たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

『東北歴史紀行』より‐いざたどらまし〈会津嶺あいづねの国〉(1)

2024年04月30日 20時23分04秒 | 本あれこれ

「奥深い会津‐

 福島県は、北海道・岩手県についで、日本では第三番目の広さをもつ県です。そのうちのほとんど40パーセントに近い面積を、会津とよばれる地域が占めます。ですから会津県と呼んだほうがぴったりするような独自性を、この地域はもっています。風土的に、まず自然の成り立ちがそうなのです。四方を山がとりかこんでいます。南は、北関東、上野こうずけ(群馬)・下野しもつけ(栃木)の山々、西は越後(新潟)の山なみ、東は福島中通りとの間の奥羽脊梁せきりょう山脈、そして北は出羽との境の奥深い山々です。

 わたしたちの歴史地理は、東北をいつも、南から北へとすすむのです。したがって、みちのくの思想は、北に秘境を考えます。会津はみちのくに西の秘境を深く蔵するところとして、特別なみちのくなのです。

 われわれの旅は、東京を出ます。新幹線で郡山乗り換えでもいいです。直通というのでしたら、東北本線を会津若松特急あいづに乗れば、会津若松まで4時間たらずです。会津の旅は、若松に始まって、若松に終わります。歴史もまた、そうなっているのです。

 

大塚山古墳‐

 若松市内、白虎隊びゃっこたいの飯盛山いいもりやまの近く、一箕(いつき)町に大塚山古墳があります。全長90メートルほどの前方後円墳(前が方形、後が円形のひさご型古墳)ですが、鏡・王・剣・鏃(やじり)など、出土遺物の豊富でりっぱなことで、考古学者をおどろかせ、東日本でも有数なものと、折紙をつけられました。とくに和製の三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・縁の断面が三角形を示し、図柄に神像・聖獣を配した鏡)は、同范鏡(どうはんきょう)といって、これと同じ鋳型でつくられた鏡であることのはっきりする鏡が、岡山県備前市丸山古墳から出土していることから、本来は、大和朝廷に保管されていたものが、朝廷に服属した地方族長に、その権威の分身たることを証明する宝器として、一つは吉備国岡山県の王に、もう一つはみちのく会津の国の王に、分けあたえられたものと考えられるようになっています。古墳の年代は、四世紀後半と推定されていますから、大和の大王家(天皇家)と、この古墳に葬られた会津の王との政治の出合は、四世紀の初期ごろまでさかのぼることになります。

 そんな古いころには、関東地方のあたりだって、大和朝廷とどんな関係にあったか、よくわかりません。かりに埼玉県行田市稲荷山古墳出土の鉄検銘が、雄略天皇のころのことを語っているということであるにしても、それは五世紀後期のことなのです。会津大塚山古墳は、東日本でももっとも早いころの畿内統一王朝との結びつきを証明する、貴重な物の歴史になるものです。

『古事記』には、第10代崇神(すじん)天皇のころのはなしとして、北陸道(越の国)方面の経営に向かった大彦命(おおひこのみこと)、東海道方面の経営に向かった武沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)の二人の父子の将軍が、会津(相津)で出合ったので、ここを会津というとする伝説が、のせられています。名まえはともかくとして、これを、大和朝廷の経営が、早いころから、北陸と東国の両方から会津の地に分け入っていた伝説と考えますと、この大塚山古墳によって、それは、4世紀まではさかのぼらせることのできる歴史をもとにしてのはなしだ、ということができます。中国の『宋書(そうしょ)』倭国伝(日本伝)には、日本の第21代天皇の雄略天皇に当たると考えられている倭王武(わおうぶ)が、487年、中国に使節を送り、「わが先祖の王は、みずからよろいかぶとに身をかためて、四方を経営し、東は毛人(えみし・エゾ)55国を征した」と報告したとあります。大塚山古墳は、そういうエゾ経営が、四世紀には、確実に東北南部にとどいていたことを裏打ちするものとしても、貴重です。

 東北は広い。そして深いのです。とこまでいっても、道の奥として、朝廷日本の外に、別日本として立ちつづける東北ももちろんありました。しかし、さきに見た石城(いわき)のように、またこの会津のように、東日本の中でも、先進東国といえるように、開化の早い東北もあったのです。この紀行では、東北というところを、すこしきめこまかく理解していく視角をもつことも、新しい発見のうちに入ります。

 

恵日寺(えにちじ)と勝常寺(しょうじょうじ)‐

『万葉集』には

  会津嶺(あいづね)の国をさ遠みあはなはば しぬびにせもと紐結ばさね

 そういう会津びとの歌がのこっています。会津嶺は磐梯山のことです。会津の国は磐梯山の国だったのです。今日も会津は磐梯山の国ですが、それは観光磐梯山の国のことです。『万葉集』に会津嶺の国というときには、それは、いわはし(磐梯)神山の国の意味だったのです。

 そこで、いわはしの神威をうける者は、会津の神王となることができたのです。平安時代から中世にかけて、そういう歴史が、この会津に出現するのです。徳一(とくいつ)という僧と、その宗風を組織して伝えた恵日寺(えにちじ)という寺の綴る会津の歴史が、それです。」

 

(岩波ジュニア新書『東北歴史紀行』21~25頁より)

 

 

 

 

 

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