たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

5月の朝のつぶやき

2016年05月22日 10時05分01秒 | 日記
 昨日は緑がまぶしい一日でしたが、夕方になって風が不気味な音を立てて吹き荒れ、突然雨も降りだしてまた落ち着かないものを感じてしまい一人不安の中にいました。近くに知っている人が誰もいない不安、いざとなったときちょっと助けてくださいと言える人が誰もいない不安。どうしても、3.11を思い出してしまいます。今の私の立場だとこれから夏場になって、台風で雨風が吹き荒れても出勤しなければならないそうですが、車で送ってくださいって頼める人はいないので、電車が動かなければアウト。どうしたらいんでしょうね。今から心配です。大きな地震が起こって帰宅困難者が多数でるような事態になった場合は帰宅できず、自分よりも奉仕活動優先だそうな。正規採用ではないのでそこまで求められるかどうかは役職者の判断になるようですが、荷物を全部持って動くことも許されないそうで気が重いです。

 金曜の夜はお風呂に入りながら、うとうとと眠ってしまいました。アブナイ!アブナイ!昨日の朝は、パジャマのまま座椅子にしずんで、『1789~』のPVを観ているとき、休日の朝を満喫している感でものすごく幸せでした。最近の大切な心のエネルギーチャージの方法です。昨日は都心へのお誘いをいただきながら、遠すぎて無理でした。すっかり疲れてしまっていて、電車に乗って出かけるエネルギーがどこからも湧き上がってきません。夕方までひきこもりでした。お昼を食べると眠くなってうとうともしました。どこで地雷を踏んでしまってオジサンの怒りとストレスのはけ口になってしまうかわからない中で、毎日大きな声を張り上げなければならないのは本当に心身のエネルギーを消耗します。端末操作も含めた面倒な事務手続きを説明してやってもらうためにこれだけ疲れてしまうのだから、自分には介護職はとうてい務まらないとわかりました。自分のエネルギーを消耗し尽しながら待遇もよくなければ離職者があとをたたず人手不足が解消されないのも無理からぬことではないかと想像します。当然他では雇ってもらえないから選択するという職業でもありません。対人関係の職務、援助職は感情労働。自分で心のバランスをとっていけるだけの引き出しを持ち合わせていないとやっていけないのだとよくわかりました。無理だと分かっていますが、もう少し報酬で評価してほしいな。喉のために薬を飲むと胃にくるので控えるとせき込んでしまうし痛いので薬を飲まないわけにはいかず、飲むとだるくもなるし、辛いところです。こうして連日、ブログに愚痴を吐露することでなんとか持ちこたえることができているのかもしれません。出勤日の記事を読み返してみると文章に脈略がなくって何を書いているのかわからない感じになっていますね。こお恥ずかしい限りですが書かずにはいられません。疲れすぎて眠れなかったりしますが書いていなければもっともっとたまってしまってどうにもならないと思います。具体的なことは何も書けず、何を書いているのかわからないところもある記事を読んでくださっている方、ありがとうございます。うとうとと夢の中についに職務のことが登場してしまいました。まずい、まずい。休日は忘れるべし!

 今週はまた土曜出勤になるので水曜が振替休日。なので二日出勤したら休みです。それでもって木曜から土曜まで出勤したら日曜は『ブラックメリーポピンズ』。久しぶりの一路さんです。一日だけの休みに出かけるのきついですが、この勤務を想定していなかったので仕方ないです。せっかくとった千穐楽のチケット。楽しみにでかけます。コンビニで引き換えるの忘れないようにしなくっちゃ。今日は夕方には目薬をもらうために電車に乗って眼科にいくエネルギーがわいてくるかなあ。今日行かないとまた二週間先になってしまいます。それはちょっとまずいのでなんとかエネルギーを振り絞ってでかけねば・・・。

 『1789~』。大阪公演始まりました。帝劇とは演技が変わってきているみたいなので観たい!観たい!観劇できる方がうらやましいです。書ききれていないことを今日また書けるといいかなと思っています。

 写真は今日も本文とは全く関係なく、かっこいい清史朗君のお写真。歌舞伎のポーズで台本を持っています。ドラマの公式ツィッターからの転用です。いやされます。さわやかなイケメンありがたや。

第二章_日本的経営と近代家族_②日本的経営システム及び日本的労使関係とは何か

2016年05月21日 12時59分19秒 | 卒業論文
 ここで、労使関係を中心に日本的経営システムを概観したい。いわゆる日本型雇用慣行といわれる「終身雇用制」、「年功序列賃金」、「企業内組合」を、戦後の日本を経済的成功に導いた独特の経営システムであるとして注目した研究の代表者にアメリカ人研究者アベグレン(J.C.Abegglen)がいる。アベグレンは、1年有余日本の工場をつぶさに見学した結果をもとに、1958年に“The Japanese Factory”という本をアメリカで出版した。この本はただちに日本語に訳され、同じ58年にダイヤモンド社から『日本の経営』という書名で刊行された。この時アベグレンが、他の先進諸国とは全く異なった日本独特の経営システムとして日本型雇用慣行の三本柱を唱え、日本の内外に普及するようになったのである。


 アベグレンが提起した日本的経営に対しては現在様々な反論や意義が出されているが、篠塚英子がまとめているところによれば、これら多くの研究者の反論や論議を総括した上で、社会学者の富永健一(1990年)が、「日本的経営」あるいは「日本的労使関係」といわれるものは、社会的近代化の遅れが戦後になっても依然として残存していることをいいあらわしている語であると述べている。日本的経営は、経営者と労働者の間の社会関係が構造的には温情主義的・ゲマインシャフト的な感情的相互融合を実現していることによって特徴づけられる。このように定義された日本的経営がいつ頃から日本に定着したのかについても、富永健一の次説が定説となっている。多くの研究者が日本の企業の経営史的・労務管理史的研究を通じて到達した結論は、その成立の時期は1918年(大正7年)の第一次大戦終了から1931年(昭和6年)満州事変以後のファシズム期の開始時までの10年余りの間である。

