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たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

寺田寅彦著『天災と国防』より(1)

2014年06月11日 22時56分45秒 | 寺田寅彦著「天災と国防』
「また一方ではこういう話がある。ある遠い国の炭鉱では鉱山主が爆発防止の設備を怠って充分にしていない。監督官が検査に来ると現に掘っている坑道はふさいで廃坑だということにして見せないで、検査に及第する抗だけ見せる。それで検閲はパスするが時々爆発が起こるというのである。真偽は知らないが可能な事ではある。

 こういうふうに考えて来ると、あらゆる災難は一見不可抗的のようであるが実は人為的のもので、従って科学の力によって人為的にいくらでも軽減しうるようなものだという考えをもう一ぺんひっくり返して、結局災難は生じやすいのにそれが人為的であるがためにかえって人間というものを支配する不可抗的な方則の支配を受けて不可抗的なものであるという、奇妙な回りくどい結論に到達しなければならないことになるかもしれない。

 理屈はぬきにして古今東西を通ずる歴史という歴史がほとんどあらゆる災難の歴史であるという事実から見て、今後少なくも二千年や三千年は昔からあらゆる災難を根気よく繰り返すものと見てもたいした間違いはないと思われる。少なくもそれが一つの科学的宿命観でありうるわけである。 

 もしもこのように災難の普遍性恒久性が事実であり天然の方則であるとすると、われわれは「災難の進化論的意義」といった問題に行き当たらないわけには行かなくなる。平たく言えば、われわれ人間はこうした災難に養いはぐくまれて育って来たものであって、ちょうど野菜や鳥獣魚肉を食って育って来たと同じように災難を食って生き残って来た種族であって、野菜や肉類が無くなれば死滅しなければならないように、災難が無くなったらたちまち「災難飢餓(さいなんきが)」のために死滅すべき運命におかれているのではないかという変わった心配も起こし得られるのではないか。

 古いシナ人(中国人)の言葉で「艱難汝(かんなんなんじ)を玉にす」といったような言い草があったようであるが、これは進化論以前のものである。植物でも少しいじめないと花実をつけないものが多いし、ぞうり虫パラメキウムなどでもあまり天下泰平だと分裂生殖が終息して死滅するが、汽車にでものせて少しゆさぶってやると復活する。このように、虐待は繁盛のホルモン、災難は生命の醸母であるとすれば、地震も結構、台風も歓迎、戦争も悪疫も礼賛に値するのかもしれない。

 日本の国土などもこの点では相当恵まれているほうかもしれない。うまいぐあいに世界的に有名なタイフーンのいつも通る道筋に並行して島弧が長く延長しているので、たいていの台風はひっかかるような仕掛けにできている。また大陸塊の縁辺のちぎれの上に乗っかって前には深い海溝を控えているおかげで、地震や火山の多いことはまず世界じゅうの大概の地方にひけは取らないつもりである。

 その上に、冬のモンスーンは火事をあおり、春の不連続線は山火事をたきつけ、夏の山水美はまさしく雷雨の醸成に適し、秋の野分(のわき)は稲の花時刈り入れ時をねらって来るようである。日本人を日本人にしたのは実は学校でも文部省でもなくて、神代から今日まで根気よく続けられて来たこの災難教育であったかもしれない。

 もしそうだとすれば、科学の力をかりて災難の防止を企て、このせっかくの教育の効果をいくぶんでも減殺しよとするのは考えものであるかもしれないが、幸か不幸か今のところまずその心配はなさそうである。いくら科学者が防止法を発見しても、政府はそのままにそれを採用実行することが決してできないように、また一般民衆はいっこうそんな事には頓着しないように、ちゃんと世の中ができているらしく見えるからである。

 植物や動物はたいてい人間よりも年長者で人間時代以前からの教育を忠実に守っているからかえって災難を予想してこれに備える事を心得ているか少なくもみずから求めて災難を招くような事はしないようであるが、人間は先祖のアダムが知恵の木の実を食ったおかげで数万年来受けて来た教育をばかにすることを覚えたために新しいいくぶんの災難をたくさん背負い込み、目下その新しい災難から初歩の教育を受け始めたような形である。これからの修行が何十世紀かかるかこれはだれにも見当がつかない。」


