[※ ↑ 【「空からの写真は一目瞭然」埋め立て進む辺野古の海 ドローンで監視する技術者の思い】(沖縄タイムス21.12.14、https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/879026)]
(2022年01月04日[火])
沖縄タイムスの記事【「基地由来のオミクロン株、かなり速いスピードで地域に拡大」沖縄3カ月ぶり100人超感染】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/889064)によると、《沖縄県は3日、新たに130人の新型コロナウイルス感染を確認したと発表した。1日当たりの新規感染者数が100人を超えるのは、115人だった昨年9月25日以来、約3カ月ぶり。先週月曜日の5人から26倍増で、年明け3日間の合計は233人となり、爆発的な増加となっている。…県の糸数公医療技監は、米軍基地と無関係のオミクロン株陽性者が増えているとして、「基地由来のオミクロン株がかなり速いスピードで地域に拡大している」と話し、市中感染が広がっているとの認識を示した》。
琉球新報の記事【全国最多…沖縄でコロナ130人感染 前週比26倍 オミクロン株が急拡大】(https://ryukyushimpo.jp/news/entry-1448856.html?utm_source=ryukyushinpo&utm_medium=referral&utm_campaign=carousel)によると、《オミクロン株感染の疑いがある人も含めると、合計332人に上る。糸数氏は「米軍由来のオミクロン株が、速いペースで地域に拡大している」と警戒感を示した。(知念征尚)》。
とうとう、6日(木) 時点では981人と、1千人間近だ。もちろん過去最多。岩国や三沢でも同様なことが起きている模様…。
「思いやり」した末の非道…番犬様には《水際作戦》関係なし…またしても番犬様が《震源地》化。
『●番犬様が《震源地》化…《ところで外務省沖縄事務所と沖縄防衛局は
何をしているのだろう》、そして、アベ様や最低の官房長官らは何を?』
琉球新報のコラム【<金口木舌>基地と宣撫工作】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1448854.html)によると、《▼基地との「共存」を強いられた沖縄。「銃剣とブルドーザー」で接収された軍用地を巡る56年の島ぐるみ闘争。95年の少女乱暴事件に抗議する県民総決起大会。沖縄は不合理にあらがい続けた ▼コロナ感染再拡大後も米軍は詳細を説明せず、米兵は基地の街をマスクをせず闊歩(かっぽ)している。これが復帰から半世紀の沖縄。だが、あらがった歴史をしっかり受け継ぎたい》。
琉球新報の【<社説>新年を迎えて 民意と自己決定権貫こう】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1447745.html)によると、《2022年を迎えた。今年は沖縄の施政権返還(日本復帰)から50年の節目に当たる。半世紀前に琉球政府が日本政府と国会に求めたのは、自己決定権の確立であり、民意を尊重することであった》。
『●今月で《25年…国策に翻弄され続けた四半世紀》…米軍普天間
飛行場は返還されず、一方、辺野古は破壊され続け、単なる破壊「損」』
『●《1995年9月4日…あれから25年…沖縄の「負担軽減」といい
ながら、日本政府は事件が起こった沖縄島北部東海岸に新たな基地…》』
《日本への施政権返還後に発生した米軍関係者の犯罪は昨年末までに
県警が摘発しただけでも6029件に上る。うち580件が殺人や
性的暴行、強盗などの凶悪犯だ。米軍人、軍属の犯罪はいまだに
根絶には至っていない。最近の事件でも2016年に元海兵隊員で
米軍属の男が女性を殺害。昨年4月には海兵隊所属の海軍兵が女性を
殺害した。こうした米軍関係者の犯罪は起訴に至らなければ、容疑者の
身柄を米側は日本の警察に引き渡さなくてもいい。そう定めるのが
地位協定だ。少女乱暴事件後の日米合同委員会では地位協定の
「運用改善」が合意されたが、「改善」は法的拘束力がない
字句修正に終始したと言うほかない》
『●来年の「5・15」で50年…屋良朝苗氏は「基地のない平和の島としての
復帰」を望んだ…モノクロから「天然色」に変わっても現実は…』
「半世紀経っても、《屋良朝苗氏は「基地のない平和の島としての復帰」
を望んだ…モノクロから「天然色」に変わっても現実は…》何も
変わらない沖縄。《施政権返還後も沖縄が抱える最大の課題は
基地問題だ。日本政府が沖縄に米軍基地の負担を押し付ける結果、
米兵が引き起こす事件や事故、騒音被害、環境汚染、人権侵害が続く。
沖縄に矛盾をしわ寄せする仕組みは「構造的差別」に他ならない》。
特に、元最低の官房長官=現首相の沖縄イジメは目を覆うばかりだ。
典型が高江や辺野古。」
『●《権力欲に駆られた政治家》アベ様やカースーオジサンによる《含羞》
なき、《廉恥》欠く、破廉恥な政権が8年8カ月も続いてしまった…』
《来年は沖縄の施政権返還(日本復帰)から50年の節目を迎える。
50年前の「沖縄国会」で、衆議院は在沖米軍基地の縮小決議を
全会一致で決議したが、いまだに実現していない。岸田首相に
国会決議を実現し、繰り返し民意が示された名護市辺野古の
新基地建設見直しを求める》