 注目すべきは、戦前の10年余りの間に確立した日本的労使慣行は、大企業が中心で、しかもあくまでも基幹職員と基幹熟練工に限られていた。それが戦後になり、戦後改革の一環として労働組合も公認されるようになると様子が変わる。終身雇用制度や年功賃金など、戦前は大企業の基幹労働者だけの特権であったものが、戦後民主化の波の中で、全従業員に押し広げるべきだという労働組合の要求となった。こうして戦後に開花した日本的経営の三本柱が定着した。 1)「経営と個人が甘え合う関係で成り立っている」日本企業の労使関係が成立したのである。この関係では、従業員にとって給料はいただくもので、会社にケチをつけるというのは反乱者だという不文律があった。


 ここで三本柱のひとつである「終身雇用制」について厳密な意味ではそのようなものは存在しないという野村正實の指摘に注目したい。終身雇用という言葉は、古くからあるように思われているが、実は、1958年に初めて使われた言葉なのである。先に記したアベグレンは原著のなかで、日本における従業員と会社との関係を「終身的関係」であると強調した。そして、訳者たちはいくつかの単語を「終身的な雇用関係」「終身雇用制度」と訳した。アベグレン自身は、それが大企業の正規従業員にのみあてはまると限定をつけていたが、終身雇用という言葉が急スピードで普及する過程で、言葉が一人歩きし、“日本企業の雇用慣行は終身雇用であるという”単純化された命題になり、社会通念にまでなった。2)  この言葉が瞬く間に普及し、社会通念にまでなっていった理由を、日本企業の労使関係の特徴を物語るものとして捉えたいと思う。


 終身雇用の定義を野村正實が調べたところによれば、①会社は学校を卒業した直後の人を採用し、定年まで雇用を保障する。つまり、解雇や希望退職などの人員整理を行わない。会社が労働契約や労働協約によって雇用を保障することはないので、雇用保障は慣行として行われている。②新規に学校を卒業する者は、卒業と同時に会社に入り、定年までその会社に働き続ける。この二つの条件が同時に満たされているのが終身雇用である。

 では、日本の雇用慣行は本当に終身雇用なのか? 日本には公務員を除いて終身雇用は存在しないというのが野村正實の結論である。終身雇用の対象は基本的には体力のある大企業の、しかも男性正社員に限られる。中小企業では長期的な雇用の安定は難しい。さらに大企業といえども、不況時には解雇、希望退職、早期引退などの人員整理を行ってきた。企業成績の良い時に会社が解雇や希望退職を行わないのは当たり前である。不況の時にこそ従業員の雇用を保障するのが終身雇用であり、解雇や希望退職が実施されるのは終身雇用とは言えない。3)  にもかかわらず、日本の大企業では終身雇用というタテマエは厳然として存在し、会社はそのタテマエで従業員を雇用し、従業員もそのタテマエを信じて会社の為に働いてきたのである。

 終身雇用という言葉は、高度経済成長の真っ只中で生まれ広まっていった。その背景には、1960年前後日本社会にはまだ「封建遺制」が根強く残っていたことが考えられる。終身雇用という言葉の印象は、近代的な契約関係ではなく日本の伝統的な個人と組織に関するイメージである一生涯続く人格的な主従関係ときわめて近いものがあったので、速やかに受け入れられていった。中小企業独自の雇用慣行理念も形成されなかった。大企業における「終身雇用」のみが価値観からみて望ましいものであり、中小企業は今はそれを実現できないでいるが、企業が安定的に成長するならば「終身雇用」を実現するべきであるとされたのである。

 さらに、当時の労働研究者たちは大企業におけるブルーカラー労働者の精力的な労働実態調査を行った結果、永年勤続こそ先進諸国の労働市場に対して日本の労働市場の特徴であると主張し、「終身雇用」という言葉を一斉に用いた。野村正實が引用している「労働市場の企業的封鎖」論 によれば、「とくに選抜され」た労働者が巨大企業に採用され、しかも彼らの全部ではなく、「一部分」が「永年勤続として停年まで勤め上げる」のである。この正しい認識は、終身雇用という言葉の普及とともに、“日本企業の雇用慣行は終身雇用である”という単純で誤った命題によって背後に押しやられてしまった。  こうして大・中小にかかわらずに日本の男性正社員は終身雇用制によって企業に守られるという幻想ができあがった。

 終身雇用制においては、男性正社員の処遇も賃金も定年時までを見込んで決まることが多い。企業は、若い社員の場合には、業績よりも「可能性」を買うと言われる。現在若手社員に支払われているお金は、現在の仕事に対して払っているのではなく、将来幹部になる「可能性」に企業は払っているのである。  厳密には年功だけで賃金が決まっている企業はないが、しかし一般的に年齢が増すにつれて賃金が増える傾向にあることは多くの企業にあてはまる。第一章の賃金格差で見たとおり、長期雇用という前提で社内異動を繰り返しながらキャリアを積み重ねていく働き方には、どんな働き方をしたかではなく個人の能力に対して支払う賃金体系が合っているのだ。職能給・年齢給・勤続給の三つの賃金制度は、個人が身につけた能力、知識、経験、技術に対して支払われるために「能力主義」と呼ばれる。

 企業別組合については、多くの日本の大企業労働組合が企業別に組織されており、その上に産業別の連合体ができている。日本の労働組合が企業主義的性格をもつことは、非常に大雑把ではあるが欧米先進資本主義国と比較することで見えてくる。西洋の近代社会では「家」や「村」にみられた共同体的な結合が解体され、個々の人間の人格的自立がもたらされるが、それは生産力の発展と社会的分業の展開を基礎にした商品生産社会の出現によるものである。

