
「2013年2月3日(日)
美谷島邦子さんの『御巣鷹山と生きる』を拝読してから、あふれるような思いを伝えたくて、26日にメールをお送りした。心を込めて言葉を選んで、下書きをしてからメールをお送りした。
『日航ジャンボ機墜落 朝日新聞の24時』を続けて、とりつかれたように、涙をにじませんがら読みふける。乗員名簿が巻末に掲載されている。簡単な一行、二行の行間から、一人一人の物語があること、無念さ、悔しさがにじみ出てくる。どれほどの恐怖と、悔しさと、自分の身に置きかえて考えることなど到底できないような状況があっただろう。遺族の体験もすさまじい。私なら耐えられるだろうか。『御巣鷹山と生きる』を読んでから、9歳とおぼしき男の子を見かけると、こんなに小さい子が一人で旅をして、夏休みの思い出になるはずだったのに、どれほど怖かっただろうと思うと胸がつぶされそうになる。知らず知らずに涙があふれてきてしまう。これだけ私の中にたまっているものがあるんだな。どうやって社会に発信していけるのか。
私はMちゃんが亡くなった現場を幸いなことに見ていない。その分だけ、今も信じられない。普通に働いて、食べて、眠って、本を読んで、趣味の時間も持って・・・信じられないというのが一番だ。
やっと一歩踏み出していけそうだ。
中国旅行の日記、一人暮らしを始めようかと模索していた頃の日記、一人暮らしを始めて一年目頃の旅日記も捨てる。さよなら、愚かだったワタシ。少しずつ軽くなっていける。今まで重すぎだ。サヨナラ、若き日のワタシ・・・。」
「2013年2月4日(月)
あったかくてだるい。
変な時間に目覚めて目覚まし時計をけとばしてしまった為遅刻。すごく変な夢をみた。なぜか私がウサギの子を産み落とす。そこに心残りがあるのだろうか。もうおそい。残念ながら。かなわないことはたくさんある。仕方ない。人生はそうしたものだ。母の命日が近づいて色々と思いめぐらして不安定になっている。大変だった日々がよみがえってきてしまう。自分の幸せを考えよう。
1988年10月から89年2月の日記を棄てる。一人暮らしを始めようか迷った末、私は決断して家を出た。今思えばよくそんなエネルギーがあったものだ。その時母から逃げようとしているという自覚はなかったが、結果的にそれは私を救っている。身をすり減らすような思いで挑んだPSWの国家試験。何ができるだろう。どうやって思いを、経験を発信していけばいいのだろう。考え続けることをやめない。
母の病気も妹の自死も普通にはやっぱり言えない。私の中ではいつしか当たり前のようにしみこみすぎてしまった。事実は変わらないので背負っていくしかない。背負える自分で居続けるしかないのだ。
私は今普通に暮らすことができている。こうして普通にしていると全てが信じられない。夢であるかのように思える。自分の妹が自死なんてそんなことってやっぱりあり得ないんだ、自分の中で・・・。普通にあり続けることがいかに大変なことか、尊いことか。幸せになろう。自分が一生懸命生きる。それしかない。3人分幸せになろう。
母が解放してくれたんだ。背負いながら強く生きていこう。命はつながっていると思う。
隣のオジサンこわい。ドスンドスンとすごい音がするし、なぜか月曜日の5時半にすごい強い引き戸の音がする。なんだろう。夜、眠る前、部屋を出る時、不安になってついつい何度も確認してしまう。不安神経症だ。ちょっと辛いな。
早くきれいさっぱりしたいが、少しずつしか捨てられず、まだまだ時間がかかりそうだ。できれば日本を出てみたいとも思う。
『大草原の小さな家』を原文で読む。シンプルだが奥が深い。一日一日を生きることに命がけだったと思う。ローラは強くたくましく生きぬいていく。学ぶことが多くありそうだ。ゆっくり味わっていきたい。」