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【https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1448854.html】
<金口木舌>基地と宣撫工作
2022年1月4日 05:00
金口木舌 宜野座高校 島ぐるみ闘争
1962年の宜野座高校の卒業アルバムに、校庭を重機でならす米兵の写真がある。写真説明は「仕事熱心なアメリカさん」
▼「あの時代ならでは」と振り返るのは同校出身で、元大分県弁護士会会長の岡村正淳さん。野球部を立ち上げるため役所や米軍キャンプ・ハンセンに協力をお願いしたら、米軍は資金援助こそしなかったがグラウンドの整地を買って出たという
▼米国民政府(USCAR)は復帰前、基地の安定的な運用のため学校に楽器やスポーツ用品を寄付したり、運動場のフェンスを整備したりした。米軍が沖縄に駐留し続けるための、あからさまな宣撫工作だった
▼基地との「共存」を強いられた沖縄。「銃剣とブルドーザー」で接収された軍用地を巡る56年の島ぐるみ闘争。95年の少女乱暴事件に抗議する県民総決起大会。沖縄は不合理にあらがい続けた
▼コロナ感染再拡大後も米軍は詳細を説明せず、米兵は基地の街をマスクをせず闊歩(かっぽ)している。これが復帰から半世紀の沖縄。だが、あらがった歴史をしっかり受け継ぎたい。
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【https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-1447745.html】
<社説>新年を迎えて 民意と自己決定権貫こう
2022年1月1日 05:00
2022年を迎えた。今年は沖縄の施政権返還(日本復帰)から50年の節目に当たる。半世紀前に琉球政府が日本政府と国会に求めたのは、自己決定権の確立であり、民意を尊重することであった。
県民が求めた新生沖縄県は復帰によって実現しただろうか。残念ながら「否」であろう。では先達が示した原点に立ち返り、その意思を実現しなければなるまい。
思い起こすのは、復帰後の沖縄の将来像を示した「屋良建議書」である。建議書の「はじめに」は、沖縄戦や米国統治など日米両政府の「犠牲」になり「手段」にされた構図からの脱却を強調。基地撤去を前提に日本国憲法下で基本的人権が保障され、県民本位の経済開発など自己決定権の確立を基本理念に据えた。中央と地方は対等であるという、後の地方分権一括法(2000年)を先取りしている。
ところが、米国は日本に沖縄の施政権を返したが基地の自由使用権は手放さなかった。このため復帰前と変わらず米兵による事件・事故や、環境汚染などの基地問題が繰り返されている。
一方、日本政府は安全保障と外交の政策決定について国家の専権事項と主張し沖縄側を排除してきた。不平等な日米地位協定の抜本的な見直しを拒み、名護市辺野古の新基地建設に反対する沖縄の民意に向き合おうとしない。
日米は沖縄の地理的優位性を強調する。在沖海兵隊幹部は、沖縄を起点に半径2000キロの円を示してこう説明する。「世界最大の武力が集中し、特に中国は軍事力を増大している。沖縄の基地の存在が抑止力になっている」
視点を変えてみよう。国土事務次官を務め戦後の全国総合開発計画を牽引(けんいん)した下河辺淳という人物がいた。屋良主席時代から沖縄振興計画に関わり、米兵による少女乱暴事件をきっかけに県民の怒りが爆発し大田県政と橋本政権が厳しく対立したとき、両者を仲介した。その時、下河辺氏は「沖縄3000キロ構想」を提言した。
米軍と同様に沖縄を起点に半径3000キロの円を描き、軍事面の安全保障に偏らず、経済交流・文化学術交流を通して域内の総合的な安全保障につなげようという構想だ。
下河辺氏の構想は、沖縄の民意を尊重して、米軍普天間飛行場を閉鎖し辺野古新基地計画を撤回した上で、国連平和機関を誘致することにもつながる。そのほうが「基地のない平和の島」(「屋良建議書」)に近づくだろう。
問題は沖縄の主体性だ。この50年間、あらかじめ基地問題の解決を排除した沖縄振興計画、他県と異なる一括計上方式による県予算編成が、自立の気構えと県の政策立案能力を弱体化させていないか。
玉城デニー知事は復帰50年式典で新たな建議を発信する意向だが、むしろ未達の「屋良建議書」に一歩も二歩も近づくことこそ優先すべきだ。
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阿部岳記者による、沖縄タイムスのコラム【[大弦小弦]八紘一宇の塔】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/459522)。
同紙の【社説 [ 昭和天皇「拝謁記」] 今に続く「捨て石」発想】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460401)。
琉球新報の【<社説>昭和天皇「拝謁記」 戦後責任も検証が必要だ】(https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html)。
《▼よく見ると、土台部分には「南京」や「河北省」の文字がある。礎石は侵略した地域からも集められた。中国の博物館が4年前に返還を求めたものの、管理する宮崎県は「塔の取り壊しはできない」と断っている ▼実は、八紘一宇の文字は敗戦後、米軍の指摘を受けていったん削られた。ところが65年にはもう地元経済界主導で復元された。名前だけは「平和の塔」と呼び換えられた》。