 すべての人が商品所有者として「一物一価の原則」のもとに合理的計算をもって対等にわたりあうのが近代社会である。このように個人的・私的原理が貫徹している近代社会を資本主義社会としてとらえるならば、企業と組合は資本-賃労働関係に直接規定されあい対立しつつ関係をとり結ぶ集団であり、近代社会の最も基本的な機能集団である。個人を柱とした欧米先進資本主義諸国においては、産業別労働組合が企業の枠を超えた労働者の個人加入による横断的な結合を基本としている。こうした欧米に対して各企業・事業所ごとに従業員全員が一括加入する企業別組合の形態をとっている日本では、経営協議会機能と労働組合機能が重なり、また経営組織の末端と組合組織の末端が重なるために、労働組合そのものが企業による職場統括機構に吸収される傾向を強くもっており、労働者の意識や立場も組合と企業の間を揺れ動きやすい。7)  労働組合が会社本位主義の先頭を走っている。日本の労働組合は、二番手に控えている会社そのものなのである。 8)



 従業員との関係において上記のような三本柱を打ち立てた大企業が1955年から60年頃にかけての高度経済成長を支えた。その原理は会社本位の成長第一主義であり、従業員は「まずパイを大きくすることで、あとでその分配にあずかろう」と、会社のために一所懸命に働いた。 9) この時代には、昼夜、公私を問わない働き方が社会を豊かにするという大目標があった。満ち足りた老後を迎えるためにきばる。あの時がんばっておいたから、今このように安楽にしていられるのだ・・・という前のめりの生活意識である。成年の間は幸福な老年のために働き、老後は過去の業績に寄りかかって生きる。10)  滅私奉公に蝕まれたビジネス・システム11) は、熊沢誠が言うところによれば、「なかば強制なかが自発」的にやっている、こうした「会社人間」をつくりだした。自発的にやるように強制した、そういうシステムをつくりだしていったのである。その柱が、終身雇用、年功序列賃金、企業内組合であったといえる。12)  こうした「会社人間」の裏側には、家庭に残された妻や子供たちがいる。


 上記にみた三本柱に加えて、企業間系列、メイン・バンク制、協調的な官庁・企業間関係を加えたのが日本的経営システムである。経営者、従業員、部品供給メーカー、金融機関などの経済主体が組織的な関係を結んで相互に強調し、政府がこの関係を補強する仕組みになっている。


1) 篠塚英子『女性が働く社会』25-29頁、勁草書房、1995年。

2) 影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』106-107頁、岩波書店、1994年。

3) 間宮陽介「日本的経営と法人資本主義」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』155-159頁、岩波書店、1994年。(傍点は筆者)

4) 氏原正治郎「京浜工業地帯における労働市場の模型」『京浜工業地帯調査報告書‐産業労働篇各論』、神奈川県、1954年。

5) 野村正實「終身雇用制議論の陥穽」内橋克人・奥村宏・佐高信『危機のなかの日本企業』160-163頁、岩波書店、1994年。

6)竹信三恵子『日本株式会社の女たち』21-22頁、朝日新聞社、1994年。

7)日本社会学会編集委員会編『現代社会学入門[第2版]』47‐57頁、有斐閣、昭和51年。

8)内橋克人・奥村宏・佐高信「徹底討議/90年代不況は日本経済を変える」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』65-66頁、岩波書店、1994年。

9)奥村宏「日本型企業システム」内橋克人・奥村宏・佐高信編、『日本型経営と国際社会』56頁、岩波書店、1994年。

10) 鷲田清一『だれのための仕事』7-10頁、岩波書店、1996年。

11)影山喜一「日本型経営礼賛論の明暗」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』104頁。

12)内橋克人・奥村宏・佐高信「徹底討議/90年代不況は日本経済を変える」内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』4頁。


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この卒業論文を仕上げたのと二人分労働の完全オーバーワークが始まったのとはほぼ同時期でした。10年以上前のことですが、よくまあ書けたもんだと我ながら思います。この時には実感として十分に理解できていなかったことが、図らずも労働紛争を経験することとなったわたし、そして、現在(いま)高度経済成長期に会社のために滅私奉公のように働き続けたオジサンたちのなれの果てがどうなっているのか、満ち足りているはずの老後がちっとも幸せには見えない(大企業で滅私奉公し続けて来たなら退職金をどっさりもらっているであろうという意味ではたしかに満ち足りているのかもしれませんが・・・)、わたしたちのような立場の職業人には全く品位のかけらもなくここぞとばかりに怒りとストレスを吐き出す、理性などあったものではなく言いたいことを言いたいだけ言うみにくい姿を毎日いやでもみなければならないわたしで読むと、深くなるほどと実感しながら理解することができます。現役時代我慢し続けてきたストレスを、定年退職後吐き出し口にしやすいところで吐き出しているのか。滅私奉公に蝕まれたビジネスシステムに乗っかって働いてきたオジサンたちの頭は凝り固まっていてどうしようもないと感じます。
 
 労基署が地方の長時間労働を従業員にさせてきた中小企業を摘発したっていうニュースを読みましたが、そのバックにいる大企業こそテコ入れされるべき、大企業をテコ入れしなければ意味がないのではないかと私なりに思います。でも大企業をテコ入れするのは社会的影響も大きいので簡単ではないとは、労働局で聞かされた話でした。それはたしかにそうですが、大企業中心のあり方を根本的に見直していかないと日本株式会社で働くことに希望は見えてこないのではないかという気がします。自分の仕事に誇りをもって働くことができる幸せな人はほんとに一握りのわずかな人たちなんでしょうね。

