「今でこそ生きるも死ぬも自由業、売文稼業を生業にし、所得税を青色申告している僕ですが、これでもかつて就職活動をしたことがあります。
溯ること6年前、結局は中退してしまった大学の5年生だった僕は八方手を尽くして単位をかき集め、帽子から鳩を出す奇術の如き手際で卒業見込みを出し、伊勢丹かなんかでおよそ似合わない濃紺のスーツを買い、苦労してネクタイを結び、写真館で顔をひきつらせて写真を撮り、履歴書をかきなぐっては勇猛果敢に就職活動を展開した。
もともと僕が大学に進んだのも、働くことをなるべく先に延ばそうという理由からだった。
おまけに計画性というものが欠如した人間だったため、その年の夏になるまで就職について考えたことはなかった。
今より遥かにのどかな時代だったとはいえ、友達が春先から企業に資料を請求したり、英単語を覚えなおしたり、OBを訪問して食事をたかったり、と活発に準備をしているのを見ても、まあなんとかなるだろう、とたかをくくっていた。
当時はバブル経済真っ盛りで、企業の人材採用枠は天井知らずの地価や株価と連動して増えていった。就職は完全な売手市場であり、どこで聞きつけたのか、流し綱方式で僕のような社会参加意欲の希薄な学生のところにも、ブルドーザーで整理をつけるより他ないくらいの量の会社資料が送られ、小社や弊社の面接を受けてみませんかという勧誘の電話が鳴らない日はなかった。
もう少し出来の良い学生となると、十社や二十社から内定通知をもらって、一体俺はどこに入ればいいのうだろう、と本気で途方に暮れていた。
(略)
そうした状況は僕のような学生を確実に増長させる。世間を舐めてかかるようになる。
部屋の一隅を占拠している資料の山を見て、世の中には星の数ほど会社があって、どうやら僕を必要としている人事部もあるらしい、と安心するのは当然のことだった。就職は一向に火急の問題にならなかった。
何より自分がどんな仕事をしてみたいのか皆目解らなかった。(略)
人間一人生きていくのに必要最低限の糧は勝手気儘なアルバイトで十分賄えるし、終身雇用制が徐々に崩れ出しているとはいえ、敢えて会社構成員の鉄鎖(そう思っていた)を自分の足首に嵌めなければならない積極的な理由が見つからなかった。
夏休みの声を聞く土壇場になって、僕が照準を絞ったのはマスコミだった。大手出社社を主戦場にして、遅まきながら就職戦線に参戦した。
志望動機は単純明快、本を読むのが好きだから、だった。外国文学を読み散らかしていたので、ひいきにしている南米や東欧のマイナーな作家の小説を出版できたら楽しいだろうな、と考えた。趣味の延長線上でしか職業を想定できなかった。(略)
他の業種が春先から入社試験を開始し、梅雨明け前に早くも人員募集が一段落しているのと違い、マスコミ各社はおおむね7月末から始まるゆっくりした採用カレンダーで動いていた。時間的に間に合ったことも僕が志望した理由だった。
もちろん、一部のマスコミでは、青田は盛んに刈られていた。作文の添削や模擬面接を行い、就職活動の指導をしていやろうという親切な名目で「就職セミナー」なるものがあちこちで開かれ、学生を呼び集めては、実質的な入社試験として機能していた。
某テレビ局などは五月の時点で定員を満たし、八月の本試験は他社に流れた内定者の穴埋めに過ぎないという噂がまことしなやかに流れていた。(略)
ただし、本試験とは別に採用を実施していることを企業は公にしていないので、学生の側は耐えず目配りし、耳をそばだてていなけれならない緊張感を強いられる。(略)
幸い、僕は大学で文芸サークルに入っていて、周囲にはマスコミ志望、出版社を受験する人間がたくさんいて、自分の足で動かなくても、試験日程や採用計画の情報を集めることができた。
しかし、共闘を求めてみると、彼らは呑気な僕を腹の底から嘲笑した。マスコミ就職を他の企業と同じに考えていると、お前は来春、職安の列に並ぶ羽目になると脅かされた。
右肩上がり一直線のバブル経済に浮かれ、深刻な人手不足に苦悶している世間の売手市場とは別の惑星にマスコミ就職は存在し、大変な狭き門なのだという。
大手マスコミの人事課が試験日程をのんびりと組んでいるのは焦る必要がないからで、後から網を投げても、学生が大群となって飛び込んでくるのだった。