《改憲による再軍備の必要を主張…。…資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある》。
《本土で米軍基地反対闘争が起きていた1953年、昭和天皇は「全体の為(ため)ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる…」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(引用部は一部原文のまま)などと述べていた。 昭和天皇が47年、米軍による沖縄の長期占領を望むと米国側に伝えた「天皇メッセージ」の根本にある考え方と言っていいだろう。沖縄を巡り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある》。
『●類は「ト」を呼ぶ、朱に交われば「ア」になる
~三原じゅん子議員「八紘一宇」予算委発言~』
琉球新報のコラム【<金口木舌>「一部の犠牲」はやむを得ないか】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-975540.html)によると、《昭和天皇は「全体の為(ため)ニ之(これ)がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる」と述べ、代わりに補償するしかないと論じている…▼75年の訪米後の会見で昭和天皇は、広島への原爆投下を遺憾としつつ「戦争中であることだから、どうも広島市民に対しては気の毒だが、やむを得ない」と答えた…だが一連の言葉からは「一部の犠牲はやむを得ない」との観念は共通して持ち続けていたことが分かる》。
《戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した》。沖縄イジメの原点。
《沖縄を巡り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」》が。「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」…それを沖縄に押し付けた、その原点だ。
「八紘一宇の塔」(「平和の塔」)。「忠魂碑」や「教育塔」が思い出された。
『●『反忠 ~神坂哲の72万字~』読了(1/4)』
『●『反忠 ~神坂哲の72万字~』読了(2/4)』
『●『反忠 ~神坂哲の72万字~』読了(3/4)』
『●『反忠 ~神坂哲の72万字~』読了(4/4)』
『●教育壊革!? ~忠魂碑と教育塔~』
『●「敗戦特集」 『週刊金曜日』
(2014年8月8日・15日合併号、1003号)についてのつぶやき』
「境分万純氏【任官拒否から20年神坂直樹さんに聞く
「裁判官になれない理由」を問いつづけ】、「原体験としての
箕面忠魂碑違憲訴訟…父・哲(さとし)さんと母・玲子さん…父の後を
継ぐように、進行中の訴訟に原告補助参加人として加わった」。
『ドキュメント 憲法を獲得する人々』…。「違憲判決を出したがために、
抜き身の日本刀をもった男に襲われそうになった古崎慶長裁判長の
存在は、神坂さんが裁判官を志望する強い動機の一つになった」…。
本誌に連載された田中伸尚さんの名著『反忠 ~神坂哲の72万字~』」
『●「教育再生」という名の教育破壊…「子どもから変えていこう
という動きは実に悪賢い」(小澤俊夫さん)』
「教科書検定や「ト」な歴史教科書の採択強要 ハタやウタの強制、
道徳の教科化(文科省道徳教育教材『わたしたちの道徳』)、
教育勅語の復活、古くは忠魂碑訴訟…現代の教育破壊は着実に
進む…。大変に憂慮すべき現状なニッポンの教育環境」
「《戦争屋》のアベ様らには、侵略戦争への反省も無く、壊憲して再び
「戦争のできる国」へ…、《自分たちの加害をはっきり残し
『もう絶対にやらない』と世界に約束している》ドイツと彼我の差。
そして今、「教育再生」という名の教育破壊が進む。札束で頬を
打つように、最高学府の研究・教育にまで侵食」
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【https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/459522】
[大弦小弦]八紘一宇の塔
2019年8月19日 07:25
今年の8月15日は宮崎市にいて「八紘一宇(はっこういちう)の塔」を訪ねた。仰ぎ見る36メートルの存在感。何より、侵略戦争のスローガンが21世紀の空に突き立っていることに圧倒される
▼刻まれた八紘一宇は「世界を一つの家にする」意味。神武天皇の伝説に由来し、宮崎はゆかりの地とされる。塔は太平洋戦争を始める前年の1940年に建てられ、日本主導の世界秩序実現を宣伝した
▼よく見ると、土台部分には「南京」や「河北省」の文字がある。礎石は侵略した地域からも集められた。中国の博物館が4年前に返還を求めたものの、管理する宮崎県は「塔の取り壊しはできない」と断っている
▼実は、八紘一宇の文字は敗戦後、米軍の指摘を受けていったん削られた。ところが65年にはもう地元経済界主導で復元された。名前だけは「平和の塔」と呼び換えられた
