序章で少し触れたが、働きがい、生きがいを考える時、仕事=労苦、遊び=安楽といったステレオタイプ的な捉え方から出発するのが私たちの日常生活では一般的である。そこには、仕事には何かを生み出す、何かを創り出すという加算のポジティブな意味があるのに対して、遊びの方には普通、何かを使う、あるいは消費するという減産のネガティブな意味しか認められない。こうした一般的な捉え方のように仕事=労苦であるなら、学校を卒業して就職するのはとても辛いことであるはずだ。反対に定年退職を迎えた人たちはそうした苦しみから解放されてゴージャスな時間が約束され、その表情は輝いているはずである。なのに、定年退職にはなぜか悲哀が伴う。ここで先ず、鷲田清一の記述に沿って、現代を生きる「人々」には、「前のめり」の時間意識切が浸透していることを記したい。「前のめり」の時間意識は、性別役割分業によりかかった日本型企業社会を見るのに有効な切り口の一つかと思われるからである。ここでいう「人々」とは、あえて男性とは書かれていないが、男性をイメージしていることは間違いないであろう。このように、人間といえばあえてことわらなくてもイコール男性であること自体が、日本型企業社会は男性中心に動いてきたことを物語っている。
「ザンギョー」という国際語もあるくらい、日本人のワーカホリックは名高い。そのような中で、ふと、なぜ働くのかという問いがもし自分の中から否応なく頸をもたげてきたら、私たちは生活するため、自分や家族の豊かで安らいだ将来の生活のためといった理由を挙げるにちがいない。少なくとも、高度経済成長期を迎えるまではそうであった。満ち足りた老後を迎えるために人は気張る。あの時がんばっておいたから今このように安楽にしていられるのだ・・・というわけだ。ここで幸福な老後とは過去の業績に乗っかっている。それは過去の記憶と過去から蓄えてきた財に寄りかかって生きるということなのだ。皮肉な見方をすれば、これは別の生き方をあらかじめ封じ込める生き方である。それはすでに確定した過去の延長線上で生きるということであり、したがってその満ち足りた老いの生活はますます枠を限られた狭い世界に入っていくともいえる。成年の間は未来のために働き、老後は過去の業績に寄りかかって生きる。どちらにも、「現在」の充溢というものはない。働いても、働かなくても、どちらの場合も、生が輝いていないと、当事者は心のどこかで感じている。
次にこれから就職する人の場合、就職するということは、しばしば「社会に出る」と表現される。このことに関して鷲打は、社会学者藤村正之の論考を紹介している。子供たちこそ、本来「遊び」が「仕事」であるかもしれないのに、現代日本社会では幼年期の「お受験」から大学入学までの受験競争が、むしろ彼らの「仕事」として与えられている。年間3,000時間も越えなんとする勉強時間は日本の普通の労働者の労働時間の比ではない。そのような「仕事」としての受験に、深刻さとともに偏差値に代表される「遊び」的ゲーム感覚が複雑に同居するのは子供たちにとって、ある意味で当然なのかもしれない。そのような「仕事」から解放された青年たちが大学で「遊び」に走ることもうなづけよう。なぜなら、大学時代とは「仕事」たる受験を「定年退職」した彼らが、就職という「死」を迎えるまでの「余生」の時間なのだから。この論考の根底には、就職とは「死」であるという意識が根底にある。
「社会から下りる」定年退職者の意識も、「社会に出る」就職予備軍の意識も、ともに「社会」に出入りするというイメージで今の自分を捉えている。この対照的な二つの意識が共に同じ時間意識に囚われていることに鷲田は注目した。先ず、どちらの意識においても人生がまっすぐな「線」のようにイメージされている。労働に携わる前の未成年の段階から、労働する者としての成年、そして労働という形での公的生活からリタイアしたあとの老年。まだ成年でない段階と、もう成年でない段階とにはさまれたものとして、労働する世代があるということになる。それぞれの年代にも「線」のメタファー、もっといえば「段階」のメタファーが適用される。(略)さらに、それぞれの世代にはさらにそれぞれのイメージや価値意識が投影され、例えば無垢な子供時代、静かな侘びの老境といったイメージがそれぞれに押し付けられる。そしてその区切りのところで、例えば「社会に出る」といった表現がなされるのである。(略)人生といえばすぐ、まっすぐな線のように思い浮かべる癖は根深い。人生のある時期までは無垢で、ある時期からは汚濁にまみれだす、そしてやがて枯れる、というのはフィクションである、と鷲田は述べる。ある時期までは人生は幸福で、ある時期からは不幸になるというのもうそである、という。
さらに「社会」に出入りするというイメージに共通に前提しているのは、共に現在というものが別に時間のためにあるという価値観である。先に記した「満ち足りた将来のために働く」ということは、未来の幸福のために現在を貧しくすることなのだ。決済のつめを先送りにしているとも言える。人生がまっすぐな「線」のようにイメージされていることと、現在が別の時間のためにあるという価値観とは、ともに、常に前方を見ている「前のめり」の意識、つまりprospective(前方的)な時間意識を前提にしている。prospective は、proという「前方」を現す接頭辞と、specereという「視る」を意味する動詞との合成語である。proという言葉で表示されるこの「前のめり」の時間意識は、近代の社会経営を巡る様々な場面に浸透しているものである。例えば、「進歩」(progress)、「企業」(project)、「プログラム」(programme)などは、proという接頭辞を多角的に用いた例である。と同時に、「前のめり」の時間意識は、近代社会を生きる人々の生活意識の非常に深い部分にまで入り込みその行動を規定してきた観念である。[i]