有名大手となれば、日本全国から数千人の学生が押し寄せ、採用人員は二、三十人しかないという。競争率は優に百倍を越える。
百倍という数字は僕を圧倒した。
百倍という数字を実感したのは、テレビ局を受験した時だった。
一次面接に三日間をかけ、受験者の総数およそ七千名、採用枠は技術系社員を含めてたったの三十人前後。競争率は二百五十倍だった。この倍率を突きつけられ、気力の減退しない人間がいたら、日本代表になれる優秀な学生が重度のパラノイアだろう。
面接会場の光景は物凄いものだった。
広大なスタジオ内に学生を三人ずつ面接するブースを何十も設け、テレビ局の社員が総出で、一組十分間の質疑応答でできぱきと処理していた。フル・オートメーションの製品検査体制が完成していた。面接の順番を待つ受験生はケージの中のブロイラーだ。
こういう騒然とした面接会場で、疲れ切った試験官に質問され、
「よく観るテレビ番組は落語とボクシング中継ですが、どっちも深夜にしかやらないので、寝不足になって困ります」
としか自己アピールできなかった学生が不合格になったのは言うまでもない。
こりゃ大変なことになった、とさすがの僕も危機感を持った。初めて不合格通知をもらって、僕は自分の将来にじめじめとした暗雲が立ちこめているのを感じた。
(略)
テレビ局で失敗した後、僕は出版社のみに絞って履歴書を提出することにしたが、その後も連戦連敗だった。
一次の筆記試験であっと言う間もなく撃退された会社もあれば、嘘発見器がショートしそうな自己アピール、鼻毛を読みまくった貴社の志望動機、歯が浮きまくって歯槽膿漏を併発するお世辞、社交辞令を並べ立てた挙げ句、不採用になった会社もある。
一次面接、二次面接、馬脚を表すことなく乗り越えていって、最終の役員面接に到達し、本の奥付で名前を見たことのある社長以下重役お歴々の前に引っ張り出され、緊張でこちこちになり、厳かにモンドが閉じられた会社もあった。
残念ながらご縁がありませんでした、と告げる不採用通知の常套句は今も癒しがたいトラウマとして僕の心に残っている。
実際、悲惨な体験だった。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行より)
溯ること6年前、結局は中退してしまった大学の5年生だった僕は八方手を尽くして単位をかき集め、帽子から鳩を出す奇術の如き手際で卒業見込みを出し、伊勢丹かなんかでおよそ似合わない濃紺のスーツを買い、苦労してネクタイを結び、写真館で顔をひきつらせて写真を撮り、履歴書をかきなぐっては勇猛果敢に就職活動を展開した。
もともと僕が大学に進んだのも、働くことをなるべく先に延ばそうという理由からだった。
おまけに計画性というものが欠如した人間だったため、その年の夏になるまで就職について考えたことはなかった。
今より遥かにのどかな時代だったとはいえ、友達が春先から企業に資料を請求したり、英単語を覚えなおしたり、OBを訪問して食事をたかったり、と活発に準備をしているのを見ても、まあなんとかなるだろう、とたかをくくっていた。
当時はバブル経済真っ盛りで、企業の人材採用枠は天井知らずの地価や株価と連動して増えていった。就職は完全な売手市場であり、どこで聞きつけたのか、流し綱方式で僕のような社会参加意欲の希薄な学生のところにも、ブルドーザーで整理をつけるより他ないくらいの量の会社資料が送られ、小社や弊社の面接を受けてみませんかという勧誘の電話が鳴らない日はなかった。
もう少し出来の良い学生となると、十社や二十社から内定通知をもらって、一体俺はどこに入ればいいのうだろう、と本気で途方に暮れていた。
(略)
そうした状況は僕のような学生を確実に増長させる。世間を舐めてかかるようになる。
部屋の一隅を占拠している資料の山を見て、世の中には星の数ほど会社があって、どうやら僕を必要としている人事部もあるらしい、と安心するのは当然のことだった。就職は一向に火急の問題にならなかった。
何より自分がどんな仕事をしてみたいのか皆目解らなかった。(略)
人間一人生きていくのに必要最低限の糧は勝手気儘なアルバイトで十分賄えるし、終身雇用制が徐々に崩れ出しているとはいえ、敢えて会社構成員の鉄鎖(そう思っていた)を自分の足首に嵌めなければならない積極的な理由が見つからなかった。
