「では、人間の自由はどこにあるのだ、あたえられた環境条件にたいしてどうふるまうかという。精神の自由はないのか、と。人間は、生物学的、心理学的、社会学的と、なんであれさまざまな制約や条件の産物でしかないというのはほんとうか、すなわち、人間は体質や性質や社会的状況がおりなす偶然の産物以外のなにものでもないのか、と。
そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。
こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の列はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟の間で、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。
収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。
この究極の観点に立てば、たとえカロリーの乏しい食事や睡眠不足、さらにはさまざまな精神的「コンプレックス」をひきあいにして、あの堕落は典型的な収容所心理だったと正当化できるとしても、それでもなお、いくら強制収容所の被収容者の精神的な反応といっても、やはり一定の身体的、精神的、社会的条件をあたえればおのずとあらわれるもの以上のなにかだったとしないわけにはいかないのだ。そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったのか、
収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見えてくる。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが怖れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようがかんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年、みすず書房、
109-113頁より)
*******************
訳者あとがきに、典拠となっている本のドイツ語のタイトルは、『・・・それでも生にしかりと言う』、「心理学者、強制収容所を体験する」というほどの意味だとあります。
ようやく今この本にたどり着いて、心に深く沁みこんでくる、そういう自分でいられることに
感謝したいと思います。妹との突然のお別れによって自責の念に苦しんできた20年近くの日々、そして突然居場所をなくし権力に誹謗中傷されることとなって結果はあまり実らなかった混乱による苦しみの日々。結果はどうであれ、権力との闘いは私自身の尊厳を守るために必要なことだったのだとようやく少し思える。一般的には、早く忘れて、気持ちを切り替えて、と言われる。でも私の中ではそうでない。死力を尽くした、頭のてっぺんから足の先まで全身のエネルギーを振り絞った日々を忘れることはない。妹が背中を押してくれていると信じ続けて、きっとこれでいいんだと信じ続けてがんばった日々。わたしがずっとその場所にいたかったかどうかは別のこととして、自分のために言うべきことをいわないまま引き下げることは
私の中でありえなかった。この苦しみもまたやがて私の体の一部となり、心の糧として生きていくことになるだろう。そう信じ続けて、ようやく一歩踏み出し始めた日々。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、気持ちが上がったり下がったりしながらの日々。次に私を必要としてくれる居場所はあるはずだと信じ続けよう。自分を信じ続けよう。心はいつだって自由でいることができる。世の中捨てもんじゃない、って思えような出会いがあるのかわからなくて不安。信じることしかできない。
そしてとりわけ、人間の精神が収容所という特異な社会環境に反応するとき、ほんとうにこの強いられたあり方の影響をまぬがれることはできないのか、このような影響には屈するしかないのか、収容所を支配していた生存「状況では、ほかにどうしようもなかったのか」と。
こうした疑問にたいしては、経験をふまえ、また理論にてらして答える用意がある。経験からすると、収容所生活そのものが、人間には「ほかのありようがあった」ことを示している。その例ならいくらでもある。感情の消滅を克服し、あるいは感情の暴走を抑えていた人や、最後に残された精神の自由、つまり周囲はどうあれ「わたし」を見失わなかった英雄的な人の列はぽつぽつと見受けられた。一見どうにもならない極限状態でも、やはりそういったことはあったのだ。
強制収容所にいたことのある者なら、点呼場や居住棟の間で、通りすがりに思いやりのある言葉をかけ、なけなしのパンを譲っていた人びとについて、いくらでも語れるのではないだろうか。そんな人は、たとえほんのひと握りだったにせよ、人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない、実際にそのような例はあったということを証明するには充分だ。
収容所の日々、いや時々刻々は、内心の決断を迫る状況また状況の連続だった。人間の独自性、つまり精神の自由などいつでも奪えるのだと威嚇し、自由も尊厳も放棄して外的な条件に弄ばれるたんなるモノとなりはて、「典型的な」被収容者へと焼き直されたほうが身のためだと誘惑する環境の力の前にひざまずいて堕落に甘んじるか、あるいは拒否するか、という決断だ。