(寺田寅彦著『天災と国防』講談社学術文庫、2011年6月9日発行、49-52頁より引用しています。

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なぜこうなってしまうのかという問いに対する絶対的な答えはどこにもないと思う。
ただ今を生きている私たちには、先に逝った人たちの分まで一生懸命生きる役割がある。
御霊が安らかであれと祈りつつ、若くして失われた命の分まで今を生きていきたい。


 

大雨

2014年06月10日 10時12分47秒 | 日記
わたしの郷里のすぐ近くで増水した川に子供が流されました。
子供のころいつも近くにあった川です。
今朝から捜索が再開されています。
無事であれと祈ります。

赤毛のアンを原書で読むセミナー(第36章栄光と夢)

2014年06月07日 21時15分58秒 | 『赤毛のアン』
"Well now,I,d rather have you than a dozen boys,Anne,"said Matthew patting

her hand."Just mind you that--rather than a dozen boys.Well now,I guess it

wasn,t a boy that took the Avery scholarship,was it? It was a girl--my girl--my

girl that I,m proud of."


He smiled his shy smile at hear as he went into the yard.Anne took the memory

of it with her when she went to her room that night and sat for a long while

at her open window,thinking of the past and dreaming of the future.Outside

the Snow Queen was mistily white in the moonshine;the frogs were singing in

the marsh beyond Orchard Slope.Anne always remembered the silvery,peaceful

beauty and fragrant calm of that night.It was the last night before sorrow

touched her life;and no life is ever quite the same again when once that cold,

sanctifying touch has been laid upon it.


「そうさな、でもわしは、1ダースの男の子よりも、アンの方がいいよ」マシューはアンの手をとり、掌でぽんぽんと優しく叩いた。「いいかい、1ダースの男の子よりもだよ。そうだよ、エイヴリー奨学金をとったのは、男の子じゃなかっただろう。女の子だよ。わしの娘だ、
わしの自慢の娘だよ」

 マシューは、はにかんだ笑顔をアンにむけると、裏庭へ入っていった。
その夜、部屋に上がっても、アンの胸には、彼の笑顔がやきついていた。そしてアンは開けはなった窓辺に、長い間、腰かけて、過ぎ去った日々を思いかえし、未来の夢に想いをはせていた。
窓の外には、≪雪の女王様≫が、月の光を浴びて、白い霞のような桜の花をまとっていた。
果樹園の坂のむこうの沼地からは、蛙の声が響いていた。
アンは、いつまでもおぼえていた。銀色の月明かりに照らされ、平和で、美しく、空気はほのかに香り、静寂にみちていた、この夜のことを。
それは、哀しみの手が、アンの人生に触れる前の最後の夜だったからだ。
ひとたび、その冷たく神聖な手に触れられると、人生は、もう二度と元には戻らないのだ。

L.M.Montgomery 『Anne of GreenGables』
松本侑子訳『赤毛のアン』(2000年、集英社文庫発行)423-424頁より引用しています。

*************

パソコンを持ち歩きながら彷徨い歩く一週間がまた過ぎ、少しほっとできる週末、松本侑子先生の『赤毛のアン』を原書で読むセミナーに行ってきました。


クイーン学院の卒業試験を終え、今の日本円で一千万円ぐらいの大学進学の奨学金を獲得したアンは5カ月ぶりに帰郷し、いろいろな変化に直面します。マシューが年をとり顔色がよくないことに気づいたのもそのひとつでした。


夏の夕暮れ、(緯度が高いので陽が落ちて暗くなるのは9時頃)、血のつながりのないアンとマシューが≪恋人たちの小径≫を歩きながら、ほんとうの親子となって互いを思いやり、心通わせます。慈愛の人マシューは誰よりもアンを愛してくれました。
この翌朝、マシューは永遠の旅に出ることとなり、二人が会話を交わした最後の場面となるのでした。
アンが手にした栄光(大学の奨学金)と夢(文学士号)は束の間の輝きであることが暗示されている章です。
松本先生の朗読を聞きながら、涙がにじんでいました。
心あらわれたひとときとなりました。


今の混乱で、こんなことがなければ知ることのなかったことをたくさん知りました。
グレイなものをみてやりきれない思いがしています。
これからどこに希望を見出せばいいのか、今はわかりません。

