第一章で見たような女性と職業との関係が成立したのは、戦後の高度経済成長期以降のことである。高度経済成長は、日本の社会構造を大きく変化させた。終身雇用制、年功序列賃金、企業内組合のいわゆる三種の神器を核とし、それらに企業間系列、メイン・バンク制、協調的な官庁・企業間関係を加えた日本的経営システム1)は1950年代から60年代にかけて出来上がっていった。
ここで、川東英子の記述に沿って非常に大雑把ではあるが、日本資本主義の流れを概観すると、明治政府の殖産興業政策は、工業の著しい発展をもたらし日本資本主義は1897年‐1907年(明治30-40)頃に確立し、さらに第一次大戦前後から1920年代にかけてさらに独占資本主義へと発展を遂げた。
換言すれば、「第一次大戦末までに海運・造船・綿紡績・銅・石炭・電力・銀行の7部門において独占資本が確立し」(高村直助「独占資本主義の確立と中小企業」『日本歴史18』所収、岩波書店、1975年)、その後は、重化学工業部門で内実を弱めたものの、綿紡績・電力・銀行では、上位資本の支配力の強化や資本輸出にみられるように独占資本としての特徴を強化した。1937年(昭和12年)の日中戦争勃発により、日本は戦時体制に転換する。「臨時資金調整法」「輸出入品等臨時措置法」「国家総動員法」の戦時3法の成立により、日本資本主義は戦時国家独占資本主義へ移行していったのである。2)
1945年(昭和20年)8月15日、日本の敗戦でもって第二次世界大戦は終了した。敗戦と「財閥解体」により戦時中に進展した鉱工業生産は急減するが、石炭・鉄鋼・電力等の重要産業に対する重点的財政資金融資や占領政策の転換(たとえば独占禁止法の改正)、さらには朝鮮戦争「特需」によって日本の資本蓄積は急増する。この資本蓄積を足がかりにして、日本経済は1955年から1973年に至る19年もの間、民間設備投資に主導された、世界に類をみない高度成長を展開することとなったのである。
高度経済成長期は重化学工業化の推進過程でもあった。鉄鋼、電力、造船、さらには石油・石油化学、電気機械、自動車等の産業で次々と技術革新が行われ、新鋭設備を備えた巨大な工場やコンビナートが建設された。その結果、製造業に占める重化学工業の比重は1970年で63.5%(付加価値生産額)と、世界最高水準に達した。また、全産業に占める製造業の比重も33%と高い。国家による大企業への財政・金融・租税各面での手厚い保護、アメリカからの技術・資金導入、さらには低労働条件にもかかわらず「優秀な」労働力によって、我が国は短期間に重化学工業先進国へと変貌を遂げた。3) 設備投資が年率20%前後と高い伸び率を示し、投資が投資を呼んだ時代であった。4)
重化学工業の発展に伴い、女性も不可欠な働き手として従事していた家族単位の農林業が激減し、代わって第二次産業・第三次産業従事者の比率が飛躍的に増大した。家族単位で生産活動を営む自営業者比率が低下し、雇用労働者比率が増大した過程において、日本型雇用慣行といわれる「終身雇用制」、「年功序列賃金」、「企業内組合」は、戦後大きな高まりを迎えていた労働運動に対処するため、及び不足し始めた労働力を定着させるために、労働者の企業への忠誠心を高めることを目的として形成された。これら三本柱はいずれも企業と従業員の関係についての日本的特徴だといわれてきた。5)
日本型雇用慣行とは、企業が簡単には労働者の首切りを行わないことを約束する一方で、同じ企業に長く勤めれば勤めるほど賃金が高くなるような賃金体系や企業の利益を考慮にいれないと成立しないような労働組合のあり方を通じて労働者に企業忠誠心を要求する雇用慣行である。この日本型雇用慣行は、労働者家族にとって生活の安定を保障するものとして受け止められたが、同時に性差別構造も内包していた。
