ここにきて今までの疲れがどっと出てきているようです。その上になんとかしていくしかないとがんばってしまっているので疲れの上塗り。そのくせ夜になると気持ちが落ち着かず、翌日早起きして行くところもないので夜更かしの癖が抜けきらず、結果的に今朝は10時半ぐらいまで起きることができませんでした。13時30分から都心で認知行動療法のワークショップに参加する予定だったので、急いで身支度をすると、朝食ではなく昼食をレトルトカレーですませて出かけました。なんとも情けない生活。世の中はもうおせち料理だの、クリスマスコンサートの予約だのと、動いているんですね。自分ひとり先の見通しがつけられないまま、社会から孤立して取り残されている孤独との闘いの毎日です。出かける先がないと、近所にぶらっとよれる所がないし、知りあいもいないので3日間ぐらいほとんど誰とも話すことなくすぎていくとか、すごく苦しいです。
そして今日のワークショップで、人が話す「会社で、会社で・・・」という言葉に傷ついている自分がいることに気がつきました。混乱による傷は自覚しているよりも深いようです。消えない傷が残ってしまいました。でも、今日もそうでしたが、死別体験者のためのワークショップだったので、時間の都合もありますが混乱のことをちゃんと話せる場ではなかったのでやめておけばよかったかなと思ったりしています。カウンセリングを勉強していた時も、認知行動療法には違和感を感じてなじめなかったし、社会復帰したいとがんばってすごくエネルギーを消耗しているので、昨日キャンセルしようかどうしようかと迷いました。電車賃もかかるし。でも行かないとほんとに5日間ぐらい人と話すことなく過ぎていってしまうことになるので、せっかく申し込んだしと思っていきました。
そこで、つかった物を元に戻さない人がいた時どうしますか?という課題に対する気持ち、考え方、行動をグループに分かれてシェアし合う時、私が入ったグループにたまたま具体的に「会社でみんなだらしない、会社でのことを想定しました」と発表された女性がいらっしゃいました。皆さん私と同じようにたぶん全員自死遺族というお立場の方々だったようです。誰も私がそんな言葉に傷つくなんて思って発言してはいないです。むしろ私の経験がかなり特殊で普通にはありえないことなので勝手に私が傷ついていただけです。
私もかつては、「会社、会社」いつも「忙しい、忙しい、大変、大変」を連発していました。自覚がなかっただけで人を傷つけていた場面がもしかしたらあったのかもしれません。こんなことで傷ついている自分がいることに驚きました。人はどんな経験をしているかわからないものです。ただ、自分の体験から選んで気持ち、考え方、行動を書いて発表する時に、死別体験とは限らないと言っても、混乱の話はどうしてもややこしくて気持ちを話す前の事実関係の説明が長くなってしまうので、「ちょっと待って」となってしまいました。三週間ほど前のグループでもそうでした。聞いている方は何言っているかわからないし長くて退屈なばっかりで場にもそぐわないんですよね。仕方ないです。そういう内容の話なので。ヘンな言い方だけれど、家族との死別体験、自責の念が長く続いたことを話した方がよっぽどわかりやすくて楽なんです。でも私が今一番抱えている苦しい思いは死別体験ではないんです。私の中では、妹がずっと背中を押し続けてくれているからこうしてここまでがんばってきたし、なんとかしようとすることができているので、家族との死別と日中の居場所の喪失という二つの体験はちゃんとつながっています。でもそれを安心してゆっくりと話せる場は社会の中にほとんどないんです。お寺さんのグリーフケアで、自分を語りましょうをテーマに、住職に事前に了解ももらった上で二回話す場をいただきました。それでもスタッフにここはグリーフケアの場なので・・・と言われてしまったりとかあります。分かち合いの会に行けば当然自死とは関係ない話なのでテーマが違うから話せません。
私の体験と気持ちに共感してくださっている記者さんとか同じ就労形態の人とか、私の体験と気持ちを理解しようしてくれる友人には話せます。納得できていない気持ちを理解しようとしてもらえます。ほんとに社会の中にほとんどないんです。こんな特殊な経験を安心して共有できる場が。来週の水曜日にようやく同じような混乱の体験をした人たちが集まる場に招待していただけたので、少し遠いですが行ってみるつもりです。