信じることができるのは温もりのある人とのつながりと自分自身の感性でしょうか。

こういう困難にぶちあたった時、今までに積み重ねてきたものが試されるものなんですね。
私には妹の分まで生きるという大切な役割があることを忘れなければ大丈夫。
ようやく気持ちの整理もできてきました。
精算が終わったらきっと自ずと妹が次に進むべき道を教えてくれる-
漠然とですがそう信じて今はこのまま進んでいこうと思います。

平日の図書館はなかなか不思議です。
男性が多い中坐ってパソコン作業するのもちょっと大変。
ネクタイした人がずっといたり・・・。
この人なにしているんだろうってお互いなんとなく思っているんでしょうね。
いろんな方がいらっしゃいます。






秋のプリンス・エドワード島への旅_キャベンディッシュ・ビーチのサンセット(2)

2014年06月06日 08時59分09秒 | プリンスエドワード島への旅
5月9日の写真からの続きをようやくまたアップしてみます。

秋もゆっくり、ゆっくり、陽は沈んでいきました。
冷たい風が吹く中、刻々と変わっていく空の色に包まれているのは夢をみているような心地でした。




旅の思い出_モントリオールへの旅(3)

2014年06月04日 16時12分40秒 | モントリオールへの旅
「2002年1月1日(火)

はじめて異国で迎えた正月。
店は殆ど休みだが、飾りつけはクリスマスのまま。
日本と全く雰囲気がちがう。
昨夜は眠りにつこうとしたら、近所から大音響。
カウントダウンパーティをしていたらしい。
結局4時頃まで眠れず、こんなことなら参加すればよかったかしらと思う次第。

結局、ずっと睡眠不足状態でゆっくりできているんだかどうか・・・。
時間が限られていると思うと欲もでてくるし・・・。
おしゃれなcafeでゆっくりする時間を・・・なんて思ってたけど、なかなか店をみつける余裕もなかったし・・・。

旅行ではなくて、数か月暮らしてゆっくりじっくり味わいたい街だ。
スンさんがいたら、いろいろ話をきけたのに・・・と思うと、本当に残念だ。
また、必ずくる。
いずれ、園芸療法を勉強したいし・・・。
英語、がんばらないと・・・。

今日は本当に寒い。

決して楽とはいえない個人旅行。
フランス語ばかりなのでなおいっそうつらい。迷って考えて・・・。
日本とは勝手がちがうことばかりだし・・・。
地下鉄に、自動切符売り場はない。時間はゆっくり流れてる。
店は5時に閉まる。
いいことばかりではないが、慣れてきたら、合っている街かもしれないなあ。
アメリカ大陸にいるのに、ヨーロッパの街並み。きこえてくるのはフランス語。

いろんなことをがんばって、きっとまた来るぞ!」


「2002年1月3日(木)

5時;起床

6時:B&B出発

6時30分:空港にてcheck in

9時10分頃:モントリオールTake off(AC3111便)

11時40分:バンクーバー着(ただし時差が3時間あるので、5時間ぐらいかかっている)

雪のモントリオールを離れ、今バンクーバーにいる。いろいろと迷ったり失敗したりしながら、
あとは成田に向かうのみ。

昨日はスンさん、日本人のFさんと一緒にバスツアーに参加して、ケベック・シティに行った。
あまり時間がなくてあわただしかったが、雪のケベック・シティは本当に美しかった。
今度はHOTELに泊って、ゆっくり楽しみたい。
スンさんと一緒だったことが、本当に嬉しい。彼女も無理したようだが、喜んでくれた。
好きなことを、好きな人を大切にしようとしている彼女の生き方に感銘と共感をおぼえる。
自分が本当に何をしたいかを大切にしていけばいいんだ。

夢と希望をもち続けてわたしも生きたい。
スンさんと一緒にカナダで生活するなんて夢みたいな話だが、ありえないことではない。
先ず、卒論と英語をがんばろう。
また現実が戻ってくる。
受け取めよう。

今度はいつカナダに来ることができるのだろう。
もう少しいたかったな、なんて未練を残しながら、ちょっぴり淋しさを伴う。
今度は、スンさんのお友達やボーイフレンドと一緒に楽しみたい。
今の会社をやめないかぎり無理かもしれないけれど、必ずきっとまた来るぞ!
お風呂の問題がクリアできればカナダは私に合っているかもしれない。」