ようやく週末・・・

2016年05月20日 22時31分12秒 | 日記
 ようやく週末になりました。なんとか無事に金曜日の夜を迎えることができました。まずはほっとひと息。明日も明後日も休みだあと思いながら眠れる幸せ。仕事は今日も午後が特に大変でした。お昼にがっつり定食をいただいたのでなんとか持ちこたえることができましたが、金曜日ともなると疲れも度を越しているのできつかったです。高齢者や理解度が落ちている方々を相手に大きな声を張り上げなければならないのは、かなりエネルギーを消耗してしまいます。なんだかね、ほんとに頭がどうにかなってしまいそうです。久しぶりの連休。断捨離を進めつつ、あれやこれや少しやれたらいいなと思います。たぶん、あっという間に終わってしまうのはいつものことですけどね、とにかくくたびれてしまいました。気がついたらお給料日。アナログ方式で給与明細書をもらいました。あまりにも安いのでほとんど嬉しくありません。働くってなんでしょうね。答えが見つかる前にこの世での旅のおわりがきてしまうような気がします。それじゃあ哀しすぎるかな・・・。今の業務をやり遂げられたとして、そのあとどこでどうやって生きていけばいいのだろうと思うのですが、今は考える力が全くありません。今度こそ少し心の底から休んで旅に出たいなあと夢見ています。そんな稼ぎありませんけどね・・・。つらつら思う週末の夜です。オシマイ!

 

ひきずっている

2016年05月19日 22時38分54秒 | 日記
 明日はようやく金曜日。長いです。きついです。早く明日の夕方になるといいな。そしたら二週間ぶりの連休だい!わーい!今日も責任者の女性から、いやそうじゃないですよ、そんなつもりじゃないですよ、そういうことじゃないですよ、って心の中で思ういやな怒られ方をしました。カリカリ、ピリピリしているから仕方ないところありますが、なんかでもやっぱりダメだなあと気持ちくじけます。まあ言っている方はその場でぱっと見たことだけできっとなったことをそのまま言っているだけなんでしょうけどね。気にしないようにするしかありませんが、前職で10年以上働いたことが役に立たない悔しさがどうしても自分の中に沸き起こってきてしまうこともあり、気持ちくじけます。細かいところがほんとに慣れなくって、どうしたって数か月やっただけのことと、10年以上クソみたいな会社で働いてしまって体に沁みついたこととでは、わたしの中で10年以上の方が勝ってしまいます。いやだけれどどうしても無意識にやってしまうことにそれが出てしまいます。まだまだ前職をひきずっていることを認識せざるを得ません。こんなことや自分だけ一か月遅れでスタートしていることによる疎外感みたいなものを今も感じ続けていることなど、正直ベースで面談の席で話してしまいました。

 今朝最寄駅からの電車がおくれてしまい、ターミナル駅での乗り換えには間に合わず5分遅れてしまうことになりすごくいやでしたが、遅延証明書をもらい遅れますと電話も入れました。正確には遅刻していないのですが5分前には入室するようにと責任者の女性から最初の頃言われたのには間に合わないのでなにか言われてもいやだし、電話しました。二年間もブランクがあり、こうして毎朝出勤するのが精一杯なこと、タイミングによっては水を飲めなくてつらいこと、喉をいためていることなど話してしまいました。よかったのか、どうか、よくわかりません。10年以上続いた慣れ親しんだ人間関係と数か月では親密度が全く違います。自分の中で苦しいです。

 10年以上慣れ親しんだ人間関係のはずだったのに、使い捨てにされたという結末。10年以上の歳月は人生の中で大きく、時間はもう戻ってこない悔しさを今も引きずり続けています。行くところまでいった書類の結果も待ち状態です。まあどんな結果でも、わたしの実利はもうなにも変わらないのでもういいですけどね・・・。なんかね、ただ10年以上という歳月は大きいです。ほんとに人生の一部という実感。デカイですわ。心身をすり減らすような思いで二人分労働を続けたあの日々はわたしにとってなんだったのか、ほかではなんにも役に立たないことばっかり身についてしまったあの日々はわたしにとってなんだったのか、今もわたしの中で問いかけざるを得ません。答えはないのでこんな無駄なこともうやめた方がいいんですけどね、人生の時間には限りがあるのでもうそんなこと考えない方がいいんですけどね、なんかね、みなさんにお別れをまともに言えていない、さんざん飲み会とかも行ったのに、お世話させていただきました、と言えていない終わり方をひきずっています。会社のアドレス宛に長々とメールを送るわけにはいかず、個人アドレスを教えてくださいとメールしても返信はほとんどありません。そりゃ返信できないの当然ですけどね、個人アドレスをもっていない人もいるし、なにをばかなことしているのか、限りある人生の時間の無駄使いですね。明日一日が早く、無事に終わって夕方になりますように・・・。オシマイ! 追記:わたしがどんな思いで働き続けたのか、だれにもわかりません・・・。

心にしばしのうるおいを・・・

2016年05月18日 21時36分13秒 | 日記
 

 愚痴記事だけでは自分でも辛いので、今日も清史朗君のお写真をドラマの公式ツィッターからお借りしました。なんともさわやかで涸れた心にしみこみます。しばし心のうるおい。週刊女性、忘れずに買いました。男前な成長ぶりに、ミュージカルの舞台に戻ってくる日が楽しみでなりません。レミゼ、エリザベートは繰り返し上演されていくと思うので、マリウスかアンジョルラス、ルドルフで戻ってくる日を心から待っていますよ。

 仕事はね、なんだか本当に消耗してしまいます。こうして心が涸れていくような思いをしないとお給料ってもらえないものなのか。仕事ってこういうもんだったのか。一生懸命働かない者を非難する社会が、一生懸命働いた自分が悪いんだって否定され続けて、また一生懸命働いているのになんか人にエネルギー奪われて消耗するだけで、いろいろと勉強にはなるけれど少しも楽しくない毎日。世の中そんなに甘いもんじゃないとか言われますが、なんだか納得しがたいです。こんなこと言っていてもどうにもなりませんけどね・・・。

