たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

宙組『NEVER SAY GOODBYE』-4月21日東京宝塚劇場(3)

2022年04月29日 20時27分28秒 | 宝塚
宙組『NEVER SAY GOODBYE』-4月21日東京宝塚劇場(2)
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/4892b77de09cacd2dd2351f5729d7290

「俺たちはカマラーダ~♪

 俺たちは 鍛えあげる
 自由護る為に
 ファシストに 共和国を
 渡しはしないぞ
 俺たちは よそ者ばかり
 俄か兵士だが
 最後まで 闘い抜くぞ
 命を賭けて

 私たちも 参加するわ
 自由護る為に
 ファシストに 共和国を
 渡しはしないぞ
 女だから 腕の力
 少し弱いけれど
 スペインを 愛する心に
 違いなど無い」

 俄か民兵となった市民たちが銃を手にこぶしをあげる場面は、『レ・ミゼラブル』を彷彿とさせました。ヴィセント@キキちゃん(芹香斗亜さん)のソロ、「俺には出来ない~♪」と並んで、今現在進行形の状況と重なり胸にせまってきます。祖国を守りたいとはこんな気持ちなのかと、今のわたしたちにこんな力があるのかと、どうしても思いをめぐらしながらみてしまいます。

 先頭に立つのは、バルセロナ市長の若翔りつくんとラ・パッショナリアの留依蒔世くん。多くの方が大絶賛されていますが、出番は少ないけれど抜群の存在感で、大優勝の二人。

 キキちゃん主演『プロミセス・プロミセス』のライブCDをようやく聴いていますが、この作品で重役を演じたことが若翔りつくんをものすごく成長させたのでしょう。『フライングサパ』で存在を認識しましたが、大劇場作品でのソロ歌唱は初では。髭に全く違和感なく、ベテランのように似合うし、こんなに声量のあるいい声の持ち主だったのかと目を見張りました。スペイン内部が二つに割れてしまった危機感を歌う声の説得力が半端ないです。

 留依蒔世くん、普段は男役なのにこんなに高い音も綺麗にでるのかとびっくり、歌うまなのはもう誰もが知るところですがさすがの上をゆく上手さ、『レ・ミゼラブル』のアンジョルラスを彷彿とさせるカッコよさ。もうわかってはいても登場した途端、すごつよ女子の登場、どなた?と思ったら留依くん、ってなりました。「女だから腕の力少し弱いけれど~♪」、いやいや誰よりも強そうです。こういう歌詞が入っているところには、ちょっと16年前の作品なのだという時代の流れを感じました。

 ラ・パッショナリアはこの作品の中で唯一実在した人物だいう記事をみかけたのでググってみると、ドローレス・イバルリ・ゴメス の別称。

「ドローレス・イバルリ・ゴメス( 1895年12月9日 - 1989年11月12日)は、スペインの政治家。ラ・パショナリア(La Pasionaria、受難者または情熱の花)の別称で知られていた。

イバルリは、スペイン第二共和政とスペイン内戦における政治指導者として頭角を現した。スペイン共産党の歴史的指導者である。1936年から1939年まで続いたマドリード包囲戦(en)における有名なスローガン、「奴らを通すな!」(¡No pasarán!)や、「跪いて生きるくらいなら、立って死んだ方がましだ」(Más vale morir de pie que vivir de rodillas)を語ったことで知られている。」 (ウィキペディアより)

 劇中で留依くんが歌っている「ノーパサラン!」(奴らを通すな!)は、1936年7月19日、ラ・パッショナリアことイバルリが、バルセロナでファシストの反乱軍との戦いに向けて連帯を呼びかけた演説に出てくるそうです。この語句が含まれる全文は下記のとおり、「ノーパサラン!」はスペイン内戦中の共和国側のスローガンとなったそうです。

https://acropotamia.hatenablog.com/entry/20151004?msclkid=911c748dc78511ec80c7a27b65a69b6aより、

「私たちはとりわけあなた方に、労働者、農民、知識人に呼びかける。共和国の敵、人民の自由の敵をついに打ち破るための戦いにむけ、自分の持ち場に着こうではないか。人民戦線よ、永遠なれ! 反ファシストの連帯よ、永遠なれ! 人民の共和国よ、永遠なれ! ファシストどもは通さぬ! ノーパサラン!(奴らを通すな!) (1936年7月19日)」

