【訃報】:石原慎太郎さん「暇と命があったらな」20年東京五輪で寄稿依頼にニヤリ
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【訃報】:石原慎太郎さん「暇と命があったらな」20年東京五輪で寄稿依頼にニヤリ
作家の石原さんに敬意を表し、先生とお呼びしていた。最後にお会いしたのは、2019年7月16日。翌年に迫った東京五輪に向けたインタビューで、五輪担当の同僚記者と2人で、招致の言い出しっぺだった先生のご自宅にうかがった。1964年東京五輪の開閉会式で、日刊スポーツに寄稿してくれていた。帰りがけ、20年東京五輪での寄稿を頼んだ。答えは「暇と命があったら」。そして、いたずらっぽく、ニヤッとしてみせた。
石原慎太郎さん(2014年12月16日)
最後に取材したのは、19年10月7日。前日に亡くなった金田正一さんと親交のあった先生に、お電話で金田さんの思い出を聴いた。「残念だが、仕方ないよ。でも彼のおかげでプロ野球は華やかだった」。その後も、インタビューをお願いしていたが、実現せず。残念でならない。
言葉に力のある人だった。時に舌禍も呼んだ。政治家としての賛否も分かれ、人によって、好き嫌いはかなりあるタイプにあたるだろう。都知事時代の政策を批判する記事も書かせてもらった。それでも、どんな人物なのか、強くひき付けられる人だった。
父石原慎太郎氏が逝去し、報道陣に対応する右から長男石原伸晃氏、次男良純氏、三男宏高氏、四男延啓氏(撮影・野上伸悟)
長男伸晃氏、次男良純、三男宏高氏、四男延啓氏。4人の息子たち、7人の孫がいる。しばしば「親ばか」と批判され、また「親ばか」を自認した。69年の「スパルタ教育」という本で「子どもとスポーツをするときは、徹底的に勝つ」などと書きつつ、すぐに実際はチェスで4兄弟の連合軍に敗れ、喜ぶ声を聞きたいとも明かしている。古くから先生を知る人たちに聞いたことがある。「息子が生まれて、かわいいんだけど、かわいがり方を知らないから、子どもの腕をひねってみたり。そんなかわいがり方だったけど、愛情は深かった」。
戦後70年の15年には戦中、戦後の話も聞いた。折に触れ、取材に応じてもらった。いつも緊張する。好きだというスイカをお土産にしても「なんでスイカ持ってきたんだ」といきなり怒られたりもした。
14年12月13日。国分寺市のビルの一室で行われた次世代の党の候補者の個人演説会が、政治家としての最後の演説だったと思う。演説後、石原氏と秘書が乗ったエレベーターに滑り込み、質問を続けた。乗り合わせた小さい女の子と母親は、記者の形相に驚いた様子。石原氏は記者への答えはそこそこに、女の子に「かわいいね。何歳ですか」と、優しい表情で語りかけた。こわもての印象ばかりだったが、こまやかな気遣いが強く印象に残った。
最後のインタビューの時、スポーツの魅力を聞いた。「肉体の酷使だよ」と即答した。やっぱり、あの笑顔だった。【清水 優】
元稿:日刊スポーツ社 主要ニュース 社会 【話題・訃報】 2022年02月02日 05:00:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。