 明日はようやく木曜日。なぜ金曜日じゃないんだろうと思いながらの木曜日。先週土曜出勤だったので長い一週間。今日はお昼の休憩が一時半からで疲れました。毎日一定ではないのでリズムがつくれません。昨夜野菜を煮立てただけのスープを朝パンと共に少しいただいたのでなんとか腹持ちがしました。交代でこの負荷を負っているんですがなんとかならないものか。私が働き始めたころにはなんとなくもうできあがっていた朝早くから出勤して準備をしてくれている人と、わりとぎりぎりに出勤する人。私は朝早く出勤して準備してくれるのに甘えている方ですが、それでは公平ではないので朝早く来て準備をする人を当番制にしてはどうかという話が正規職員からでたようです。時間外手当はつかないので朝のサービス残業。私は今より早く出勤するなんて無理なので無理なんですよね。でもそんなことは言えないか・・・。4月からきた係長と個人面談があります。私はたぶん明日。なにか不満はないかとか聞きたいみたいですが、わたし話し始めたらたぶん長くなってしまいます。でも長くなると、ほかの人たちから、長いね、どうしたんだろうって思われるだろうし、すり減りからのやり直しでいまだ細かいことには慣れることができないしすごく大変だとも言えないし、どうしたもんかと・・・。ほかの人たちはわりとあっさり終わっているようですが、本音の話までしていないんでしょうかね、どうなんでしょう。なんだか毎日毎日ガチャガチャ、ガチャガチャで落ち着かず本当に疲れます。自分のペースと段取りでやれることは何一つないので本当に疲れます。人によって細かいところでやり方違うし、自分のやり方で指示的なことを言う人もあるので戸惑いも多く本当に疲れます。この仕事を完璧にやることなんて到底無理でしょう。おかしくなってしまいます。

 仕事ってなんでしょうね、なんとか12月末まで完走できたとしたら、そのあと私はどこでどうやって生きていけばいいのかわかりません。食べることと仕事とのバランスがとれなければどうにもなりません。生きていくってむずかしいです。苦労ばっかりの人生。神様は私になにを問いかけているのでしょうかね。そんなことを思いながら明日も明後日も出勤です。ふんばれ、わたし・・・。


楽しいひととき

2016年05月17日 21時59分59秒 | 日記
 雨の一日、ちょっと寒い一日。そんなわけで来所者はいつもより少なめでしたが、今日はも今日とてヘンなオジサンが最後の方に現れてしまいました。一日の終わりはやっぱりげっそり。ヘンな疲れ。なんだかんだと屁理屈つけて、言いたいことを言っているのを聞いているのはそれだけでげっそりと疲れを感じます。私たちのような立場の者は、手を出さない限りは何を言っても平気だと思っている人たちがいて、ちょっとしたひとことや言い方で怒りに火がつくと日頃のストレスを吐き出すように言いたいことを言います。何を言っても平気だとなると人はこうなるものかと、毎日毎日みにくい、なにか人の本質の一部をいやでもみせられてしまっています。今日もノー残業になりました。どのみちたいした残業代ではないので毎日ノー残業デーでいいです、もう。今日は午後の一番忙しい時間帯に受付をやってトイレも水も我慢しながら2時間ぐらいを過ごしたのでくらくらになり燃え尽きました。明日はお昼休憩が一時半からという辛い一日。毎日こうなら体のリズムがつくれますが、11時半からの時と2時間の差があるのですごくきついです。ようやく休憩になったときには、疲れすぎておなか空きすぎになってかえってあまり食べられなかったりします。早く休んだ方がいいのに、息抜きにミュージカルと清史朗君関連のツィッターやブログをチェックしています。

『1789バスティーユの恋人たち』。東京千穐楽カーテンコールの動画がすごく楽しいので何度も観たくなります。久しぶりに笑っています。ここ数か月人と食事をしていないし、職場は別にして人と会うこともないので笑うこともありません。帝国劇場で坂元さんラマールに笑いをもらったのがほんとに久しぶりの笑ったひと時。笑いたっぷりの楽しいカーテンコールに、一人の部屋でゲラゲラ笑うことはできないのでこらえながらも楽しくてリピートしては笑っています。なんかいやなこと忘れられて、頭の中がすごく休まります。坂元さんが挨拶する番なのに、間違って挨拶しようとした古川さんの姿を見逃さずおさめてくれたカメラマンさん、グッドジョブ! ロベスピエールという役と美しい顔と天然キャラとのギャップがすごい古川さん。楽しすぎます。坂元さんのテントウムシをやったのでもう怖いものはないという話とか、上原さんが話し始めたときあまりにもいい声すぎてソニンさんが笑っている場面とか、加藤さんがねねさん泣いているのになにもできずにいる場面とか凰希さんのドレスの裾を踏んでしまっていることが判明すると土下座して謝る場面とか、ほんとにみなさん楽しそうで作品全体の雰囲気が最初の頃よりいい意味でまとまって、一体感が生まれてすごくよくなった舞台だったんだなあということが伝わってきます。前楽のカーテンコールで花ちゃんアントワネットをルイ16世の塩澤さんがエスコートするのを見逃さずおさめてくれているのも嬉しい。書き始めたらきりがなく、また休日にあらためて書ければと思います。


こちらのサイトを楽しんでいます。
わたしのように何度もリピートしては心のエネルギーをチャージしている働く女性、たくさんいらっしゃるんでしょうね。
働くのはすごくきびしいので、こういう楽しみもなくただ働くだけだと心が涸れてしまいます。
楽しめるものをもっているということは大切なこと。

https://www.youtube.com/watch?v=RFkbD9z2WaI&feature=share

https://www.youtube.com/watch?v=r_GjavKjUdI

ぶっとばせ!