▼塔の姿が、日本と二重写しになる。大日本帝国は崩壊し、「平和国家」に生まれ変わったことになっている。しかし実態はどうか。元首だった昭和天皇は皇位にとどまり、戦犯が首相になった。日本は本当に変わったのか、周辺国の信頼はいまだに得られない
▼自民党議員の一部は八紘一宇を「建国の理念」「家族主義」などと称賛し続けている。空っぽな戦時スローガンが繰り返しよみがえり、平和国家の空っぽな内実を問うている。(阿部岳)
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【https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/460401】
社説 [昭和天皇「拝謁記」] 今に続く「捨て石」発想
2019年8月21日 08:39
戦後、初代宮内庁長官を務めた故田島道治が昭和天皇の言葉や、やりとりの様子を克明に記した「拝謁(はいえつ)記」が見つかり、内容の一部が公開された。
昭和天皇が戦争への反省を表明しようとしていたことや、改憲による再軍備の必要を主張していたことが明らかになった。
拝謁記は田島が、宮内庁(当時は宮内府)長官に任命された翌年の1949年2月から退官した53年12月の間に昭和天皇とのやりとりを書き留めたものだ。手帳やノート18冊分になる。
その一部を、保管していた遺族から提供されたNHKがメディアに公表した。
昭和天皇との対話を詳細に記録した貴重な資料の中で目を引くのが、基地問題に触れた記述だ。
「全体の為ニ之がいゝと分れば 一部の犠牲ハ已(や)むを得ぬと考へる事、その代りハ 一部の犠牲となる人ニハ 全体から補償するといふ事ニしなければ 国として存立して行く以上 やりやうない話」(53年11月)とある。
53年といえば、米軍統治下にあった沖縄では、米国民政府の「土地収用令」が公布され、「銃剣とブルドーザー」による土地の強制接収が始まったころだ。
本土でも米軍基地反対闘争が起こっていた。反基地感情が高まり、本土の米海兵隊の多くが沖縄に移転した。
「一部の犠牲」が沖縄に負わされる形で、今も、国土面積の0・6%にすぎない沖縄県に米軍専用施設の約70%が固定化されている。
国の安全保障を沖縄が過重に担う現在につながる源流ともいえる言葉だ。
■ ■
戦時中、沖縄は本土防衛のための「捨て石」にされた。
47年9月、昭和天皇が米側に伝えた「天皇メッセージ」では、「アメリカによる沖縄の軍事占領は、日本に主権を残存させた形で、長期の-25年から50年ないしそれ以上の-貸与(リース)をする」と、昭和天皇自らが、沖縄を米国に差し出した。
今回明らかになった「一部の犠牲はやむなし」の思考はこれらに通底するものだ。
米軍の駐留について「私ハむしろ 自国の防衛でない事ニ当る米軍ニハ 矢張り感謝し酬(むく)ゆる処なけれバならぬ位ニ思ふ」(53年6月)と語ったとの記録もあり、今につながる米国とのいびつな関係性を想起させる。
■ ■
昭和天皇は、日本の独立回復を祝う52年5月の式典への言葉に「私ハどうしても反省といふ字をどうしても入れねばと思ふ」と語ったという。 「戦争を御始めになった責任があるといはれる危険がある」と当時の吉田茂首相に反対され、削除された。
昭和天皇がこのときに戦争責任を認め、反省を表明していれば、植民地支配したり、侵略したアジア諸国に対する戦後の外交も違ったものになっていたのではないか。
拝謁記で明らかになった事実は、歴史の空白を埋める新たなピースだ。戦争責任を巡る反省は今なお日本の問題として目の前にある。
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【https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-975015.html】
<社説>昭和天皇「拝謁記」 戦後責任も検証が必要だ
2019年8月21日 06:01
初代宮内庁長官の故田島道治氏が昭和天皇とのやりとりを詳細に記録した「拝謁(はいえつ)記」の一部が公開された。それによると、本土で米軍基地反対闘争が起きていた1953年、昭和天皇は「全体の為(ため)ニ之がいいと分れば一部の犠牲は已(や)むを得ぬと考へる…」「誰かがどこかで不利を忍び犠牲を払ハねばならぬ」(引用部は一部原文のまま)などと述べていた。
昭和天皇が47年、米軍による沖縄の長期占領を望むと米国側に伝えた「天皇メッセージ」の根本にある考え方と言っていいだろう。
沖縄を巡り、昭和天皇には「戦争責任」と「戦後責任」がある。歴史を正しく継承していく上で、これらの検証は欠かせない。
45年2月、近衛文麿元首相が国体護持の観点から「敗戦は必至」として早期和平を進言した。昭和天皇は、もう一度戦果を挙げなければ難しい―との見方を示す。米軍に多大な損害を与えることで講和に際し少しでも立場を有利にする意向だった。
さらに、45年7月に和平工作のため天皇の特使として近衛元首相をソ連に送ろうとした際には沖縄放棄の方針が作成された。ソ連が特使の派遣を拒み、実現を見なかった。
そして47年9月の「天皇メッセージ」である。琉球諸島の軍事占領の継続を米国に希望し、占領は日本に主権を残したまま「25年から50年、あるいはそれ以上」貸与するという擬制(フィクション)に基づくべきだ―としている。宮内府御用掛だった故寺崎英成氏を通じてシーボルトGHQ外交局長に伝えられた。