モントリオールへの旅日記はこれで終わりです。
12年前の自分はこんなこと書いてたんですね。
自分で驚いたりしながら振り返ってみました。

モントリオールの空港を離れる前、離陸を待って飛行機の中で待っていると
上からドサッ・ドサッと音が・・・。
なにごとかと思ったら、飛行機の雪下ろしをしていたのでした。

エスキモーの姿をロゴマークにしている飛行機が待機しているのが見えました。
真冬の北国への短い旅でした。

ようやく・・・

2014年06月04日 15時28分28秒 | 日記
ブログへの訪問、ありがとうございます。

詳細を書くことはできませんが、ここまできてようやく目指すべきゴールが具体的に見えてきました。
たどり着くまでにはまだ時間がかかります。
次に進むべき道が見えてくるのかどうか、家賃払いながら自分を食べさせていくことができるのか、
不安と背中合わせですが、きちんと精算するために今はこのままゴールを目指して進んでいきます。

自分の感性を信じ続けます。

「3.11石巻復興祈念ゼミ合宿」報告書からの引用(7)

2014年06月03日 08時04分26秒 | 東日本大震災
「向き合うということ Iさん

5月21日からの続き

 宿に戻ってさっそく風呂に入り、一休みした。新築らしい、木と畳の若々しい香りが心地よかった。それから安藤さんを囲って座談会となった。僕達が本を読んだり、ニュースを通して知った被災地というものと、安藤さんが実際に乗り越えてきた災害を比べる対話である。教えてもらったことは様々である。支援を求めたり、義援金を受け取るにも印鑑等身分証明の品々が必要であり、本当になにもかも流されてしまった人ほど支援されなかったこと。物資や土地の不足が震災バブルを生み出し、被災者ばかりが物価の高騰に苦しめられたこと。これからの暮らしを取り戻して行くには、どうしても先立つものが必要であり、経済的な自立を、早く、自力で成さねばならないこと。報道では津波が今まさに街を壊している映像、積み上げられたガレキの街の空撮ばかりであるが、本来はその間に、ガレキが道も何も覆い尽くした姿があったということ。何よりも先に道路を確保するため、散乱するガレキを積み上げたのである。安藤さんは、ガレキに覆われた道無き道を、山を、一日以上かけて歩き通し、家族の安否確認をしたという。ニュース報道のように大きくものを捉えると、一つ一つは軽くなっていく。そして、軽いものを集めた認識はとても薄っぺらである。安藤さんの話は、ニュースにはならない。しかし、真実の体験で、その厚みがあった。それを間近に感じることで、僕の震災の記憶は遥かに具体的なものとなった。もちろん実体験とは違うが、安藤さんの経験を僕が知ることで語り伝えることも出来ようと考えたのである。夕食はまたとても豪華で食べきれない程だった。写真を見返してもまた食べに行きたくなる。

 夕食後は、この民宿のオーナーである遊佐さんのお話を聞かせてもらった。遊佐さんは民宿の他に定置網や魚や牡蠣の養殖を営んでおり、海に出ていたそのときに地震が起きたという。船を守るために沖に出る。漁師の常識として港を離れると、まったく見たこともないような景色だったという。海の底で泥が湧き上り、島の山肌が崩れて海に落ちて行き、岸辺の山では揺らされた杉の木が花粉を撒き散らし、黄色にもやに見えたそうだ。まさに町が崩れ去るような光景だったのだろう。その後遊佐さんは船がガレキに巻き込まれないよう、他の漁師とともに沖へ沖へと避難して行った。その間も余震があり、船が大きく揺れた。死さえ覚悟し、海に沈み見つからなくなってしまうことの無いよう、救命胴衣を二重に着込んだと語ってくれた。海で被災した遊佐さんは、港の風景がまさに崩れて行くのを目撃したのである。安藤さんとはまた違う体験を僕は聞かされ、このことも伝えて行こうと決意した。」