2016年05月16日 22時30分43秒 | 日記
 
 先ほどは東日本大震災以来初めて携帯電話に緊急地震速報が鳴り響きました。ひと晩を前職のクソ会社で眠れないまま過ごし、明け方動き始めた地下鉄にようやく乗った車内でも緊急地震速報が鳴り響いてものすごく緊張しました。あの時の不安と恐怖感を今も体が覚えているので、どうしても思い出してしまいます。熊本でもまだまだ地震が続いているようだし、どうなってしまうのか・・・。こんな時は自分の部屋を離れたくなく、出勤したくありませんがそんなこと言ってもいられませんね、いやですが。

 窓の外もどんやりの一日でしたが気持ちもどんやり嫌な一日でした。朝から責任者の女性に怒られてしまいました。なんというか、うまく言えませんが私の責任ではないし、13年間クソ会社でしみついてしまった感覚がなかなか抜けず無意識のうちにやっぱりどうしても同じような感覚で自然にやってしまうことがたくさんあって、でもその感覚でやってしまうと今の職場的にはNGだったり、チームでやっているので自分のやり方では他の人には伝わらなかったり、ほんとになんというか難しいです、大変なんです、わたしの中で・・・。一生懸命にやっているつもりです。だからあんまり嫌な怒り方しないでほしいです。まあ最初の頃ほど気にはならなくなりましたが、指示の言葉が必ずしも十分ではなく、ほかの職員からこうしてね、って言われたとおりにやったまでのことなので、やっぱり波長がよくわからないなあと思います。詳細を書くことはできませんが、おまけに今日は午後の一番忙しい時間帯に、机を叩いて怒った方とか、ほかにも今日は今日でいろいろに難しい方ばっかりでなんだかすごく疲れました。一日の終わりはどんより。私が怒られたわけではなかったですが、せまい部屋なので机を叩いて怒鳴る声はいやでも聞こえます。怒る内容はこちらに非はありません。ご本人の理解の仕方が間違っているだけなんですけどね、説明して理解されるような年齢でもなく、怒り始めたら役職者が頭を下げるしかありません。毎日毎日こんな類の方とか、ご高齢の方々とかを相手に説明していると心身のエネルギーを奪われて消耗する感です。吐き気してきそうなほどにうんざり、げっそり。まだ月曜日。今日は今日のこととして忘れていかないと、明日は明日でまた嫌なことがたくさんあるので満タンになってしまって身がもちません。こういうへんてこなストレスにまみれていると気持ちのいい疲れじゃないので眠れないんですよね。

 美しいものをみないとおかしくなってしまいそうな、こんな時はイケメンのお写真が気持ちを救ってくれます。美しいお写真をみて、凝り固まったみにくいオヤジの顔なんかぶっとばせ!どんよりをぶっとばせ!

 というわけで、劇団ひまわりの公式ツィッターから清史朗君のお写真、転用させていただきました。週刊女性に掲載されているそうです。忘れないように買わなくっちゃ。めっさイケメン。あまりにもかっこよく、さわやかで心が洗われるような思いです。

 昨日まで帝国劇場の舞台に立っていたイケメンたちとか、エネルギーあふれるダンスパフォーマンスも頭の中でリフレイン。かわいい小池君ロナンに、かっこいい加藤さんロナンに、マリオネットの場面が美しすぎる古川さんロベスピエール等々。引き出しにある、幸せ感を満たしてくれる想い出を総動員します。かなりあやしいおばさんになってしまっているかもしれませんがお赦しを・・・。



 

想いだけ

2016年05月15日 22時31分04秒 | 日記
『1789バスティーユの恋人たち』、昨日夜の部の前楽と本日の千穐楽のカーテンコールの動画が早速アップされたので何度も観て楽しみました。東宝さん早いお仕事、ありがとうございます。なんだか、今までにないほんとにいい作品だったんだなあとしみじみ思いながら観ました。(珍しく小池先生が再演のリクエストをふるあたり、来年にも実現するかな?!)

 同時に世界のカオスが深まるばかりの昨今、これから世界はどうなっていくのか不安になる昨今、世界中の子供たちが笑顔でいられますようにと、平和が世界中にみちあふれますようにと願わずにはいられないような気持ちになりました。わたしなにもできません。ほんとに無力。これが自分の仕事なのだと実感することができない、怒りとストレスのはけ口、高齢者やオジサンへのシステムの説明係(前職と一緒じゃないか!)、頭がおかしくなりそうな業務内容で心身を消耗するばかり。こうして人生の時間が過ぎて行って、気が付いた時には旅立ちの時を迎えなければならないのかな。そんなことはない、まだ時間は許されているはず。今年いっぱいは今の業務を辛抱しながらやっていくしかありません。そのあとどこでどうやって生きていけばいいのか・・・。今はただ時をやり過ごしながら、こうして想いをブログに書くことだけ。色々と想いはありますが頭が疲れちゃってどうにもなりません。明日から5日間持ちこたえることができるのか。残業を週二日に減らすとかっていう話が一昨日出ていました。20分ぐらいでは残業代つかないし、一時間の残業してもどっちみちたいしたお金ではないので毎日ノー残業で帰してほしいです。早く金曜日の夜になるといいなと思いながらの長い一週間が始まります。動画やツィッター、ブログを楽しんで息抜きもできたはずなのでなんとか乗り切るしかない一週間です。疲れすぎちゃっているせいか、7時過ぎに目がさめてしまいました。もう一度うとうとすることができてほんとによかったです。なんとか一週間・・・。


『1789バスティーユの恋人たち』より(6)

