われて、岩木山に出かけたのだ。ここが「サンデー毎日」の強みである。だが、明日は「確実の悪天」となるという読みもそれを後押しした。
 だが、岩木山までの「便利な足」自動車を持たない身にとっては「出かける手段」の確保が難しく、バスを利用すると、そうしたで、時間的な制限から「自由な山登り」が制約を受けるという不自由さに縛られてしまうのだ。
 昨日も、帰りに百沢スキー場発15時20分発のバスに乗るために、登山行動を始めた時から、すべてがその時間に集約されて、それを中心に行動が規制され、常に頭の中には「15時20分」が強固に存在していた。
 普通は、登りに要する時間の3分の1の時間を「降りる」時にみればいい。ただ、冬場の単独山行で、しかも「ワカン」使用の場合は、登りに要する時間の半分は必要である。積雪が多く、「埋まり方」が大きい時は、「登り」も「降り」も同じ時間を要する場合もある。
 昨日は「15時10分にはバス停にいる」ということが絶対的な命題だった。
 登りながら雪の質を測り、「埋まり方」を調べ、雪の重さを埋まったワカンを引き抜く時の抵抗で測定して、それらを換算して、「降りてくる」時の「スピード」を予測する。これをしないと、「どこまで登って」とか「何時何分まで行動して」から下山するという明確な位置的、時間的な決定が出来ない。
 ただ、「何となく登り、時間になったから下山する」というわけではないのである。
 先日登った「弥生登山道」は、登山口から30分以上離れたところに「バス停」がある。バスを利用すると往復で1時間も「ロス」することになる。
 これを逆に自動車を使う場合は、時間的に1時間の短縮がなされ、行動が少なくなるので「体力」が温存されることにもなる。
 単純に考えると「バス」利用者は、自動車で登山口まで移動する者より、登り初めから「体力」を消耗しているということになる。言い換えると「バス利用者」の方が「自家用車」を利用する人よりも、強い体力の持ち主であるということが要求されるということだろうか。
 私は昨日、この「登山口」往復という時間的かつ距離的な負荷を省略することが出来たわけだ。自家用自動車を持たない者が「バス」を自家用車なみに使えたのである。楽をさせて貰ったのだ。
 だからといって、自宅から市役所前バス停とキャッスルホテル前バス停から自宅までという「時間と距離」の省略はなかった。バスを利用する時は自宅から「登山」が始まっていると考えていい。
 百沢スキー場が開設されている期間中、8時20分発「岩木荘」行きのバスはスキー場まで延長運行されるのである。私にとっては嬉しいことだ。

 バスから降りて、ザックを背負い直ぐに、登りだした。圧雪車によって「丁寧」に整備された左側の「ゲレンデ」のその左端を、腫れ物に触るように静かに慎重に登る。「ゲレンデ」に傷を付けないためだ。使わせて貰っているのだからそのくらいの配慮は当然だろう。登山開始は9時だった。
 「ゲレンデ」を外れるとそこは「天然のゲレンデ」ワカンが深く埋まる雪面である。そこで、ワカンを装着する。
 総体的に「少雪」である。だが、「弥生尾根」よりは多い。多いだけではなく「雪質」も違っていた。
 昨日の「ワカン登山」は、この「雪質の異常」に泣かされたものとなった。その「天然のゲレンデ」に足を踏み入れる。雪層の底部に支えとなる「硬さ」がない。積雪量が「少ない」のに「埋まり方」が激しい。登り初めから30cmは沈み込む。これはかなり厳しいラッセルだ。
 石切沢沿いの登山道に取り付くまでも、また石切沢左岸の登山道も同じ状態が続いた。石切沢を渡るためにずるずると滑落しながら降りて、雪に覆われた「丸木橋」を渡ろうとした時、私の眼は「不思議なもの」に吸い付けられてしまった。それが、「今日の写真」だ。
 これの「何が、どこが不思議なの。石切沢右岸に建っている”七曲がり”の標柱だろう」という人もいよう。だが、今一度よく見てほしいのだ。
 確かに、標柱であり、標識である。高さが1m80cmもあるのだ。この高さから見ると「ここ」の積雪量が分かる。
 谷側よりも「山側」の方に多く積もっていることも分かる。この場所から、この尾根に取り付くまでは大変だった。つまり、山側の積雪が多かったのである。斜面のきついところでは「腰」まで埋まった。雪層の底面に足がかりがなく、「ぶすぶす」と埋まり込むのだ。私は、かつて「1時間に10mしか進めない雪の斜面」に遭遇したことがあった。それを思い出させてくれるような「登り」だった。
 先ず、この標柱は「山側」の雪の深さと「困難で苦しい」行動を教えてくれるのだ。だが、ここで言う「不思議」とはそのようなことではない。
 それは「標柱」上部に載っかっている「雪の塊」のことであり、そのバランスである。
 先ずは、この狭い標柱上部の丸い部分の「面積」にどうしてその面積よりも2倍以上の雪塊が載っているのかということである。
 この「載り方」から、この場所の常時吹き付ける風向きが分かるのだ。ここは石切沢にそって上部から風が吹き込む場所である。標高の高い場所に出来る「エビのしっぽ」は風に向かって「しっぽ」を伸ばしていくが、これはその逆だ。風下に「吹きだまる」ように「成長」していったのである。風の影響を受けない場所では「積雪」は上方に向かって「成長」するが、これは「横向きに成長」したものだ。

 次の不思議は「均衡を保って落下しない」ということである。何故、「均衡」が保たれているのだろう。「雪塊」全体の、標柱上の3分の1という狭い面積が、残りの3分の2を支えて、バランスが崩れないから、崩落・落下しないのである。
 高度な「力学」理論を駆使したとしても、人間に出来る仕業だろうか。人間は強力な接着剤や釘とかボルトでこのような「建造物」を造るだろう。
 しかし、これは、全くの自然物なのである。自然の造化は、理論を超えた不思議を織りなす。
 自然は広く、深いのである。まさに「森羅万象」の世界だ。)