また少し私の過去の振り返りにおつきあいください。
2005年8月に急な思いつきで3泊5日のカナダ・バンクーバーへの旅を強行しました。
オリンピックの開催に向けて、ウィスラーという広大なスキー場では準備が進められている頃でした。
JTBの個人向けパックを利用して往復は一人旅。
(カナダへの旅はいつも個人旅行です。英語圏なので、ツアーでなくてもしどろもどろの英語で毎回なんとかなる!?)
成田空港に到着して、飛行機を降りた途端湿気を帯びたもあっとした空気に、くらったきてその後気分が悪くなってしまった思い出があります。
写真も旅日記もなく、現地で合流した当時カナダ在住の中国人女性とも、私の英語があまりにひどいのにうんざりしてしまったのか、その後音信不通になってしまいました。
それでもその後のハードな日々に向けて、しばし心のお休みの時間となったのでした。
カナダから帰って来る時は、いつも成田行きの搭乗口で、「帰りたくない―!」と心の中で繰り返します。でも帰る場所があるからこその旅ですね。
「短かったカナダでの滞在は、終わりに近づいている。
ゆるやかな時間は終わり。
現実だけが私を待ちうける。
私は立ち向かわなければならない。
疲れ切った私の顔が、少しゆるやかになったようだ。
束の間の心のお休み。
疲れるが旅はやめられない。
いろんな所に行ってみたい。
さわやかな緑の空とお別れ。
日本に帰るのは、本当に辛い。
でも、きったまたくる。
無理をしているが、無理をするのももう限界にきているが、へこたれてはいられない。
生きている限り、生きるのだ。
ハードな毎日が待っている。
ゆるやかな時間は終わり。
がんばれ、がんばれ、と私に言わなければならない。
がんばりすぎずにがんばれ、私。
さようなら、カナダの空。
きっとまたくる。
2005年8月20日、AM11:01 バンクーバー空港にて」
4年間をかけて卒業論文を書いて慶応大学を無事卒業し、1年間カウンセリングスクールに金曜日の夜通い続けた後でした。カウンセリングスクールで、ソーシャルワーカーの国家資格があることを知り、当初試験に合格することが最終目的ではなかったのですが、なぜかやってみよう、やらなければならない、そんな思いに駆り立てられて、同年の4月より専門学校の通信教育を始めていました。
最初の頃はまだぼちぼちという感じでしたが、手帳を見ると、翌週末の3日間は、精神医学・精神保健福祉士援助技術論・社会福祉原論のスクーリングに出席しています。
その後、2007年1月末の国家試験受験まで、レポート提出、スクーリング出席、施設での実習、国家試験受験対策講座出席と、己に鞭打って身をすり減らすように期間限定の無理を重ね続けていくことになります。
レポートを一つ書き終えると気分転換にスパに通っていました。そこでマッサージを受けると、あまりにも私の体が疲れているのでマッサージ師の方に驚かれたことがあります。コンタクトの検診のために眼科に行けば、ご自分の体にかなり無理をさせているんじゃないですか、と言われました。
それでも、途中でやめるという選択肢は私にはあり得なかった。当時の上司がすごく厳しい方で、きつかった。でも職場には全く一言も事情を話すことなく、スクーリングや実習で休むためその前後にはさらに多くの業務量をこなしながら、全てをクリアし、試験にもぎりぎりのところだったようですが、合格しました。試験の10日ぐらい前には、職場で具合が悪くなってしまって、それでも登り始めた階段を降りることはもうできませんでした。
必死でした。そこまでしないと自分のことを許せないでいる私がいました。
今自分であらためて考えてしまうとやはりどうしても辛いのですが、妹が突然旅立ってしまう、10日ぐらい前だったと思います、電話がかかってきました。その時死にたいと考えることもあると、死にたい気持ちをきいていました。今思えば、あれが「生きたい」「お姉ちゃん、助けてよ」、最後のメッセージだったのではないか、それなのに私はずいぶんひどい言葉で突き放してしまいました。その時の自分の言葉は、カウンセラーの先生にだけお話しています。他には誰にも言えない。人に言うのが辛いので、自分の胸の中だけにしまい続けます。1994年9月、弟から旅立ってしまったという連絡を受けた時の、真っ白な時間を今でも忘れることはありません。私があんなことを言わなければ・・・。私はなんていうことをしてしまったんだろう、取り返しのつかない後悔に、自分を責めて責めて責め続ける、のたうちまわるような日々の始まりでした。手紙やはがきも何通かきていました。でも、妹に苦手意識のあった私はほとんど答えてやろうとしませんでした。今も私の荷物の中に手紙もはがきもそのままにありますが、読み返すことはまだできません。
