たんぽぽの心の旅のアルバム

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通信教育レポート-近代ドイツ演劇

2022年07月13日 15時27分09秒 | 日記
課題:18世紀なかばから20世紀なかばまでのドイツ演劇の歴史で悲劇とその主人公像がどのように変化したかについて述べなさい。

「『リア王』の主人公は、全てを失って初めて己れの愚かさに気づき、狂気の中で真実に目覚める。そして、苦悩しながらも積極的に運命を受け入れて死に至る。このようなShakespeare(シェイクスピア)を手本として近代ドイツ演劇は出発した。

 最初に眼を向けたのはLessing(レッシング)である。彼は形式を重視し、ドラマの緊迫感を外的なものに求めたフランスの劇作家に対して、「Shakespeareでは人間の個人的性格の内部に運命を左右する力がある」と讃えた。彼の『サラ・サムプソン嬢』は、それまで悲劇の主人公は王侯や英雄でなければならないとされていたのを破って、始めて市民を主人公とした。また、社会と道徳の要求の正当さを認めながら、自分自身の心の要求に従う道を選ばざるを得ない女性の心理の深みを描いた点でも新しい。『エミーリア・ガロッティ』は、イタリアの小公国を舞台として権力をかさにきる君主の横暴に生命を賭して抵抗する父娘の家庭悲劇である。古典的な法則を守りながら封建的支配者層と市民間の葛藤を描き、市民が貴族に劣らず崇高悲壮な悲劇的人物になることを示した。

 1770年から80年にかけてのシュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)は、人間の内面でのエネルギーの沸き立ちを表現しようとした。この荒々しい時代を越えてGoethe(ゲーテ)とSchiller(シラー)はより大きく成長していった。

 Goetheの初期の『ゲッツ・フォン・ベルリッヒンゲン』は、16世紀の農民一揆で農民側の旗頭をつとめた騎士ゲッツを主人公とする。誠実なゲッツは、自由独立のため、バンベルクの僧正に象徴される宮廷政治の不正・虚偽と闘い、敗れる。自由奔放な形で、合理化された因果関係とは逆の、複雑な力関係と時間の作用から生まれる政治的な葛藤を描いた。
やがて、Goetheは荒々しく感情がほとばしる時期から、古典主義へと脱皮していく。『エグモント』は、その過渡期性格を持つ。スペイン王に弾圧されるオランダの新教徒の側に立って、王の命を受けて派遣されたアルバ公と対決し、結局は捕われの身となって死ぬエグモント。そして毒を仰いで恋する人と運命を共にするクレールヒェンの悲劇である。自由を望んで死ぬエグモントに、『ゲッツ』の影を見出すことはできる。しかし、エグモントは、合理化されようのないデモーニッシュ(魔霊的)なものに駆られて、自分のおかれた状況を客観視できない。スペインの出方を誤ってなすべき行動もせず、むざむざと捕らえられ、破局に至る自滅的人間である。悲劇は、エグモントの個人的悲劇にとどまり、しかも彼によって人間性の高貴を徹底的に追求する方向にも向かっていない。

 Schillerの若き日の作品『群盗』の主人公カールは、封建的な因習と闘い、盗賊という過激な手段によって自由に生きようとするシュトゥルム・ウント・ドラング的な人物である。彼は自我の全面的な開放を志して、抑圧された自由への衝動を大胆に爆発させ、世の不正と闘うために自分自身の不正を正当化してはばからない。それに対して、道徳や良心などの見せかけの倫理を拒み、人間社会の唯物的な秩序だけを信じて、兄をおとしめることに良心の呵責を抱かない弟。二人の対比が劇的な骨組みを構成する。カールは、最後に世界の道義的秩序を回復するために、自首して己れを犠牲として捧げる。強いられるのではなく、自発的にすることが彼の自由を内面において救う。悲劇の完結がすなわち秩序の回復であり、悲劇的人物の没落はこの秩序のために意義をもち得る、という古典主義の精神はこの後Schillerの悲劇の全てに貫かれている。
次作品『たくらみと恋』は、Schillerがシュトゥルム・ウント・ドラングを経過したことを示す。市民悲劇につきまといがちの感傷が、若い主人公たちの若々しい感情にとってかわっている。彼らの純な愛情が横暴な貴族社会の企みに死を余儀なくされるものの、精神的には勝利を収める。
『ドン・カルロス』は、理性による調和を最上の理想としたSchillerの面目をよく現わしている。スペイン王家の父子の対立を描いた悲劇の中に、ホレーショさながらの人物ポーザ公が登場する。彼は現実の不条理には不条理な反抗で立ち向かうのではなく、条理を解いて解決を見出そうとする。また、ここに描かれる王は絶対的な権力をもつ悪玉ではなく、個人の情と国制担当者としての立場にはさまれ苦悩する。人間の高貴さに対する信頼を最後まで寄せた作品である。