「終身雇用制」を維持するために、労働者は景気変動に対応した労働時間の増減や転勤を含む企業内での柔軟な配置転換を受け入れざるを得ない。すなわち企業の都合に合わせた働き方をすることを拒みにくくなる。こうした働き方は、家庭責任を担う労働者には困難である。ここに日本型雇用慣行の「恩恵」に浴する労働者は、妻が家庭責任を一手に引き受けてくれる男子労働者のみとし、女性は長期雇用せずに短期に回転させるという労働慣行が成立した。6)
このような労働慣行はいうまでもなく家庭責任は女性のみにあることを前提とする。日本型雇用慣行の成立の過程は、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業の成立の過程でもあった。一部の企業は、女子の若年退職制度(女性のみ25-30歳を定年とする制度)や結婚退職制度や男女二本立ての賃金体系をつくり、女子の短期雇用を制度化していった。[ 添付資料;A社の退職金に関する組合との協定内容は、自己都合退職と結婚・出産退職とでは、退職金の支給率が異なることを示している。]
やがて、1960年代に労働力不足は製造業部門の若年男子において技術・技能工の不足という面で顕著となってくる。女性労働者は、この時期に労働力不足を補うために製造業部門に余剰労働力として主婦のパートジョブという形態で登場した。低賃金に比して優秀な労働力として主婦のパートタイム労働者はまたたく間に多くの企業で採用されることになった。こうして日本女性のM字型雇用は形成されたのである。
引用文献
1) 内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』133頁、岩波書店、1994年。
2)竹中恵美子編『新・女子労働論』35-90頁より抜粋、有斐閣選書、1991年。
3)竹中恵美子編、前掲書、75-76頁。
4)篠塚英子『女性が働く社会』18-19頁、勁草書房、1995年。
5)内橋克人・奥村宏・佐高信編『日本的経営と国際社会』53頁、岩波書店、1994年。
6)江原由美子・山田昌弘『ジェンダーの社会学-女と男の視点からみる現代日本社会』75-76頁、(財)放送大学教育振興会、1999年。
添付資料;A社の退職金に関する組合との協定内容は、自己都合退職と結婚・出産退職とでは、退職金の支給率が異なることを示している。
ここで、川東英子の記述に沿って非常に大雑把ではあるが、日本資本主義の流れを概観すると、明治政府の殖産興業政策は、工業の著しい発展をもたらし日本資本主義は1897年‐1907年(明治30-40)頃に確立し、さらに第一次大戦前後から1920年代にかけてさらに独占資本主義へと発展を遂げた。
換言すれば、「第一次大戦末までに海運・造船・綿紡績・銅・石炭・電力・銀行の7部門において独占資本が確立し」(高村直助「独占資本主義の確立と中小企業」『日本歴史18』所収、岩波書店、1975年)、その後は、重化学工業部門で内実を弱めたものの、綿紡績・電力・銀行では、上位資本の支配力の強化や資本輸出にみられるように独占資本としての特徴を強化した。1937年(昭和12年)の日中戦争勃発により、日本は戦時体制に転換する。「臨時資金調整法」「輸出入品等臨時措置法」「国家総動員法」の戦時3法の成立により、日本資本主義は戦時国家独占資本主義へ移行していったのである。2)
1945年(昭和20年)8月15日、日本の敗戦でもって第二次世界大戦は終了した。敗戦と「財閥解体」により戦時中に進展した鉱工業生産は急減するが、石炭・鉄鋼・電力等の重要産業に対する重点的財政資金融資や占領政策の転換(たとえば独占禁止法の改正)、さらには朝鮮戦争「特需」によって日本の資本蓄積は急増する。この資本蓄積を足がかりにして、日本経済は1955年から1973年に至る19年もの間、民間設備投資に主導された、世界に類をみない高度成長を展開することとなったのである。