 政治的背景を細かく理解することは、現在の状況もですがすごくむずかしいですが、5月1日の大千穐楽ライブ配信に向けて、こんな伏線を知っていてみるのと知っていないのとでは違うかなと思います。ファシズム、共産主義、第二次世界大戦、日本国憲法、政治はわたしたちの暮らしと命そのもの、あまりにもわかっていないので、本を読んで勉強し直さなければと思うこの頃です。


『NEVER SAY GOODBYE』、OGの方々も続々と観劇されています。かいちゃん(七海ひろきさん)がラインライブで、キキちゃんマタドールにテンションあがりまくっていたのはわたしたちと同じとか。私的には湖月わたるさんが観劇してくれたのがすごく嬉しいです。宙組創設時のメンバーだし、キキちゃんわたるさんが着用した衣装を着回していたり、わたるさんのインスタグラムの言葉があったかいです。ありがとうございます。https://www.instagram.com/p/Cc4z3Hhp0Wx/わたるさん、永遠のタカラジェンヌ、永遠にかっこいいです。


 キャサリン@じゅんはなちゃんのこと、オリンピアーダのメンバーの紫藤りゅうくんがものすごく美しくてかっこいいと感じたこと、ジョルジュ@真風涼帆さんがヴィセント@キキちゃんと写真のとりあっこする場面がすごく好きなことなども書きたいですが、千穐楽のあとになるかな・・・。

4月21日の日比谷シャンテ、日比谷コテージにあとには、キャトルレーヴの他にイタリヤ雑貨のお店などオープンするようです。





ステージ衣装コレクション展もまたのぞきました。
じゅんはなちゃんのうすいこと、うすいこと、本当に内臓が入っているのかと心配になるうすさ。
娘役さん、みんなほんとに細い、筋肉でしまっている細さ。













新緑の季節を迎えている日比谷、





めったに東京まで行くことがなくなったので、久しぶりに帝国劇場までなんとか歩きました。

『EndlessSHOCK』、5月22日までに配信みなければ。

妖精界から下界におりたったあーちゃん(綺咲愛里さん)、かわいい、かわいいのかたまり。
堂本光一君の舞台でヒロインやっているとはなんとも不思議。


















『いわさきちひろ作品集7』より-「わたしのソビエト紀行」

2022年04月29日 02時14分58秒 | いわさきちひろさん



わたしのソビエト紀行(「母と生活」1963年10月号静岡教育出版社)

「-花でうずめられた第一歩-

 しゃくやく、あやめ、ライラック、スズラン、やわらかな緑の葉をたくさんつけた花束のむれが、六月のさわやかな光に映えていました。明るい素朴な瞳のおとなや子どもたちが、附近の野や山からつんできて、私たちを迎えてくれたのです。ここはナホトカの港、私のソビエト旅行の第一歩はこうして、野趣のあふれた花束に顔をうずめることからはじまりました。

 ソビエトの東の果ての小さな港町ナホトカは、小高い丘の上にひらけています。どの家も三、四階建ての多くは桃色の建物で、ゆたかな樹木の中に、静かに並んでいました。日の長い一日がやっと暮れてきて、ベンチに休んでいる人たちもいっしょに、やさいい色に沈んで見えるころ私たちは大きな汽車にのりこみました。ハバロフスクまでのるシベリア鉄道でした。

-砂漠の中に立つ近代都市-

 飛行機はモスクワから東南に五時間とびつづけました。雲の切れ間から見える青い原野が、だんだん茶色になってアラル海の上をとびました。まん中の水の深いところだけあやしいブルー、まわりは茶色っぽく水が澄んでいて人気のない不気味な湖に見えました。

 アラル海をこえるともうすっかり黄土色です。道もなくなり砂漠にはいったことがよくわかりました。私たちはウズベック共和国の首都タシケントにきたのです。東はチベット、南はアフガニスタンに接し、そのとなりはペルシャなのです。西洋と東洋の文化の交流点、12世紀から15世紀ごろ回教の文化の栄えていた、いわゆるシルクロードといわれるところです。