終身雇用にすがっていれば過去から蓄えてきた財に寄りかかって老後を生きることができた例として、松下電器産業の「福祉年金」と呼ばれる退職年金は、少し前まで7.5から10%という高利回りで給付されていた。それが2002年6月松に会社側が年金利率の2%を発表すると、松下OBの一部が猛反発。「裁判で争う」というOBまで出てきて大騒ぎになった。[ii] このようなOBは、第二章で記した終身雇用にすがり企業に依存してきた、一見自発的に残業しているようだが、実は半ば強制されているという会社人間の姿だ。彼らには会社を通した「個」しかない。会社は実に巧みに彼らに期待されているという錯覚を持たせてきた。清水ちなみの記述から引用しよう。
おじさんはほとんど会社を休まない。病気になっても、二日酔いでも、骨折しても会社に来る。おもしろいのは、もし万に一つ、おじさんが会社を休んだとしても、昼頃に必ず電話がかかってくるのである。「何か、困ったことはないか」おじさんは本当に責任感が強い。しかし、困ったことがあったためしがないというのが現実だったりする。こうやって考えていくと、おじさんに対する思想統制のようなものが実にまんべんなく行き渡っていて、スゴイもんだなーと思う。平日には絶対に休まず、休日にも会社のために働いたり、仕事のために遊んだりして、そして一歩会社から出ると、アレを着るコレを着るという自己主張もない。全く会社のために生きているかのようだ。会社にいた頃、自分の上司を見ていて「この人は、あー オレは会社のために尽くしたーって満足しながら死ぬのかな」と思って怖かった覚えがある。取引先の人に向かって「わが社としては」とつい、威張っちゃう人だった。「まったく電通もしょーがねぇなー」などという独り言を大声で言ってしまう人だった。周りの視線を見ていると「しょーがねぇなーのはおまえだ」と全員心の中でつっこみをいれているのがわかる。でも、たぶん、本人としては、会社名を名乗る幸せを感じているはずだ。会社はその「幸せ」を彼に与えている。だからこそ、おじさんたちは、ここまでがんばることができたんだと思う。OLは会社から期待されていない。会社がおじさんに与えている「幸せ」は、ズバリこの「期待されている(という錯覚)」じゃなかろうかと思う。「オレは、期待されている!」この気持ちが、どんな困難でも乗り越えさせてしまう。会社の仕組みや中で行われていることを見ていると、この期待という錯覚をおじさん達に見破らせないように、すごーく慎重にていねいに会社側が考えていることがわかる。(略)おじさんのメンツを満たすために会社は気を配る。おじさんのメンツは、「実力」ではなく、「男」であって「年とっている」人であれば誰にでも与えられる。どんなボンクラにも希望を持たす。[iii]
日本型企業社会に生きる人々を規定してきた「前のめりの」時間意識、それは、第一に、より良い未来に向けて今前進しつつあるという歴史感覚と深く関わる。第二に、資本主義社会の企業も近代市民社会の個人も共に未来における決済を前提に今の行動を決める、未来志向の姿勢をとるのである。第三に、そのような未来志向は、単に人間の活動は価値を生み出すべきものだからより多くのものをより速く、より効率的に産出していかなければならない、という資本主義の基本的な思考法であり、さらに単に価値を生み出すだけでなく、より生産的な未来に備えるという目的性のある生産をしなければならない、という思考をも含む。後にも記すが、ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」は、未来に価値を生み出すものをこそ作らねばならないという資本主義の精神を象徴的に含みこんでいる。第四に、決済を未来に先送りする思考法の変奏として「青い鳥」幻想が挙げられる。それは、今の自分の存在がひどく頼りなく感じられるとき、別のところへ行けばもっと違った自分になれる、ここでは不可能な自分にであえるという幻想を追いかける、「こうすれば自分はもっと自分らしくなれるんじゃないか」という、自分を常に未来の「自己」に至る途上にあるものとして意識する心的メカニズムをいう。そういう形で欲望を再生産していくのである。そして第五に、「新しいものはみなよい」という、欲望の対象を絶えず交替させることで欲望そのものを絶えず再生産していく、そういう意味装置に対応するような感覚と「前のめりの」時間意識とは関わる。少し細かく見たが、こうした未来の始まりとしての現在の意識、proという「前のめり」の意識は、私たちの生活に深く浸透している。そして、仕事=労苦であるという近代的な理解の仕方と深く結びついているのである。
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引用文献
[i] 鷲田清一『だれのための仕事』7-15頁、岩波書店、1996年。
[ii] 『日経ウーマン 2002年12月臨時増刊号』日経ホーム出版社。
[iii] 清水ちなみ「OLから見た会社」内橋克人・奥村宏・佐高信編『就職・就社の構造』126-128頁、岩波書店、1994年。