高度経済成長期は重化学工業化の推進過程でもあった。鉄鋼、電力、造船、さらには石油・石油化学、電気機械、自動車等の産業で次々と技術革新が行われ、新鋭設備を備えた巨大な工場やコンビナートが建設された。その結果、製造業に占める重化学工業の比重は1970年で63.5%(付加価値生産額)と、世界最高水準に達した。また、全産業に占める製造業の比重も33%と高い。国家による大企業への財政・金融・租税各面での手厚い保護、アメリカからの技術・資金導入、さらには低労働条件にもかかわらず「優秀な」労働力によって、我が国は短期間に重化学工業先進国へと変貌を遂げた。3) 設備投資が年率20%前後と高い伸び率を示し、投資が投資を呼んだ時代であった。4)
重化学工業の発展に伴い、女性も不可欠な働き手として従事していた家族単位の農林業が激減し、代わって第二次産業・第三次産業従事者の比率が飛躍的に増大した。家族単位で生産活動を営む自営業者比率が低下し、雇用労働者比率が増大した過程において、日本型雇用慣行といわれる「終身雇用制」、「年功序列賃金」、「企業内組合」は、戦後大きな高まりを迎えていた労働運動に対処するため、及び不足し始めた労働力を定着させるために、労働者の企業への忠誠心を高めることを目的として形成された。これら三本柱はいずれも企業と従業員の関係についての日本的特徴だといわれてきた。5)
日本型雇用慣行とは、企業が簡単には労働者の首切りを行わないことを約束する一方で、同じ企業に長く勤めれば勤めるほど賃金が高くなるような賃金体系や企業の利益を考慮にいれないと成立しないような労働組合のあり方を通じて労働者に企業忠誠心を要求する雇用慣行である。この日本型雇用慣行は、労働者家族にとって生活の安定を保障するものとして受け止められたが、同時に性差別構造も内包していた。
「終身雇用制」を維持するために、労働者は景気変動に対応した労働時間の増減や転勤を含む企業内での柔軟な配置転換を受け入れざるを得ない。すなわち企業の都合に合わせた働き方をすることを拒みにくくなる。こうした働き方は、家庭責任を担う労働者には困難である。ここに日本型雇用慣行の「恩恵」に浴する労働者は、妻が家庭責任を一手に引き受けてくれる男子労働者のみとし、女性は長期雇用せずに短期に回転させるという労働慣行が成立した。6)
このような労働慣行はいうまでもなく家庭責任は女性のみにあることを前提とする。日本型雇用慣行の成立の過程は、「男は仕事、女は家庭」という性別役割分業の成立の過程でもあった。一部の企業は、女子の若年退職制度(女性のみ25-30歳を定年とする制度)や結婚退職制度や男女二本立ての賃金体系をつくり、女子の短期雇用を制度化していった。[ 添付資料;A社の退職金に関する組合との協定内容は、自己都合退職と結婚・出産退職とでは、退職金の支給率が異なることを示している。]
やがて、1960年代に労働力不足は製造業部門の若年男子において技術・技能工の不足という面で顕著となってくる。女性労働者は、この時期に労働力不足を補うために製造業部門に余剰労働力として主婦のパートジョブという形態で登場した。低賃金に比して優秀な労働力として主婦のパートタイム労働者はまたたく間に多くの企業で採用されることになった。こうして日本女性のM字型雇用は形成されたのである。
引用文献
1) 内橋克人・奥村宏・佐高信編『危機のなかの日本企業』133頁、岩波書店、1994年。
2)竹中恵美子編『新・女子労働論』35-90頁より抜粋、有斐閣選書、1991年。
3)竹中恵美子編、前掲書、75-76頁。
4)篠塚英子『女性が働く社会』18-19頁、勁草書房、1995年。
5)内橋克人・奥村宏・佐高信編『日本的経営と国際社会』53頁、岩波書店、1994年。
6)江原由美子・山田昌弘『ジェンダーの社会学-女と男の視点からみる現代日本社会』75-76頁、(財)放送大学教育振興会、1999年。
添付資料;A社の退職金に関する組合との協定内容は、自己都合退職と結婚・出産退職とでは、退職金の支給率が異なることを示している。