たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

心にしみる言葉たち

2015年10月20日 22時48分36秒 | 日記
 しばらく前に、シールズのツィッターをみていたら出会った若松英輔さんのツィッター。むずかしいところもありますが、心の奥深くに沁み込んでくる珠玉の言葉が並んでいます。目にはみえないものを信じること、悲しみ、苦しみに語らせること、悲しみの奥にこそ本当の喜びがあること・・・。今までも書いてきたし、これからも書き続けようと思います。書くことでしか、自分の気持ちを整理できないし、表現できません。出口の見えない暗いトンネルの中を彷徨っているような毎日。書くことでしか向き合っていけそうにありません。私の中にまだまだオリのようにたまっている言葉たち。書かずにはいられません。よろしければ引き続きお付き合いください。


若松英輔 ‏@yomutokaku · 19時間19時間前
目に見えないものは頼りない、などというのは虚言に過ぎない。信頼、希望、人生の意味、どれも目に見えず、ふれることもできない。しかし、私たちはそれらをどこかで認識しながら生きている。むしろ、その存在を固く信じている。何であるかを明言できないものでも人は、それを深く感じている。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 19時間19時間前
夢を見る、というように「見る」には、目に見えないものを「見る」という意味がある。この一語には、目に映るものだけを見ていては、何も「見ていない」事になる、という叡知がある。同時に、人は意識するかはどうかは別に、目に見えるものと共に、じつは不可視なものも感じていることを示している。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 22時間22時間前
心に、悲しみの花を咲かせよ。悲しみの経験はいつしか種子になり、心に根付く。心を流れる、見えない涙は、尽きることなき水になる。花々は決して目に見えない。だが、それは朽ちることなき死者への供物となる。心に、悲しみの花を咲かせよ、それはいつしか、耐え難い苦しみにある自らをも救うだろう。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月17日
悲しみなら幾つでも見つけられる。だが喜びは、容易には見つける事ができない。そんな経験は、誰にでもあるだろう。こうしたとき人は、悲しみの深みを覗いても苦しみが増えるだけだと思い込んでいる。だが、振り返ってみると朽ちることのない喜びはいつも、悲しみの奥にあったように思われる。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月15日
悲しさではなく、悲しみを語れ。悲しみの程度を口にせず、悲しみ自身に語らせよ。苦しさではなく、苦しみを、美しさではなく二度と戻らぬ美を語れ。悲しさを、苦しさ、美しさを語る者は、あの、ただ一度しか起こらぬ奇蹟を知らない。幾度も繰り返すなら、この世に悲しみなど存在しないはずではないか。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月11日
苦しみにある時は外に答えを求める前に内なる詩人を目覚めさせよ。詩人は目に見える言葉を信用しない。だが決して、隠された生きる意味を見過さない。詩人はいつも静かに語りはじめ、これから語ることを書き記せという。これが「書く」ことの秘儀である。一切の例外なく詩人は、誰の胸にも生きている

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月11日
感情はいつも折り重なるように存在している。だからこそ古人は「かなし」を「悲し」とだけでなく「愛し」も、また「美し」も「かなし」と読んだのである。悲しみは単に悲痛の経験ではなく眠れる情愛を発見する契機となる。また悲しみの底には喜びを通じては見る事ができない美しい光景が広がっている。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月11日
人生には何度か、本を読めなくなる時期がある。ページを開いても言葉が心に届かない。そんな時は誰かが書いた文字を読むときではない、そう人生が告げいているのである。ペンを執り、うごめく想いを書いてみる。書くとは単に他者に想いを伝える行為ではない。自分が何を考えているかを知る事でもある。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月7日
誰もが「活躍」できる社会の建設を明言する者は、世界が苦難に満ちていることを知らない者か、もしくは、虚言を発することに心を痛めない者かどちらかだろう。万人が「活躍」する社会を目指すのではなく、苦難に直面しながらも、誰もがどうにか生き抜ける、そんな世界が求められているのではないか。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月7日
「活躍」などしてくてよい。人はただ、生きているだけで十分に貴いからだ。「活躍社会」は、人生の困難に直面する者たちの声を封じ込め、そして、その叫びをなかったことにするだろう。人は「活躍」するために生まれてきたのではない。「活躍」とは、誰かに基準を定められるべきものでも決してない。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月1日
ビジネスの世界で成功物語を語りたがる人の言葉には気をつけた方がいい。その人はどこかで成功のカギは自分にあると思っている。そうした人は、自分の見えないところで他者がどれほど助けてくれているかが全く見えていない。どんな仕事であれ一人で成し遂げられる成功など、あるはずがないではないか。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 10月1日
いい仕事ができた、と感じることは確かにある。だが、振り返ってみると、そんなことを考えないままに、仕事に誠実を尽すことができたとき、仕事は自ずとある美しさをたたえるのではないだろうか。いい仕事とは、そこに携わる人々との間に深い信頼が生まれたところにだけ生起するようにも思われる。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 9月26日
読む、書くとは何かを体得する事は、文章の方法を勉強する事は全く違う。勉強すれば確かに文章は書けるようになる。だがその人自身よりも教える人間に似ている文章をいつまで書き続けるのか。最期の時までそんな文体で書くのだろうか。書け、思うままに。今、本当に感じている事を、感じているままに。

若松英輔 ‏@yomutokaku · 9月25日
心に届く言葉を書こうとして、文章の書き方を勉強するよりも心を真剣に感じてみることの方が、よほど重要なのではないだろうか。心の存在を真剣に考えないものに、どうして心に届く言葉を書くことができるだろう。大切なのは、文章を学ぶよりも、心の痛みを想い出すことの方なのではないだろうか。


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