既に新憲法が施行され「象徴」になっていたが、戦前の意識が残っていたのだろう。
これまで見てきたように、昭和天皇との関連で沖縄は少なくとも3度切り捨てられている。根底にあるのは全体のためには一部の犠牲はやむを得ないという思考法だ。
こうした考え方は現在の沖縄の基地問題にも通じる。
日本の独立回復を祝う52年の式典で昭和天皇が戦争への後悔と反省を表明しようとしたところ、当時の吉田茂首相が反対し「お言葉」から削除されたという。だからといって昭和天皇の責任が薄れるものではない。
戦争の責任は軍部だけに押し付けていい話ではない。天皇がもっと早く終戦を決意し、行動を起こしていれば、沖縄戦の多大な犠牲も、広島、長崎の原爆投下も、あるいは避けられたかもしれない。
「拝謁記」で、昭和天皇が戦前の軍隊を否定しつつも、改憲による再軍備を口にしていたことは驚きだ。憲法99条は天皇や国務大臣など公務員に「憲法尊重擁護の義務」を課している。象徴である天皇自身が憲法改正を主張することは許されないはずだ。
「拝謁記」で明らかになった昭和天皇の発言が、現政権による改憲の動きに利用されることはあってはならない。
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[三上智恵監督『標的の島 風かたか』公式ページ(http://hyotekinoshima.com)より↑]
東京新聞の社説【陸自離島配備 住民の理解なしでは】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019050602000186.html)。
沖縄タイムスの吉田央記者によるコラム【[大弦小弦]負担を沖縄に封じ込める構図は、脈々と続いている】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/417117)。
東京新聞の社説【沖縄復帰47年 真に憲法の仲間として】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019051302000145.html)。
《南西諸島への陸上自衛隊配備を巡り、防衛省による不誠実な住民対応が目立つ。配備は中国の海洋進出への対抗策というが、住民の安心をないがしろにして、地域の平和を守るといえるのだろうか。防衛省への住民の不信が噴出しているのが、沖縄県宮古島市だ》。
《米国務省の元幹部が、1993年に在沖米海兵隊の本土移転を望んだが、日本政府が「まったく耳を傾けなかった」と本紙に証言…▼当時は社会党も参加した8党連立政権。今の自公政権、「最低でも県外」を掲げた民主党政権を含め、歴代政権がことごとく沖縄駐留に固執する。なぜか ▼…。最も核心的だと思った説明は「要するに、沖縄にいま海兵隊がいるからだ」》。
《沖縄は十五日、本土復帰四十七年を迎える。しかし、沖縄の人権や自治は今なお、日本国憲法の外にある状況ではないか。復帰の意味を問い直すときだ…憲法九条の碑。「日本國(こく)民は正義と秩序を基調とする國際平和を…」。旧字体で条文を刻んだ金属板が埋め込まれ、柱の上には植物の萌芽(ほうが)のごとく九条の精神が世界に満ちるように、との願いを込めた彫刻が掲げられている》。
『●辺野古破壊という大愚を続行…民意無視、
《地方自治や民主主義、県民の尊厳をどう考えるか…自身の見解を》』
『●武藤類子さん《沖縄で闘っている人の言葉…
「国を相手にケンカしたって勝てない。でも、おれはやるんだ」》』
『●与那国島や石垣島、《沖縄は名護市辺野古だけでなく、
宮古島もまた国防のために政府に翻弄されている》』
『●虚偽説明…《宮古島では、島民の基地負担は
ますます重くなっている。政府がやってるのはいじめそのもの》』
『●沖縄イジメ…《この74年間、沖縄戦以来、陸兵が軍服を着て
宮古島を闊歩する姿など誰も見たことはない》』
『●「沖縄は米国の植民地ではない。私たち沖縄県民は、
米国民との友好は望むが、服従は望んでいない」――。』
『●《支持者と反対者が排他的に対立》…
排他的に対立させているのは、与党自公や癒党お維の側ではないのか?』
『●辺野古破壊《移設方針は揺るがないとの政府の姿勢》…
アベ様や最低の官房長官らの無為無策・無能ぶりの表れ』
地域を分断し、「標的の島」となることを押し付ける。
辺野古破壊と壊憲…アベ様という独裁者が種々のクダラナイ理由を持ち出して壊憲を叫ぶ今ごろになって、《保守系の翁長雄志那覇市長》のこの言葉の意味を痛感させられる…「憲法改正よりも日米地位協定を改定することが主権回復だ」……『●沖縄の「屈辱の日」を祝う神経』。
《漁師達が知らずに漁をしていた》…無茶苦茶である。沖縄では、《こんな風に、住民はあっけなく危険にさらされるのか》。
沖縄タイムスの記事【米空軍、被ばく恐れ沖縄の離島未調査 1995~96年鳥島での劣化ウラン弾誤射 2010年9月まで実施せず】(https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/417133)によると、《1995~96年に米軍機が鳥島射爆撃場(沖縄県久米島町)で劣化ウラン含有弾を誤射した事故の後、米空軍が兵士の被ばく懸念から少なくとも2010年9月まで鳥島での動植物の生息状況や水質などを調べる通常の環境調査を実施していなかったことが分かった》。
《劣化ウラン含有弾を誤射》《兵士の被ばく懸念》…沖縄の市民の命は?