「1988年7月~10月の日記を捨てた。〇〇銀行を辞めて1ヶ月間スクーリングに出た。そのあとは家でゆっくり通信教育に取り組んでいた。母はすでに統合失調症を発症していて私は悩んでいたことが読み取れる。若くて何も知らなくってそのあと逃げることしかできなかった。それから25年が過ぎ、母がいなくなっても私の生活は変わらない。お金は慰められないが、そのことは私をとても救っていると思う。統合失調症って心の優しい人がなっちゃうのかな。今だから思える。
シルクロードの写真もようやく捨て始めている。ぴちぴちだけど愚かだったワタシにサヨウナラ・・・。すっきりして新たな一歩を踏み出していきたい。」
「2013年2月12日(火)
母の一周忌は終わった。昨年の今頃告別式が始まろうとしていた。今日と同じ、雪がちらすきそうな寒い日だった。今だ信じられない。実感がわかない。いつもの部屋で寝ていないのが不思議だ。Y君はすぐに救急車を呼ばなかったことを後悔している。自分を責めている。時が癒してくれるのを待つしかない。救急車で運ばれたら家で最期を迎えることはできなかっただろう。母の本望ではなかっただろうか。ただ傷のあったことは痛ましい。
父と母の衣類を整理していたらMちゃんの遺品が出てきた。母だろうか、細々とした物が箱にまとめられていた。Mちゃんがまとめた物を母がタンスの中にしまっていたのか、よくわからないが奥の部屋にあった。日記が出てくる。亡くなった年の5月6日から9月18日まで。私には辛いシロモノだ。ウツにとりつかれて幻聴も起こっていたようだ。自殺したいと思っていることが綴られている。私に相談事をしたことも綴られている。まともには読めなかった。やめよう今さら自分を責めるのは。その分まで一生懸命生きればいい。それでいい。それしかないんだ。言いきかせる。」
「2013年2月16日(土)
自死遺族の会に行った。日の浅い方が多くて、あふれるような思いを伝えることができなかった。言葉を失ってしまった。時間をかけて受けいれていくしかない、ということを伝えたかったのだがちゃんと伝えられなかった。人が多くていろいろな人の話をきいているうちにちょっと気持ち悪くなってきてしまったような感じもあって、私はNKでアホ大会社っていいながら働いて時々旅に出る。そんなスタイルがちょどいいのかな。家に暮らすのは辛くってできないかな、と思う。カナダで暮らすって無理かなあ。
母の病気と妹の自死-受けいれる自分であり続けるためにずいぶん無理を重ね続けてきた。自分を責めてもどうしようもない。写真に向かって、なんでこんな苦しみを残して逝ってしまったんだと話しかけても何も答えはかえってこない。ただ見守っていてくれると信じて、自分が一生懸命生きていくしかない。それでいいんだと思う。区切りをつけていこう。自分が幸せになっていくんだよ。」
「2013年2月18日(月)
悲しみ、苦しみ、辛さ・・・言葉に言い尽くせない色んな思いといつしか私は同化していた。それらはみんな私の体の一部になっていた。これらかも共に生きていかなければならない。なぜなのかはわからないが、背負うというよりも一緒に生きていく感じに今はなっている。
幸せになりたいと思う。天命を全うしたいと思う。ゆっくりいこう。あせることはない。できることを少しずつ・・・。
深く生きる人生になったことに感謝・・・。
土・日・祝日の予定が続いている。ちょっときついな。休みをとろう。
警察博物館の前を通りかかったので震災活動記録写真展をみた。私たち日本人は忘れっぽい。私は忘れないでいたい。こうして生きていることは当たり前ではなく奇跡なんだ。
『アンナ・カレーニナ』悲しい結末だった。なんともやりきれない思いが残るが舞台としてのグレードは高かった。一路さんのドレス姿が美しかったあ。男役の面影を残しつつ、すごく素敵に着こなしていた。最後は主人公と同化。すごいね、役者さんって・・・。」