 私はこの砂漠の中にこつ然とある近代都市におどろきました。六月中旬、日中は40度をこえる暑さです。けれど木かげにはいると、すーっと涼しい風がよぎります。湿度が少ないのです。

 ひと足ふみ入れたホテルの部屋の、オレンジジュース色の光ったカーテンとベットカバーに、私はまだ見たことのないペルシャを感じました。

 四日間の滞在は短すぎて、少し離れているサマルカンドの古い回教のお寺は見にゆかれなかったけれど、ピヨニール宮殿(子どもの文化施設)、コルホーズの工場、病院と、できるだけ見て歩き、婦人が、みんな顔を黒いベールでおおっていたというおくれた国の革命後のすさまじい発展に目をみはらないわけにはゆきませんでした。

 病院はただ、パンはただ、学校は大学までただ、住宅費は収入の3、4%などという社会主義の国のどこにでもあることは別としても、砂漠の中にこれだけの近代文化をどうしてつくったのか、しかも古い中央アジアの文化や民族性が、なぜうしなわれずに現代にうまく生かされているのか。

 私は社会主義という体制の国のゆたかな力が、一軒一軒の古い土塀の農家の案内にまであふれているのを見たのです。

-豊かな水と美しい友情と-

 レニングラード(現在はサンクトペテルブルク)の街角に腰をおろして私はスケッチです。第二次世界大戦え大方こわされてしまった街がすっかり復元されて、古都の面影がただよっています。タシケントと反対に、こんどは北のはて、白夜といって、沈みかけた太陽が、沈まずにそのまま朝を迎えます。

 スケッチする私のまわりにはおとなや子どもがたかって見ていました。前を人がゆっくり通ると「いまそこを描いているんだから早く通れ」とか何とか、いってくれてたいへん親切な見物のしかたです。

 レニングラードは水の都、美しいたくさんの川が市内をあみの目のように流れています。私はそのどれかの川のスケッチがしたくなりました。大きな街なので川までゆくのにも乗り物にのらなければならないと思い、さきほどから、いっしょうけんめいに私の絵を眺めている13-4才の少年に、道をききました。

 ことばが通じないので、川の絵を描き路面電車の絵を描きました。電車がいちばん庶民的な乗物だろうと思って、それにのろうと思ったのです。手まねも加えて説明し少年に電車の停留所までつれていってもらうと、少年は、電車をまっている2-3人の婦人となにやら相談しました。婦人たちはロシア語で私のスケッチブックに道順か何かをかいてくれました。少年はていねいにも電車の通るらしい図面までかいてくれました。そしてみんなで③という番号の電車に私をのせて、大声で何か車掌さんにたのんでくれました。

 電車のいすにすわった私は、川が見えたらどんな川でもいいからおりようと、ときどき、うしろの窓を見ます。そのたびに両隣りの乗客は私の肩をたたき、”降りるときはおしえてあげるから後を向くな”といっているようです。車掌さんもなんとかいってくれます。もうこうなったらみんながおりろというまで乗っていようと。

 いくつもの河を過ぎて30分ものったでしょうか。みんなが口ぐちにおりるように言ってくれました。私がおりると車掌さんは電車から首を出してそこをまがっていきなさいというように、手まねでおしえてくれました。大きな建物をまがると、はっとしました。美しいネヴァ川が目の前にひらけました。ああ、これこそあの遠いレニングラードなのだ、この河といい、この古い街なみといい、むかし読んだロシアの小説の中の、まさにベテルブルグなのです。現代のナターシャが白いリボンをつけて、かすかに香水の匂いをただよわせてすれちがってゆきました。

 日ぐれが近づき、ひんやりとした風が、寒く感じられるまで私はネヴァ川のほとりを歩いておりました。ひとこともロシア語を知らないのに、人のいい市民たちの親切だけをたよりに、こうして生まれてはじめての街をさまよっていることが、何だか身ぶるいするほど、しあわせでした。」


宙組『アナスタシア』-「ネヴァ河の流れ」
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/323ecd86fb60d3f228dd78d5470956d4








なつかしの雪組『虹のナターシャ』『ラ・ジュネス』
https://blog.goo.ne.jp/ahanben1339/e/848ee7e253a18603290893ee10b407a1



(画像は「キエフ老人たち」、ちひろ美術館公式ツィッターよりお借りしています。)