東京新聞の記事【筆洗】(https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2019050802000146.html)によると、《小林一茶の<痩蛙(やせがえる)まけるな一茶是(これ)に有(あり)>…▼そのカエルの両生類は40%超が絶滅の危機にあるらしい。国連の科学者組織が六日に公表したショッキングな報告書である。これによると世界で百万種の動植物が絶滅の危機にひんしており、その速度は過去一千万年の平均と比較し数十倍から数百倍に上るそうだ▼百万種類の動植物を絶滅に追いやろうとする犯人はだれかといえば、もちろん、人間である。人間の活動が森を消し、陸地を変え、海に影響を与えた結果である。世界の陸地の75%が人間によって、改変された》…。
《生物多様性の生きた教科書》や美ら海を破壊する愚かな国である。
そして、森や海に加えて、《次代に残すのは「不戦」》でしょうに、この国は…。
『●「対馬丸」生存者…「あの戦争が頭から離れない。
もう二度とごめんだ」…「九条の碑」早期建立を呼び掛け』
「「対馬丸」…《あの戦争が頭から離れない。もう二度とごめんだ》、と。
そして、沖縄県7ヵ所目、大宜味村内での「九条の碑」早期建立を
呼び掛けておられます。《「戦争の前にまず教育がおかしくなる」と指摘し、
教育の「戦前回帰」を懸念する》、本当にそうです。ハタやウタを子供たちに
強制し、教師の内心をかき乱す…。洗脳するが如く、幼児や幼子に
「教育勅語」を暗唱させる…。
壊憲「国民主権の縮小、戦争放棄の放棄、基本的人権の制限」といった
こを許していいのか? その先にある、緊急事態条項創設をも。
《沖縄は全国の半数を占める。住民を巻き込んだ地上戦を経験し、
平和憲法への思いは強い。「未来ある子孫への贈り物」。大宜味村の碑は、
そう刻む予定だ。次代に残すのは「不戦」。メッセージは明確だ》。
《不戦を誇る国であれ》と願う」
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【https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019050602000186.html】
【社説】
陸自離島配備 住民の理解なしでは
2019年5月6日
南西諸島への陸上自衛隊配備を巡り、防衛省による不誠実な住民対応が目立つ。配備は中国の海洋進出への対抗策というが、住民の安心をないがしろにして、地域の平和を守るといえるのだろうか。
防衛省への住民の不信が噴出しているのが、沖縄県宮古島市だ。
三月下旬、陸自駐屯地が開設され約三百八十人の警備隊が発足した。ところがないはずの弾薬庫が敷地内に造られ多目的誘導弾(ミサイル)や迫撃砲が搬入されていたことが判明した。弾薬保管なしを条件に、反対から容認に転じた周辺住民にとっては「だまし討ち」だろう。
四月、隊旗授与式に訪れた岩屋毅防衛相は「説明不十分だった」と謝罪。陸自は誘導弾などを島外に搬出した。駐屯地には来年以降ミサイル部隊も加わる。同部隊のミサイルなども含め、島内の別の地区に造る弾薬庫が完成次第集約する計画だが、その現地でも地区が弾薬庫整備に反対している。
防衛省は住民軽視を猛省し抜本的に対応を見直さねばならない。
沖縄県石垣市では、島の中央部に地対艦・地対空誘導弾部隊など五百~六百人の駐屯地を設けるための用地造成が三月に始まった。
地元四地区が、軍事標的化や希少動植物の生態系への影響を懸念し反対する中での着工だ。住民側は、四月以降なら義務付けられる環境影響評価を避けるため着工を急いだのではとも指摘している。
事実上容認の姿勢だった中山義隆市長は三選後の昨年七月、受け入れを正式表明した。しかし、反発する住民は民意は定かではないとし、有権者の四割の署名を集めて住民投票を請求。投票実施のための条例案は今年二月の市議会で賛否同数の末、議長裁決で否決されるも、際どい結果に論争は収まらない。市側はもう一度慎重に住民の意思を見極める必要がある。
政府は二〇一三年の防衛大綱で南西地域の防衛体制強化を打ち出し、沖縄本島のみの配備だった陸自を他の沖縄三島と鹿児島県奄美大島へ展開する方針を決めた。ただ、離島を結ぶ軍事拠点化が地域の安全保障に役立つのか。
沖縄では中国人観光客の増加が著しい。政治的にも日中関係は改善の兆しが見える。そんな一帯の融和感に水を差すことにならないか。冷戦終結で北方対処の任を終えた陸自が、組織維持のため南西地域に役割を求めたとも読める状況である。何より、狭い島内での自衛隊活動は住民の理解抜きに成り立たないと心得るべきだ。
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【https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/417117】
[大弦小弦]負担を沖縄に封じ込める構図は、脈々と続いている
2019年5月8日 07:21
負担を沖縄に封じ込める構図は、脈々と続いている。米国務省の元幹部が、1993年に在沖米海兵隊の本土移転を望んだが、日本政府が「まったく耳を傾けなかった」と本紙に証言した
▼当時は社会党も参加した8党連立政権。今の自公政権、「最低でも県外」を掲げた民主党政権を含め、歴代政権がことごとく沖縄駐留に固執する。なぜか
▼東京支社で外務省、防衛庁を担当した2005年から数年間、政治家や官僚に聞いて回った。最も核心的だと思った説明は「要するに、沖縄にいま海兵隊がいるからだ」
▼本土に移転しようと思ったら地元の同意が必要だが、難しい。だから、いま海兵隊がいる沖縄に我慢してもらう-という趣旨だ。「海兵隊を受け入れてくれ」と言われ「それは結構なお話ですな」と言う首長などいない