この究極の観点に立てば、たとえカロリーの乏しい食事や睡眠不足、さらにはさまざまな精神的「コンプレックス」をひきあいにして、あの堕落は典型的な収容所心理だったと正当化できるとしても、それでもなお、いくら強制収容所の被収容者の精神的な反応といっても、やはり一定の身体的、精神的、社会的条件をあたえればおのずとあらわれるもの以上のなにかだったとしないわけにはいかないのだ。そこからは、人間の内面にいったいなにが起こったのか、
収容所はその人間のどんな本性をあらわにしたかが、内心の決断の結果としてまざまざと見えてくる。つまり人間はひとりひとり、このような状況にあってもなお、収容所に入れられた自分がどのような精神的存在になるかについて、なんらかの決断を下せるのだ。典型的な「被収容者」になるか、あるいは収容所にいてもなお人間として踏みとどまり、おのれの尊厳を守る人間になるかは、自分自身が決めることなのだ。
かつてドストエフスキーはこう言った。
「わたしが怖れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」
この究極の、そしてけっして失われることのない人間の内なる自由を、収容所におけるふるまいや苦しみや死によって証していたあの殉教者のような人びとを知った者は、ドストエフスキーのこの言葉を繰り返し噛みしめることだろう。その人びとは、わたしはわたしの「苦悩に値する」人間だ、と言うことができただろう。彼らは、まっとうに苦しむことは、それだけでもう精神的になにごとかをなしとげることだ、ということを証していた。最期の瞬間までだれも奪うことのできない人間の精神的自由は、彼が最期の息をひきとるまで、その生を意味深いものにした。なぜなら、仕事に真価を発揮できる行動的な生や、安逸な生や、美や芸術や自然をたっぷりと味わう機会に恵まれた生だけに意味があるのではないからだ。そうではなく、強制収容所での生のような、仕事に真価を発揮する機会も、体験に値すべきことを体験する機会も皆無の生にも、意味はあるのだ。
そこに唯一残された、生きることを意味あるものにする可能性は、自分のありようがかんじがらめに制限されるなかでどのような覚悟をするかという、まさにその一点にかかっていた。被収容者は、行動的な生からも安逸な生からもとっくに締め出されていた。しかし、行動的に生きることや安逸に生きることだけに意味があるのではない。そうではない。およそ生きることそのものに意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずだ。苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在ははじめて完全なものになるのだ。
おおかたの被収容者の心を悩ませていたのは、収容所を生きしのぐことができるか、という問いだった。生きしのげられないのなら、この苦しみのすべてには意味がない、というわけだ。しかし、わたしの心をさいなんでいたのは、これとは逆の問いだった。すなわち、わたしたちを取り巻くこのすべての苦しみや死には意味があるのか、という問いだ。もしも無意味だとしたら、収容所を生きしのぐことに意味などない。抜け出せるかどうかに意味がある生など、その意味は偶然の僥倖(ぎょうこう)に左右されるわけで、そんな生はもともと生きるに値しないのだから。」
(ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳『夜と霧(新版)』2002年、みすず書房、
109-113頁より)
*******************
訳者あとがきに、典拠となっている本のドイツ語のタイトルは、『・・・それでも生にしかりと言う』、「心理学者、強制収容所を体験する」というほどの意味だとあります。
ようやく今この本にたどり着いて、心に深く沁みこんでくる、そういう自分でいられることに
感謝したいと思います。妹との突然のお別れによって自責の念に苦しんできた20年近くの日々、そして突然居場所をなくし権力に誹謗中傷されることとなって結果はあまり実らなかった混乱による苦しみの日々。結果はどうであれ、権力との闘いは私自身の尊厳を守るために必要なことだったのだとようやく少し思える。一般的には、早く忘れて、気持ちを切り替えて、と言われる。でも私の中ではそうでない。死力を尽くした、頭のてっぺんから足の先まで全身のエネルギーを振り絞った日々を忘れることはない。妹が背中を押してくれていると信じ続けて、きっとこれでいいんだと信じ続けてがんばった日々。わたしがずっとその場所にいたかったかどうかは別のこととして、自分のために言うべきことをいわないまま引き下げることは
私の中でありえなかった。この苦しみもまたやがて私の体の一部となり、心の糧として生きていくことになるだろう。そう信じ続けて、ようやく一歩踏み出し始めた日々。あっちへうろうろ、こっちへうろうろ、気持ちが上がったり下がったりしながらの日々。次に私を必要としてくれる居場所はあるはずだと信じ続けよう。自分を信じ続けよう。心はいつだって自由でいることができる。世の中捨てもんじゃない、って思えような出会いがあるのかわからなくて不安。信じることしかできない。
夜と霧 新版 | |
ヴィクトール・E・フランクル | |
みすず書房 |