乾燥してきたせいか喉が痛くて外に出る時はマスクしていないと咳が止まらなくなります。空調の効いている電車の中とかカフェとか大変です。かかりつけの内科医で咳止めの薬を出してもらっていることもあって眠くてたまりません。過去の手帳からさらけ出して書きたかったですがおそくなってきたのでまた明日にします。今の私の怒り、悔しさ、苦しさは自然な感情で無理に押し込めたり、ないもののようにしようとは全く思いません。これから先時間の経過とともに軽くなっていくことはあるだろうけれど事実は事実なので消えない傷は残りました。そんなことにあらためて気づいた一日となりました。無理に消すことなんかしません。
写真は秋のプリンス・エドワード島から。2号線沿いの車窓からの景色が続いています。
そして今日のワークショップで、人が話す「会社で、会社で・・・」という言葉に傷ついている自分がいることに気がつきました。混乱による傷は自覚しているよりも深いようです。消えない傷が残ってしまいました。でも、今日もそうでしたが、死別体験者のためのワークショップだったので、時間の都合もありますが混乱のことをちゃんと話せる場ではなかったのでやめておけばよかったかなと思ったりしています。カウンセリングを勉強していた時も、認知行動療法には違和感を感じてなじめなかったし、社会復帰したいとがんばってすごくエネルギーを消耗しているので、昨日キャンセルしようかどうしようかと迷いました。電車賃もかかるし。でも行かないとほんとに5日間ぐらい人と話すことなく過ぎていってしまうことになるので、せっかく申し込んだしと思っていきました。
そこで、つかった物を元に戻さない人がいた時どうしますか?という課題に対する気持ち、考え方、行動をグループに分かれてシェアし合う時、私が入ったグループにたまたま具体的に「会社でみんなだらしない、会社でのことを想定しました」と発表された女性がいらっしゃいました。皆さん私と同じようにたぶん全員自死遺族というお立場の方々だったようです。誰も私がそんな言葉に傷つくなんて思って発言してはいないです。むしろ私の経験がかなり特殊で普通にはありえないことなので勝手に私が傷ついていただけです。
私もかつては、「会社、会社」いつも「忙しい、忙しい、大変、大変」を連発していました。自覚がなかっただけで人を傷つけていた場面がもしかしたらあったのかもしれません。こんなことで傷ついている自分がいることに驚きました。人はどんな経験をしているかわからないものです。ただ、自分の体験から選んで気持ち、考え方、行動を書いて発表する時に、死別体験とは限らないと言っても、混乱の話はどうしてもややこしくて気持ちを話す前の事実関係の説明が長くなってしまうので、「ちょっと待って」となってしまいました。三週間ほど前のグループでもそうでした。聞いている方は何言っているかわからないし長くて退屈なばっかりで場にもそぐわないんですよね。仕方ないです。そういう内容の話なので。ヘンな言い方だけれど、家族との死別体験、自責の念が長く続いたことを話した方がよっぽどわかりやすくて楽なんです。でも私が今一番抱えている苦しい思いは死別体験ではないんです。私の中では、妹がずっと背中を押し続けてくれているからこうしてここまでがんばってきたし、なんとかしようとすることができているので、家族との死別と日中の居場所の喪失という二つの体験はちゃんとつながっています。でもそれを安心してゆっくりと話せる場は社会の中にほとんどないんです。お寺さんのグリーフケアで、自分を語りましょうをテーマに、住職に事前に了解ももらった上で二回話す場をいただきました。それでもスタッフにここはグリーフケアの場なので・・・と言われてしまったりとかあります。分かち合いの会に行けば当然自死とは関係ない話なのでテーマが違うから話せません。
私の体験と気持ちに共感してくださっている記者さんとか同じ就労形態の人とか、私の体験と気持ちを理解しようしてくれる友人には話せます。納得できていない気持ちを理解しようとしてもらえます。ほんとに社会の中にほとんどないんです。こんな特殊な経験を安心して共有できる場が。来週の水曜日にようやく同じような混乱の体験をした人たちが集まる場に招待していただけたので、少し遠いですが行ってみるつもりです。
乾燥してきたせいか喉が痛くて外に出る時はマスクしていないと咳が止まらなくなります。空調の効いている電車の中とかカフェとか大変です。かかりつけの内科医で咳止めの薬を出してもらっていることもあって眠くてたまりません。過去の手帳からさらけ出して書きたかったですがおそくなってきたのでまた明日にします。今の私の怒り、悔しさ、苦しさは自然な感情で無理に押し込めたり、ないもののようにしようとは全く思いません。これから先時間の経過とともに軽くなっていくことはあるだろうけれど事実は事実なので消えない傷は残りました。そんなことにあらためて気づいた一日となりました。無理に消すことなんかしません。
写真は秋のプリンス・エドワード島から。2号線沿いの車窓からの景色が続いています。