その頃の日記を読み返すと自分で自分のことですが、心が痛くてたまりません。
もう少し先に載せていきたいと思います。ブログに載せて共有することで、引き受け続けられる私でいられるように思います。
今年自死遺族の会に行って始めて知ったことですが、遺族の方の誰もがまさか本当に死ぬなんて思わなかった、とおっしゃるそうです。自分の近くでまさか、まさか本当に、です。専門家の自殺予防の研修に出席すると、死にたいサインは必ずある、ということを言われるのですが、本当に死なれてしまった家族にはきついことだと思います。家族だからこそ、近くにいるからこそ、そんなこと言われても本気にはできない。人の営みにマニュアル通りにはあり得ないですね・・・。
なぜなのか、なぜ自分の妹なのか、いまでも信じられないような、そしてなぜ?の答えはどこにもない、長い間探し求めてきたけれどどこにもないということがわかるまでにずいぶんと時間がかかってしまいました。
今年の2月、母の一周忌の後で遺品整理をしていたところ、母の衣類の中に混じって妹の身分証明書など細々としたものがまとめられた箱がありました。その中には日記もあって、旅立ちの年の5月から数日前まで書かれたものでした。姉に・・・を相談したら、・・・と言われたので、・・・することにした、というような記述もあって、私にはかなり辛い代物でした。今さらこんなものに出会ってしまうのか、自分を責める気持ちが湧きあがってきてしまってまともに読むことはできませんでした。
記述からはうつに取りつかれていた様子がうかがえ、冷静に考えれば電話がかかってきた時に私が何を言っていても、結果はもう変わらなかったのかもしれません。でも誰に何をどう言われても、自分を責めることをやめることはできなかった。
国家試験の合格通知書を見た時に、始めてようやく自分を許せるような気がしました。
気がつけば合格の年から6年が過ぎてしまいました。
だからといって職業に結び付けられているわけでもなく、今だ具体的にどこに向かっていけばいいのかわからない私がいます。
中高生の自死のニュースに心が痛みます。原発事故で避難していて一時帰宅した人がそのまま命を絶ってしまうのは心が痛みます。職場が大きな通りに面しているので日中度々救急車のサイレンを耳にします。その度に、今この瞬間どこかで困っている人がいる、私に手伝えることはないだろうか、心の中でそう思っている私がいます。
でも、家賃を払い自分の暮らしを守っていくためには、おかしいなと思うことがたくさんあっても今はこの場所で働き続けるしかない。
そこにどんな意味があるのかはわからないけれど、フォーウインズ(乳幼児精神保健学会)に入会しており、年に数回のセミナーに出席し続けています。22日(日)も事例検討のセミナーに参加し、深く心に残る学びの時間となりました。フォーウインズに参加するようになって、ロバートソンフィルムを通して、身体記憶ということを学ぶようになってから、自分は子供を産むことなく年を重ねてしまったけれど、乳幼児を見かけると、みんなに愛されて健やかに育っていきますように、と心の中で祈るようになりました。
自分に与えられた役割を探し続ける気持ちを失わないように、これからも歩き続けていきたいと思います。
まとまりのない、重い話におつきあいくだり、ありがとうございます。
写真は、春(6月)のプリンス・エドワード島です。
走る車の中から撮っているのでぶれていますが雲がすごいです。
私自身を励ますために『赤毛のアン』から引用したいと思います。
Now there is a bend in it.
I don,t know what lies around the bend,
but I,m going to believe that the best dose.