夏休みの声を聞く土壇場になって、僕が照準を絞ったのはマスコミだった。大手出社社を主戦場にして、遅まきながら就職戦線に参戦した。
志望動機は単純明快、本を読むのが好きだから、だった。外国文学を読み散らかしていたので、ひいきにしている南米や東欧のマイナーな作家の小説を出版できたら楽しいだろうな、と考えた。趣味の延長線上でしか職業を想定できなかった。(略)
他の業種が春先から入社試験を開始し、梅雨明け前に早くも人員募集が一段落しているのと違い、マスコミ各社はおおむね7月末から始まるゆっくりした採用カレンダーで動いていた。時間的に間に合ったことも僕が志望した理由だった。
もちろん、一部のマスコミでは、青田は盛んに刈られていた。作文の添削や模擬面接を行い、就職活動の指導をしていやろうという親切な名目で「就職セミナー」なるものがあちこちで開かれ、学生を呼び集めては、実質的な入社試験として機能していた。
某テレビ局などは五月の時点で定員を満たし、八月の本試験は他社に流れた内定者の穴埋めに過ぎないという噂がまことしなやかに流れていた。(略)
ただし、本試験とは別に採用を実施していることを企業は公にしていないので、学生の側は耐えず目配りし、耳をそばだてていなけれならない緊張感を強いられる。(略)
幸い、僕は大学で文芸サークルに入っていて、周囲にはマスコミ志望、出版社を受験する人間がたくさんいて、自分の足で動かなくても、試験日程や採用計画の情報を集めることができた。
しかし、共闘を求めてみると、彼らは呑気な僕を腹の底から嘲笑した。マスコミ就職を他の企業と同じに考えていると、お前は来春、職安の列に並ぶ羽目になると脅かされた。
右肩上がり一直線のバブル経済に浮かれ、深刻な人手不足に苦悶している世間の売手市場とは別の惑星にマスコミ就職は存在し、大変な狭き門なのだという。
大手マスコミの人事課が試験日程をのんびりと組んでいるのは焦る必要がないからで、後から網を投げても、学生が大群となって飛び込んでくるのだった。
有名大手となれば、日本全国から数千人の学生が押し寄せ、採用人員は二、三十人しかないという。競争率は優に百倍を越える。
百倍という数字は僕を圧倒した。
百倍という数字を実感したのは、テレビ局を受験した時だった。
一次面接に三日間をかけ、受験者の総数およそ七千名、採用枠は技術系社員を含めてたったの三十人前後。競争率は二百五十倍だった。この倍率を突きつけられ、気力の減退しない人間がいたら、日本代表になれる優秀な学生が重度のパラノイアだろう。
面接会場の光景は物凄いものだった。
広大なスタジオ内に学生を三人ずつ面接するブースを何十も設け、テレビ局の社員が総出で、一組十分間の質疑応答でできぱきと処理していた。フル・オートメーションの製品検査体制が完成していた。面接の順番を待つ受験生はケージの中のブロイラーだ。
こういう騒然とした面接会場で、疲れ切った試験官に質問され、
「よく観るテレビ番組は落語とボクシング中継ですが、どっちも深夜にしかやらないので、寝不足になって困ります」
としか自己アピールできなかった学生が不合格になったのは言うまでもない。
こりゃ大変なことになった、とさすがの僕も危機感を持った。初めて不合格通知をもらって、僕は自分の将来にじめじめとした暗雲が立ちこめているのを感じた。
(略)
テレビ局で失敗した後、僕は出版社のみに絞って履歴書を提出することにしたが、その後も連戦連敗だった。
一次の筆記試験であっと言う間もなく撃退された会社もあれば、嘘発見器がショートしそうな自己アピール、鼻毛を読みまくった貴社の志望動機、歯が浮きまくって歯槽膿漏を併発するお世辞、社交辞令を並べ立てた挙げ句、不採用になった会社もある。
一次面接、二次面接、馬脚を表すことなく乗り越えていって、最終の役員面接に到達し、本の奥付で名前を見たことのある社長以下重役お歴々の前に引っ張り出され、緊張でこちこちになり、厳かにモンドが閉じられた会社もあった。
残念ながらご縁がありませんでした、と告げる不採用通知の常套句は今も癒しがたいトラウマとして僕の心に残っている。
実際、悲惨な体験だった。」
(『就職・就社の構造』岩波書店、1994年3月25日発行より)
就職・就社の構造 (日本会社原論 4) | |
クリエーター情報なし | |
岩波書店 |