▼沖縄では名護市の住民投票で政府職員を選挙運動に送り込んだり、知事の埋め立て承認を得るため3千億円台の予算を10年保証したり、ありとあらゆる手を使う。この熱意を、県外移転に傾注してはどうか
▼新基地建設は大浦湾側に軟弱地盤が見つかり、難航が必至だ。建設後も地盤沈下のおそれがある。施設の安定使用を望む米側、海兵隊の駐留を望む日本側、建設に反対する県民。だれの利益にもならない計画に、突き進んでいないだろうか。(吉田央)
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【https://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2019051302000145.html】
【社説】
沖縄復帰47年 真に憲法の仲間として
2019年5月13日
沖縄は十五日、本土復帰四十七年を迎える。しかし、沖縄の人権や自治は今なお、日本国憲法の外にある状況ではないか。復帰の意味を問い直すときだ。
沖縄県読谷村(よみたんそん)。太平洋戦争末期、米軍が沖縄本島で最初に上陸した村の役場前に高さ三メートルほどのコンクリート柱が立っている。
憲法九条の碑。「日本國(こく)民は正義と秩序を基調とする國際平和を…」。旧字体で条文を刻んだ金属板が埋め込まれ、柱の上には植物の萌芽(ほうが)のごとく九条の精神が世界に満ちるように、との願いを込めた彫刻が掲げられている。
◆輝かしい命
建立は戦後五十年に当たる一九九五年。「沖縄の人々にとって日本国憲法は輝かしい命そのものだった。人間が大事にされ、戦争をしない国になるという希望を与えてくれた。戦後の米国統治下の沖縄の復帰運動は、日本国憲法の下への復帰を目指すものでもありました」。当時読谷村長だった山内徳信(とくしん)さん(84)=元社民党参院議員=は、建立の背景を振り返る。
五二年発効のサンフランシスコ講和条約で、沖縄は正式に米国の施政権下に置かれた。米側は沖縄に日本の「潜在主権」を残すことは認めたが、日本側は六五年、政府統一見解で日本国憲法の「適用はない」と宣言した。
沖縄には米国憲法も適用されない。軍人の高等弁務官を頂点とする米国民政府が軍事的必要性を最優先に行政、立法、司法上の権力を行使。基地拡大のための土地の強制収用をはじめ政治家の弾圧、表現の自由の規制、事件事故を起こした米兵の無罪放免-などが繰り返された。
人々が、基本的人権の尊重、国民主権、平和主義を基本原理とする憲法下での生活を求めたのは言うまでもない。山内さんによると、若者たちは鉛筆で条文を書き写しながらその日を夢見ていた。
◆戦争と隣り合わせ
七二年五月、沖縄の復帰は実現する。しかし「日本国憲法への復帰」は決してかなえられたとはいえない。悲運の発端は、広大な基地の継続・維持が盛り込まれた日米間の沖縄返還協定である。
返還交渉中、日本政府は基地の扱いについて「核抜き本土並み」と表明し縮小に期待を持たせたものの、復帰前に沖縄本島面積の20%を占めた米軍基地は今なお14・6%と取り組みは進んでいない。
基地は復帰まで、共産圏をにらむ最前線として最大約千三百発もの核が配備され、ベトナム戦争の出撃拠点となった。冷戦終結後も湾岸戦争、イラク戦争などに空軍や海兵隊を送り出してきた。
日本は戦後一度も他国と戦火を交えていないのに、沖縄は米国の戦争と隣り合わせの状態に置かれ米軍機の事故や米兵、米軍属による事件が繰り返される。在日米軍の特権を定め、翁長雄志(おながたけし)前沖縄県知事が「憲法の上にある」と嘆いた日米地位協定もそのままだ。
沖縄県や県警のまとめでは、復帰後二〇一七年末までに、県内で発生した米軍航空機関連の事故は七百三十八件(うち墜落は四十七件)、米軍人などによる刑法犯罪は五千九百六十七件(うち凶悪事件は五百八十件)。生命、生活、財産が脅かされる日常は法の下の平等に大きく反する。
その上で、名護市辺野古で進められる新基地建設に県民が重ねて反対の意思を示すのは、当然すぎる行動だ。政府は米軍普天間飛行場の移設・返還のためというが新基地完成のめどは立っていない。その矛盾をどう解消するのか。
新基地建設を巡ってはことし一月、国内の主な憲法研究者の約四分の一に当たる百三十一人が連名で「憲法の重要原理を侵害、空洞化する」との声明を発表した。解決には「何よりもまず沖縄の人々の人権問題」を考え工事を即時中止すべきだとする。
「民主主義や地方自治の在り方が問われている点で、日本国民全体の問題」ととらえようとの提起は極めて重要だ。
沖縄の地元紙琉球新報が、本土復帰に関して五年ごとに行っている県民世論調査がある。復帰して「とても良かった」「どちらかと言えば良かった」との回答の合計は、復帰から三十五年の〇七年には82・3%だった。四十周年の一二年にはちょうど80%。さらに五年後の一七年には75・5%と幅を広げながら低下している。
◆「自己決定権」を希求
一方、同紙の別の県民意識調査では、今後の沖縄の立場について自治州や連邦制への移行、または「独立」を望む声が一一~一六年の五年間に二割から三割超に急増した。「自己決定権」の希求。裏を返せば、復帰の本意をかなえないままの「日本」不信の表れだ。
沖縄を真に憲法の下の仲間とする-。中央の政治はもちろん本土側の国民も、あらためて当たり前のことを行いたい。
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magazine9に出ていた長編インタビュー【三上智恵さんに聞いた 日本国憲法に守られてこなかった沖縄】(http://magazine9.jp/interv/mikami/)。
あの『標的の村』を監督した三上智恵さんのインタビュー。米軍による事件や事故が頻発する沖縄。それに対して、我国は、易々と米軍基地やオスプレイを受け入れ、ましてや、子供にまでスラップ(SLAPP、SLAPP)する始末である。