今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけれど、
きっとすばらしい世界があるって信じているわ。
L.M.MONTGOMERY
松本侑子訳『赤毛のアン』第38章、441頁(2000年発行、集英社文庫)より。
恋人たちの小径には、わすれな草の花が咲いていました。
2005年8月に急な思いつきで3泊5日のカナダ・バンクーバーへの旅を強行しました。
オリンピックの開催に向けて、ウィスラーという広大なスキー場では準備が進められている頃でした。
JTBの個人向けパックを利用して往復は一人旅。
(カナダへの旅はいつも個人旅行です。英語圏なので、ツアーでなくてもしどろもどろの英語で毎回なんとかなる!?)
成田空港に到着して、飛行機を降りた途端湿気を帯びたもあっとした空気に、くらったきてその後気分が悪くなってしまった思い出があります。
写真も旅日記もなく、現地で合流した当時カナダ在住の中国人女性とも、私の英語があまりにひどいのにうんざりしてしまったのか、その後音信不通になってしまいました。
それでもその後のハードな日々に向けて、しばし心のお休みの時間となったのでした。
カナダから帰って来る時は、いつも成田行きの搭乗口で、「帰りたくない―!」と心の中で繰り返します。でも帰る場所があるからこその旅ですね。
「短かったカナダでの滞在は、終わりに近づいている。
ゆるやかな時間は終わり。
現実だけが私を待ちうける。
私は立ち向かわなければならない。
疲れ切った私の顔が、少しゆるやかになったようだ。
束の間の心のお休み。
疲れるが旅はやめられない。
いろんな所に行ってみたい。
さわやかな緑の空とお別れ。
日本に帰るのは、本当に辛い。
でも、きったまたくる。
無理をしているが、無理をするのももう限界にきているが、へこたれてはいられない。
生きている限り、生きるのだ。
ハードな毎日が待っている。
ゆるやかな時間は終わり。
がんばれ、がんばれ、と私に言わなければならない。
がんばりすぎずにがんばれ、私。
さようなら、カナダの空。
きっとまたくる。
2005年8月20日、AM11:01 バンクーバー空港にて」
4年間をかけて卒業論文を書いて慶応大学を無事卒業し、1年間カウンセリングスクールに金曜日の夜通い続けた後でした。カウンセリングスクールで、ソーシャルワーカーの国家資格があることを知り、当初試験に合格することが最終目的ではなかったのですが、なぜかやってみよう、やらなければならない、そんな思いに駆り立てられて、同年の4月より専門学校の通信教育を始めていました。
最初の頃はまだぼちぼちという感じでしたが、手帳を見ると、翌週末の3日間は、精神医学・精神保健福祉士援助技術論・社会福祉原論のスクーリングに出席しています。
その後、2007年1月末の国家試験受験まで、レポート提出、スクーリング出席、施設での実習、国家試験受験対策講座出席と、己に鞭打って身をすり減らすように期間限定の無理を重ね続けていくことになります。
レポートを一つ書き終えると気分転換にスパに通っていました。そこでマッサージを受けると、あまりにも私の体が疲れているのでマッサージ師の方に驚かれたことがあります。コンタクトの検診のために眼科に行けば、ご自分の体にかなり無理をさせているんじゃないですか、と言われました。
それでも、途中でやめるという選択肢は私にはあり得なかった。当時の上司がすごく厳しい方で、きつかった。でも職場には全く一言も事情を話すことなく、スクーリングや実習で休むためその前後にはさらに多くの業務量をこなしながら、全てをクリアし、試験にもぎりぎりのところだったようですが、合格しました。試験の10日ぐらい前には、職場で具合が悪くなってしまって、それでも登り始めた階段を降りることはもうできませんでした。
必死でした。そこまでしないと自分のことを許せないでいる私がいました。
今自分であらためて考えてしまうとやはりどうしても辛いのですが、妹が突然旅立ってしまう、10日ぐらい前だったと思います、電話がかかってきました。その時死にたいと考えることもあると、死にたい気持ちをきいていました。今思えば、あれが「生きたい」「お姉ちゃん、助けてよ」、最後のメッセージだったのではないか、それなのに私はずいぶんひどい言葉で突き放してしまいました。その時の自分の言葉は、カウンセラーの先生にだけお話しています。他には誰にも言えない。人に言うのが辛いので、自分の胸の中だけにしまい続けます。1994年9月、弟から旅立ってしまったという連絡を受けた時の、真っ白な時間を今でも忘れることはありません。私があんなことを言わなければ・・・。私はなんていうことをしてしまったんだろう、取り返しのつかない後悔に、自分を責めて責めて責め続ける、のたうちまわるような日々の始まりでした。手紙やはがきも何通かきていました。でも、妹に苦手意識のあった私はほとんど答えてやろうとしませんでした。今も私の荷物の中に手紙もはがきもそのままにありますが、読み返すことはまだできません。