2016年05月15日 13時28分41秒 | ミュージカル・舞台・映画
 
 舞台は昨日私がなにやってんだかよくわからないへんてこなストレスにまみれながら仕事?(これが仕事なんだろうか)をしている間に無事、小池君ロナン、沙也加ちゃんオランプ、花ちゃんアントワネットが千穐楽を迎えられたようです。今日が東京千穐楽。あっという間ですね。一昨日の公演では、セリが上がらなくなるというアクシデントがあり一幕で一時中断、再開された後のキャストのみなさんの集中力がさらにすごくて、結果的にさらにいい公演になったようです。(セリが開いたまま芝居が続いていく舞台はしばしばあり、役者さんが落ちはしないかとドキドキしながらみたこと何度もあります。)急な演出変更にも対応しつつクオリティをさらに高めていく。みんなが主役の舞台。こんなの初めてかもしれません。ダンスパフォーマンスで選ばれたアンサンブルのみなさん。キャスティングを知ったときにはほとんど名前を知りませんでした。今もお一人お一人を認識することはなかなかできていませんが素晴らしかったです。芝居と歌はほとんど未経験の方が多かったようですが、芝居から群舞のダンスと歌へと流れていくのが5月12日に観劇した時は、4月12日に観劇した時より自然な感じになって、シトワイヤン、貧しい人々を体現している感が強くなっていたと感じました。小池君ロナンも強い農民出身になっていました。歌声も安定してきていました。小池君の歌声をもっと聴きたいな。心残り・・・。加藤さんロナンは一回だけ。ねねさんオランプとの組み合わせはみずじまいで心残り・・・。

 ペイロール伯爵が、バスティーユの牢獄で、「革命を起こそうとしているのはプチ・ブルジョワ出身の奴らだ。貴族を妬んでいるだけなんだ。独房で頭を冷やせ!」(だったかな?)とロナンを拷問する場面。ペイロールの言葉も歴史の真実なのかもしれません。ロベスピエールとデムーランが初対面のロナンに、デムーランは「君たちに同情しているんだ」、ロベスピエールは「どうやら字は読めるようだな」っていう場面。冷静にみたら完全に上から目線でばかにしてますね。ロナンは反発しますが、もっともっと怒ってもおかしくない。平民の間でも貧富の差が激しかったという真実を物語っています。


 王太子の葬儀の場面。「私は盲目だった。神様はもっとも重い罰を私に与えた」と顔中をくしゃくしゃにして泣くアントワネットに、「もうよい」と声をかけるルイ16世の声がいたわりにあふれていました。国王と王妃という出会い方ではなく、平民同士だったらいい夫婦になれて幸せに暮らすことができたかもしれない二人だとふっと思いました。


 トップの写真は東宝の公式FBからの転用で、ソニンさん演じるロナンの妹ソレーヌと女性アンサンブルのみなさん。パン屋を襲撃しようとする女性たちが歌い踊る圧巻の場面。女には男にはできない、子供を産むということができる、権力にこびへつらう男にはない強さと武器が女にはある、という内容の歌詞(かなりあやふや)を聴きながら、ジェンダーというキーワードがふっと思い浮かびました。モノ言えない立場に追い込まれていた女性たちがいざとなると団結して強い力をもったという史実にもとづく場面のようです。団結すると強くなった女性たちが、アントワネットの侍女を務めていたというだけの女性たちの命をうばって行進したというのもまた史実。アントワネットを悪者にしてしまうとわかりやすかったんでしょうね。(花ちゃんアントワネット、和央さんフェルゼンの『ベルばら』のプログラムに記載されていました。これはまた別の機会に・・・)。

  ソレーヌの人生は本当に激しい。登場シーンでは農民で、父をペイロールに殺されてうたう「叫ぶ声」。兄ロナンに捨てられると自分もパリに出ていき娼婦となって働くようになり、ダントンに見いだされる。偶然再会したロナンに「食べていくには仕方ない。きれいごとじゃ生きていけない」っていう言葉は今も真実。女性アンサンブルを従えて歌い踊る「夜のプリンセス」は圧巻。ダントンの計らいでカフェで働くようになり、ダントン、ロナンと共に革命へと身を投じていくようになる。群舞のダンスシーンでも激しく歌い踊り、最後は兄ロナンもまた王党派の銃弾に倒れて突然別れが訪れ、あふれる涙を流しながらうたう「叫ぶ声」。悲しみからは憎しみが生まれる、命のおもさは国王も私たちもみな同じ。こんな内容の歌詞だったと思います。演じるソニンさん。毎回すごいエネルギーを消耗されていると思います。シングルキャストでこの役をやり通すのは大変なことだったと思います。心から拍手を送ります。

 名もなき人々を主役にした舞台。ロナン、ソレーヌ・・・。実在したんでしょうね。歴史に名を残すことはなかったけれど、一日一日命をつないでいくこと自体が精一杯だったレ・ミゼラブルな人々がいたこと、その上に現在(いま)私たちが存在するということに想いを馳せたい。今この瞬間も世界の中には、一日一日命をつないでいくことに精一杯な人々がいることに想いを馳せたい。なにもできないけれどフランス革命の位置づけを考える一助にもなればという想いで、少し硬い本からの引用です。精神医学の話はむずかしいので読み飛ばしてください。

『生命の教養学‐ぼくらはみんな進化する?』_進化論と医学、2006年慶応義塾大学出版会発行より)

「ヨーロッパ。特にフランスにおいて、モレルの変質論(現代の労働者はさまざまな害悪に囲まれており、その害悪は体に刻み込まれ、遺伝によって子どもに伝えられる。)が現れた19世紀の後半というのは、フランスのインテリたちが深刻な不安に直面した時期です。まず急激な都市化。19世紀の初めには、パリの人口はおよそ50万人。これが、1900年には260万人になっています。100年間で人口が5倍に増えています。似たような現象というのは、ヨーロッパの特に先進地帯で見ることができて、たとえば一番劇的に増えているのはニューヨークです。1800年のニューヨークの人口は5-6万人ですが、1900年
には約200万人になっている。あるいは、19世紀初頭のベルリンの人口はおよそ10万人ぐらいでしたが、それが1900年には100万人を超えています。

