(右側)
クロード・モネ《サン=タドレスの断崖》
1867年 油彩、キャンヴァス 松岡美術館
モネ27歳、長男ジャンが誕生した年に描かれました(1914年モネはジャンに先立たれます)。雲の流れる様が美しい絵だと思いました。
(左側)
クロード・モネ《モンソー美術館》
1876年 油彩、キャンヴァス 泉屋博古館分館
モネ36歳、「第二回印象派展」に参加した年に描かれました。
https://spice.eplus.jp/articles/198776/images/531168より画像お借りしています。
クロード・モネ《ラ・ローソン=ブロンの村(夕暮れの印象)》
1889年 油彩、キャンヴァス 三重県立美術館
「そして印象主義の牽引役を任じたモネ自身も自らの道を模索していた。批評家のギュスターヴ・ジェフロワ(1855-1926)からクルーズ峡谷への誘いを受けたのもちょうどその頃である。パリから南へ300キロほどのこの地に、初めはほんの2,3週間の気晴らしの旅のつもりが、結果として3ヶ月以上も足を止めることとなる。この間画家が完成させた作品は20点を越え、うち14点は1889年6月に開かれたオーギュスト・ロダン(1840-1917)との大規模な合同展に出品されている。
ここには、かつて画家を捕らえたような、水面のきらめきや大気の震え、都市の快楽にいそしむ人々の姿はない。画家自ら「ひどく暗」く、「陰鬱」であると称した景色は、新たな一歩を踏み出さんとする悲壮なる決意の投げる影であろうか。批評家達もこれに応え、大いに画家の新しい試みに驚嘆し、「並ぶもののない威厳」と「最も並外れた完成度」と賞賛した。」
モネ49歳、生涯の制作拠点となるジヴェルニーへ転居してから描かれました。学芸員の方のギャラリー解説をききながら鑑賞しました。一見暗く重い絵ですが、よくみると手前には河のゆらめきが描かれています。山肌を太陽が照らし、キャンヴァス全体が夕暮れに染まっている絵でした。
https://artsandculture.google.com/asset/ラ・ロシュブロンドの村/UAHU90YUw3I9fg?hl=jaより
「クロード・モネは、「印象派」をまさに代表する画家である。そもそも、「印象派」という言葉自体が、モネの作品《印象、日の出》に由来している。そして、「印象派」という美術の革新を支えたのは、モネら、若い画家たちの情熱であった。
19世紀半ばのフランスの美術界には、表現における新感覚の胎動があった。アカデミーが主催する「サロン・ド・パリ」が絶対的と言っても良い権威を誇っていた時代。1863年、アカデミーはエドゥアール・マネの《草上の昼食》(1863年 パリ、オルセー美術館)を始め、多くの作品を展示することを拒否する。時のフランス皇帝ナポレオン三世によって、マネたち若手の画家の作品を集めた「落選作品展」が開催される。ささやかではあるが、フランスの美術界に改革の狼煙(のろし)が上がったのである。
1874年、モネやピエール・オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌらが中心となって、「サロン・ド・パリ」とは独立した展覧会が開かれる。この展覧会を見に来た批評家のルイ・ルロワは、新聞にモネたちの作品を揶揄して「印象派による展覧会」という評論を掲載した。これが「印象派」という名前の由来となる。
もともとは、自分たちを批判する言葉を、肯定的な意味での歴史的呼称にしてしまう。モネを初めとする印象派の画家たちには、そのような「芯の強さ」があった。
受難ゆえに高まる情熱。オルセー美術館で《日傘をさす女性》の絵を見た時に私の胸を打ったものは、苦境を自らのヴィジョンで切り開いてきた、モネの生き方そのものだったのかもしれない。」(小学館ウィークリーブック西洋絵画の巨匠「モネ」より、茂木健一郎)