その頃の日記を読み返すと自分で自分のことですが、心が痛くてたまりません。
もう少し先に載せていきたいと思います。ブログに載せて共有することで、引き受け続けられる私でいられるように思います。
今年自死遺族の会に行って始めて知ったことですが、遺族の方の誰もがまさか本当に死ぬなんて思わなかった、とおっしゃるそうです。自分の近くでまさか、まさか本当に、です。専門家の自殺予防の研修に出席すると、死にたいサインは必ずある、ということを言われるのですが、本当に死なれてしまった家族にはきついことだと思います。家族だからこそ、近くにいるからこそ、そんなこと言われても本気にはできない。人の営みにマニュアル通りにはあり得ないですね・・・。
なぜなのか、なぜ自分の妹なのか、いまでも信じられないような、そしてなぜ?の答えはどこにもない、長い間探し求めてきたけれどどこにもないということがわかるまでにずいぶんと時間がかかってしまいました。
今年の2月、母の一周忌の後で遺品整理をしていたところ、母の衣類の中に混じって妹の身分証明書など細々としたものがまとめられた箱がありました。その中には日記もあって、旅立ちの年の5月から数日前まで書かれたものでした。姉に・・・を相談したら、・・・と言われたので、・・・することにした、というような記述もあって、私にはかなり辛い代物でした。今さらこんなものに出会ってしまうのか、自分を責める気持ちが湧きあがってきてしまってまともに読むことはできませんでした。
記述からはうつに取りつかれていた様子がうかがえ、冷静に考えれば電話がかかってきた時に私が何を言っていても、結果はもう変わらなかったのかもしれません。でも誰に何をどう言われても、自分を責めることをやめることはできなかった。
国家試験の合格通知書を見た時に、始めてようやく自分を許せるような気がしました。
気がつけば合格の年から6年が過ぎてしまいました。
だからといって職業に結び付けられているわけでもなく、今だ具体的にどこに向かっていけばいいのかわからない私がいます。
中高生の自死のニュースに心が痛みます。原発事故で避難していて一時帰宅した人がそのまま命を絶ってしまうのは心が痛みます。職場が大きな通りに面しているので日中度々救急車のサイレンを耳にします。その度に、今この瞬間どこかで困っている人がいる、私に手伝えることはないだろうか、心の中でそう思っている私がいます。
でも、家賃を払い自分の暮らしを守っていくためには、おかしいなと思うことがたくさんあっても今はこの場所で働き続けるしかない。
そこにどんな意味があるのかはわからないけれど、フォーウインズ(乳幼児精神保健学会)に入会しており、年に数回のセミナーに出席し続けています。22日(日)も事例検討のセミナーに参加し、深く心に残る学びの時間となりました。フォーウインズに参加するようになって、ロバートソンフィルムを通して、身体記憶ということを学ぶようになってから、自分は子供を産むことなく年を重ねてしまったけれど、乳幼児を見かけると、みんなに愛されて健やかに育っていきますように、と心の中で祈るようになりました。
自分に与えられた役割を探し続ける気持ちを失わないように、これからも歩き続けていきたいと思います。
まとまりのない、重い話におつきあいくだり、ありがとうございます。
写真は、春(6月)のプリンス・エドワード島です。
走る車の中から撮っているのでぶれていますが雲がすごいです。
私自身を励ますために『赤毛のアン』から引用したいと思います。
Now there is a bend in it.
I don,t know what lies around the bend,
but I,m going to believe that the best dose.
今、その道は、曲がり角に来たのよ。曲がったむこうに、何があるか分からないけれど、
きっとすばらしい世界があるって信じているわ。
L.M.MONTGOMERY
松本侑子訳『赤毛のアン』第38章、441頁(2000年発行、集英社文庫)より。
恋人たちの小径には、わすれな草の花が咲いていました。