 このように、ヨーロッパのさまざまな都市で大都市の問題がでてきます。大都市には当然田舎から人々が流入してきますが、この流入してきた人間には貧しい人々が多い。とにかく都市に行ったら、何か仕事があって食えるのではないかと、特にあてもなく流入してきた人間がたくさんいる。彼らの多くは恒常的に失業状態で、生活をするために犯罪や売春をせざるを得ません。大都市のスラムで日常的に犯罪を行って、そして生計を立てる人々、あるいは売春以外に生計を立てる手段を持っていない多くの女性たちが沈殿していきます。

 そしてこれらの社会問題は、いやが上にも人々の目にとまるわけです。このままのペースで都市にどんどん人口が流入していって、貧困問題や社会問題が拡大していったら、一体どうなるのだろうかという不安を、ヨーロッパの大都市の知的なエリートたちが共有していたわけです。急激な都市化とさまざまな社会問題の噴出ということです。」

「フランス革命以降のフランス社会は非常に不安定な時代です。1789年のフランス革命、ナポレオン戦争、そして1830年の7月革命、1848年の2月革命、1851年のナポレオン三世によるクーデター、そして1871年のプロシア・フランス戦争での敗戦と、この時期のフランスは非常に政治的に不安定で、次から次へと支配体制が変わっていく時代です。このように政治体制がころころ変わっていく中で、フランス革命の時にはあった、あるいはフランス革命の直後、あるいはそれから数十年間にあった非常に楽観的な歴史観が崩壊していきます。つまり、フランス革命によって人類は解放された。われわれは近代への第一歩を踏み出して、今、着実にその道を歩んでいるといったような、自分たち自身の過去と現在、そて未来についての楽観的な歴史観が、この度重なる体制の変動の結果、破綻します。

 フランス革命の結果、この先には真っすぐに自由と平等と友愛への道が広がっているはずだ、と多くの人は信じていました。しかし、このような最も楽観的な歴史観の持ち主の鼻をくじくのに十分なほど、現実は非常に不安定なもので、フランスは、そして人類はどんどん発展していくというオプティミスティックな歴史観をもう持てなくなっています。現実がそのような歴史観を持つことを許さない。だから、それとは違う歴史観が現れないと、事態を説明できません。そしてその時に、非常に暗いペシミスティックな史観ですけれども、放っておくと悪くなるけれども、しかるべき手を打てば止めることができるという処方箋まで内包したかたちで提示されたのが、モレルの変質理論です。」

東宝の公式FBより、加藤さんロナンとねねちゃんオランプ。



初日前記者会見の花ちゃんアントワネットと沙也加ちゃんオランプ。げきぴあから転用しています。
王妃と、王妃に忠実に使えるオランプという二人の関係がすごくよかったです。
オランプの、王妃を慕う姿が好感度大。




熊本地震の募金箱の隣にキャストのみなさんの寄せ書きありました。
(写真ありますがまた時間のある時に・・・)。
わたしもささやかにまた募金。こんなことしかできません。

 次回帝劇に行くのは7月2日の『エリザベート』。全く陽があたることのない、エライ人たちから評価されることもない、誰でもやれると現場を知らないエライ人たちは簡単に考えている仕事。ぞっとするような5月の後半、祝日がないぞっとするような6月を乗り越えることができたらまた帝国劇場。ほんとにぞっとしているので、エリザを目標になんとかやれるのでしょうか。それまでしばしお別れです。

なんとも言えない

2016年05月14日 22時35分56秒 | 日記
 今日は土曜日なんですね。一昨日振替休日で帝国劇場に行き、昨日と今日は出勤、でもって明日休んだら月曜から金曜までフル稼働って、何曜日だと実感すればいいのかわからなくなってしまいます。なんだか金曜のような感覚にどうしてもなってしまいますが残念ながら土曜で明日一日はさんで出勤というわけです。つらいなー。色々と想いはあれど、やりたいことも色々とあるはずなれど、疲れちゃってなんにもできません。ほんとに情けないこと。詳細を一切書くことはできませんがシステムが終日動かず本来の業務がほとんどできませんでした。結果的に立ち時間が想定外に長くなってしまい、涙がでそうなほどに足が痛くてたまりません。ほんとずっと立っていると足が痛くってしょうがないんですよね。なんの達成感もないし、怒りをかって空しいだけの、なんとも言いようのない疲れ方をしています。責任者はもう少し考えてくれればいいのにな、と思います。こうして安い時給で疲れ果ててしまっている毎日。今日もつらつらとミュージカル&清史郎君関連のツィッターをチェックして息抜き。来週からの長い5月後半と6月を考えるとぞっとします。限りある人生の時間。私は何をすべきなんでしょうね。こうして考えているうちに終わりの時を迎えてしまいそうです。まずは明日も断捨離。それから少し本を読んだり、英語もやれるといいかな。頭が回っておらずこんな感じで今日はおしまいです。すごく眠いのでお風呂の中で眠らないように気をつけねば・・・。

こんな面白くない仕事、一日も早く終わりがきてほしい。でもそのあとどこでどう生きていけばいいのかわからないことを考えると、どこにも必要とされない社会から孤立する辛さを考えと今はやめることができません。いやでも年末までだし。限りある人生の時間。母と同じと考えるとあと二十数年。あっという間です。この世を旅立つとき心残りがあったらいやだけどこのままではいっぱい残りそう。どうすればいいのだろうと思いながらだらだらと時間は過ぎていきます。今日はなんとも言えない空しい疲れ方をした一日でした。眠って忘れるべし!