 GeotheとSchillerの古典主義は、フランス古典主義への回帰を意味するのではなく、ギリシャからフランを経る古典演劇の伝統とShakespeare劇との出会いの後に位置する近代劇の先触れをなしていた。Geotheにおいては、大作『ファウスト』が、それをよく示す。第一部は、悪魔メフィストに恋するグレートヒェンの悲劇を中心とする。が、全編を通観した場合には、ファウストの、苦悩しつつ脱却しなければならない一つの過程になる。第二部ファウストは、悪魔の力を借りて美女ヘーレナとの結婚を経た後、人類に奉仕する事業に身を捧げて行く。そして、はじめて人生の意義をさとり、「とまれ、おまえはいかにも美しい」と賭の言葉を口にすると、約束通り倒れて死ぬ。悪魔の勝利である。が、ファウストの魂は悪魔のものとはならなかった。ファウストは、享楽の人生に満足したのではなく、人間の幸福に奉仕する行為に満足したからその魂は救われた。実質的にはファウストの勝利である。ならば、神の意で勝ち目のない賭のために努力を重ねる悪魔こそ、真に悲劇的な役を演じているのかもしれない。冒頭ですでにファウストの救済は予言されているのである。このような主人公は、伝統的な悲劇観に照らせば、もはや悲劇の主人公とは呼びがたい。究極的には主人公が行為に対して救われる結末は、真に悲劇とは言い切れない。悲劇か喜劇かという明確な区別を空虚なものにしているところに、この作品の新しさがある。

 Schillerの悲劇は、人間的な自由を求める叫びに満ちている。主人公は、自由な意志による行動が自分の悲劇的状況の一因であることを意識し、その自由意志によって状況を克服しようと努力する。それは、与えられた運命にもだえるギリシャの運命悲劇とも、個人の性格が招いた悲劇的状況と闘うShakespeeeareの性格悲劇とも異なる。
両方が融合した作品が、『ヴァレンシュタイン』である。主人公は、自らの罪過が招いた運命を潔く受け入れ、その運命を全うするために死を受け入れる。『マリアシュトゥアルト』は、スコットランド王女マリアとイングランド王女エリーザベトの対立と、マリアの個人的運命がテーマである。栄華な生活に慣れて浮薄だったマリアは、苦悩のために精神が浄化され、最後は素直な心で死に赴く。
ジャンヌ・ダルクが主人公の『オルレアンの処女』は、史実を作り変え、地上のあらゆる愛着から、もちろん恋愛からも離れ純潔な処女として神から授けられた使命を果たさなければならない、とした。敵軍兵士に心的に存在していて免れ難いものと考えた。主人公の犯した罪が悲劇的結末をもたらす原因なのではなく、人間の存在そのものがすでに罪である。人間は存在するが故に悲劇への道をたどらざるを得ない。
『マリア・マグダレーネ』は美女であるために、無知と誤解と体面から生じる小市民的な人間関係の矛盾の犠牲になる。個人の意志と行動が劇的行為の中心でなくなれば、古典的な悲劇形式は解体せざるを得なかった。主人公の個人的運命のかわりに、主人公を中心に回転する歴史の歯車や社会の環境が前面に出てくる。主人公は運命や環境と闘う決断力と能力を失った受動的人間と化し、集団の非個人的な力が主人公の運命を左右するのである。

 Grabbe(グラッペ)とBiichmerは、短い叙事的なシーンの連続した、様々な思想が複雑に絡んだ、秩序の回復で劇的行為を完結することのできない作品をかいた。古典的な劇構成の法則を一切無視して美化されない現実を表現し、主人公が時代と環境の諸条件から逃れられないものであることを示した。人間は、見えない力に操られる人形なのである。主人公は、名づけることもできない歴史の力の犠牲になる。

 さらに、自然主義の文学は、現実に肉迫しようとした。人間や人間社会の醜悪な面をもたじろがず直視していく。Hauptmann(ハウプトマン)の『職工』は、シュレージエンの織物工場で、低賃金に苦しめられる下請け職工たちの蜂起を扱っている。個人ではなく群衆そのものが主人公であり、また、彼らの蜂起を手放しの讃歌には終わらせていないところが新しい。

 20世紀にはいると、人間心理の多属性の発見と表現により、伝統的な悲劇形式の基礎は崩れた。一定の形式をもたないところに「第二の近代劇」の特質がある。劇作品は驚くほど多様化した。そして、Brecht(ブレヒト)によって新しい時代の演劇は造られていく。Schillerの『オルレアンの処女』のジャンヌ・ダルク像のパロディ『屠殺場の聖ヨハンナ』は、古典劇への批判となっている。Schillerのジャンヌ・ダルク劇が個人としての英雄的行為を描いて人間性の偉大さを表現したのに対して、逆にジャンヌがおかれたっ社会的立場を明らかにして個人の能力の限界を気づかせるように描かれている。彼女個人の努力は、巨大な社会機構の中に吞み込まれてゆく。重要なのはジャンヌ個人ではなく、社会である。ここに、一つの原因と一つの動機による一つの行為を描く古典的な悲劇形式は、完全に否定された。

参考文献
・『ドイツ文学史』佐藤晃一(明治書院)
・『ドイツ古典主義』
   J・F・アンジェロス J・ノジャック
   野中成夫・池部雅英訳(白水社)
・『ドイツ文学案内』手塚富雄(岩波文庫)

評価はA、講師評は「質量とも前半に重心が置かれていて、後半に物足りなさを感じました。それでも最重要の人物たちとそのポイントをきっちりおさえてくださっていることを認めて、少々甘いかなと思いつつも、最良の評点をさしあげることとしました。」


2019年宙組シラー作『群盗』、

芹香斗亜率いる若手の力量を感じさせる宝塚宙組公演『群盗─Die Räuber─』
http://enbu.co.jp/takarazuka/serikatoa-soragumi-kouen/



2012年雪組シラー作『ドン・カルロス』、



1989年月組ゲーテ作『ファウスト』より、『天使の微笑・悪魔の涙』



1993年月組『ロスト・エンジェル』



2013年雪組ゲーテ作『若きウェルテルの悩み』より、『春雷』

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