 また夜遅くまで起きていたが、3日目の朝はまだ暗いうちに起きた。遊佐さんの好意で、漁船に乗せてもらえることになったのだ。定置網を見せてくれるという。僕と先生だけ起きだし、遊佐さんたちのトラックに乗り、港に向かって走り出した。いくつかの船がランタンで
照らされている。小船に乗り、ドッグへ向かう。少し大きな船に乗り換えて、沖へ出て行く。船のスピードと冷たい風が気持ちいい。ようよう日が昇りはじめた。」


(2014年3月20日 慶応義塾大学文学部発行より引用しています。)

***********

長いので後2回か3回に分けて書きます。
大川小学校に行ったことも書かれていますので次回、紹介できればと思います。


私自身の今の体験から、社会の仕組みが弱い立場の人を思いやる、本当に困っている人に今すぐ必要な手を差し伸べるようになっていないことを痛感しています。
行政の手続きはすべて申請主義、受給資格はあってもこちら希望して書類を出さなければ何も出てきません。情報が横で共有されるわけではないので、あっちの窓口、こっちの窓口に行って同じことを何回も言わなければなりません。

例えば、失業状態を余儀なくされれば、家賃を払い続けるのも大変なことです。。
友人の助言もあって少し調べてみましたが、これだけでは負担を軽減できるような手立ては
どこにもないらしいことがわかりました。年齢や、心身ともに健康状態であることなどで、
自治体に利用できる仕組みもないようです。
いろいろと学びの日々です。

もう少し先、今の状況が落ち着いて断捨離もさらに進んだら、東北を訪れたいなと心のすみっこで思い続けています。


旅の思い出_モントリオールへの旅(2)

2014年06月01日 13時05分37秒 | モントリオールへの旅
「2001年12月29日

オールドシティ
午後、ノートルダム大聖堂を見る。旧港を少し歩く。

具合が悪くて午前中は動けなかった。
午後、おもい腰をあげる。
フランス語の世界に、地下鉄に乗るのも、お店でモノを買うのもドキドキ。
まだ慣れない。
緊張する。ひるんでいる。
それに、とっても寒い。
しかし、それだけに街がきれいだ。
ヨーロッパ風。
街全体が落ち着いていて
心なしか時間の流れもゆるやか。
クリスマスのイルミネーションも1月まで残っているらしくて美しい。
余分なものがなくて、本当にきれい。

観光目的ではなかった筈なのに、来てみると欲が出てくる。
Cafeでお茶する時間もほしい。
スンさん(中国人の当時友達だった女性、留学生としてモントリオールに
住んでいました)がいないなんて、本当に残念だ。
あと4日なんて足りない。
何度でも来たい街だ。」


「2001年12月30日(日)

9時頃起床、ゆっくり朝食。
植物園に行くも朝からの雪。
展内はとてもあたたかだけど、外は本当に寒い。
中国庭園をみるのがやっと。
あとは買い物しようと、マギルへ。
クライストチャーチをみたあと、デパートと地下街へ出向くも、
日本の感覚で考えていた私は、夕方5時で終わるなんて思ってなかった。
いろんなことが日本と違う。
すごくシンプルでゆったりとしていて、建物も人も街全体がArtみたいなもんだ。
明日も街歩きをしたい。
地下鉄の乗り方とか、少し慣れてきた。」


「2001年12月31日(月)

今日も朝から雪、お昼過ぎに晴れてくるが実に寒い。寒い中、けっこうstreetをてくてくと
歩いてしまった。

昨夜パブに行っておそくなったらかえって眠れなくて、やはり9時頃起床、ゆっくり朝食。
英語の会話に入れないもどかしさを感じる。
食後、Rue Saint Denisで買い物を楽しむ。
私好みも、ここにしかない店が並んでいる。小物を少しと、あるといいなと思っていた
コートを買う。
B&Bに戻ってあとは、Rue Sherbrookeを歩き、McCill大学へ。
この時本当に寒かった。芯まで冷えて、cafeでひと休みするも、なかなかあたたまらない。
あとは地下にもぐって再び買い物。
かわいいパジャマを見つけて、すっかり満足してしまった。
おみやげもたっぷり買う。
ただ、実家の分はまだ。難しい。

地図をみながら迷ったり、まちがえたり。
疲れるが、これぞ個人旅行・・・。
その分、街を実感できるというものだ。
さて、また少し街へ出るか・・・。」

旅日記はあと一回書こうと思います。
よろしければ引き続きおつきあいください。