『●子供にもSLAPPする国: 三上智恵監督・映画『標的の村 ~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』』
『●SLAPPと原発、沖縄』
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【http://magazine9.jp/interv/mikami/】
この人に聞きたい
三上智恵さんに聞いた
日本国憲法に守られてこなかった沖縄
今月から全国各地で公開される映画『標的の村』は、沖縄・普天間基地の周辺で、本島北部の高江で、米軍施設の建設やオスプレイ配備に反対する人たちの「闘い」を追ったドキュメンタリー。そこには、人々が警察によって強制排除され、メディアの立ち入りさえも阻止されるなど、県外にはほとんど伝えられない衝撃的な場面がいくつも収められています。人々は、どんな思いで闘いを続けてきたのか。『標的の村』が初監督作品となる、琉球朝日放送キャスターの三上智恵さんに伺いました。
みかみ・ちえ
琉球朝日放送キャスター、ディレクター。東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる~沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945~島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か~沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会放送ウーマン賞を受賞した。まもなく公開の初監督映画『標的の村』は、QABで放映された番組をもとにしたドキュメンタリー
普天間基地封鎖の大闘争を
伝えなかった本土メディア
編集部
映画『標的の村』を観させてもらいました。本当に、胸が詰まって目頭が熱くなるようなシーンがたくさんありました。対象に寄り添い、その人たちの心の中に入り込みながら撮影している…、そういう感じが強くしましたね。
三上
そうですか、ありがとうございます。
あの映画は、最初は30分の番組としてQAB(琉球朝日放送)で流したものです。そこで伝え切れなかった部分を補足して倍の時間のものを作りました。
でも残念ながら、テレビのドキュメンタリー番組を全国で流せる枠って、ものすごく狭いんですよ。これをどうしても全国に伝えたい、広めていきたい。そのためにはどんな方法があるか? そこでたどり着いたのが、映画にして全国で上映してもらう、という方法だったんです。91分に編集しなおして、テレビ番組では泣く泣く削らざるを得なかった部分もとり込んで映画化したんです。
QABは、ずーっと普天間飛行場の辺野古移設、オスプレイの問題に密着して取材してきました。その中で、沖縄県東村の高江地区というところに建設が進んでいるヘリパッド(ヘリコプターの発着場)が、オスプレイの訓練基地になるということがはっきりしてきたのです。この映画は、辺野古から高江へつながる基地反対運動、そして普天間へのオスプレイ搬入阻止の住民の闘いを追い続けた記録です。
編集部
映画の中では、普天間飛行場の住民による封鎖のシーンがものすごく印象的でしたね。
三上
オスプレイ配備に反対する住民たちの普天間基地封鎖闘争は、沖縄県史上でも初めての出来事でした。普天間基地の3ヵ所のゲート(野嵩・大山・佐真下)すべてがオスプレイ配備反対を訴える住民たちによって封鎖されたんです。
こんなことは、もちろん今までにありませんでした。米兵は、まったく基地の外へ出られなくなったんですよ。ほんとうに前代未聞の大闘争だったんです。それに怒った米兵たちと座り込み住民たちとの小競り合いも起きました。
次々に警官隊によって引き抜かれ、泣きながら連れ去られる座り込みの住民たち。「同じウチナー同士がなんで争わなくちゃいかんのか! お前らも一緒に座り込めーっ!」と叫びながら引っこ抜かれるおじいやおばあ。それをすべて撮影していたのは、残念ながら沖縄のメディアでもQABだけだったんですね。
編集部
ほんとうに熾烈な闘いの模様でした。たくさんの涙が流されました。車の中に立てこもり、涙を堪えながら歌う女性の『安里屋ユンタ』は、胸をかきむしられるようでしたね。でもなぜこれが、ほとんど一般には伝えられなかったんでしょう? 他のメディアはあまり現場にはいなかったんですか?
三上
沖縄の政治家たちも参加した野嵩ゲート前には、他のメディアもいたんですが、彼らが午前中で引き上げると、一緒にメディアも引き上げて行きました。だから、すべての模様を撮影していたのはQABだけだったんです。そんな行事のような抗議行動で何ができるか、と憤る人たちが大山ゲート前に集結していました。でも、そちらにはほとんどメディアは記者を配置しなかったんです。全部のゲートに記者を送ったのはQABだけだったんです。
しかも、こんな未曾有の大闘争が起きていたにもかかわらず、本土の大きなメディアはまったくといっていいほど伝えなかった。座り込みの模様をほんの少し流したテレビ局はありましたが、それもサラリと「オスプレイ配備に反対する沖縄の住民たちの抗議行動がありました」という程度。テレビ朝日が夕方のニュースで2分ほどの特集を組んでくれましたが、本土での扱いはそれが最大です。
なぜなんだろう、というのが私たちの本当に大きな疑問でした。それなら、その疑問をすべて画面にぶつけてみようと…。
「沖縄にオスプレイが来る」ことは
15年以上前から分かっていた
編集部
その想いが結実したのが、この『標的の村』なんですね。
三上
そうです。高江のヘリパッドが、実はオスプレイの沖縄配備と密接に関連しているという事実は、沖縄の記者たちの間ではもう常識でした。でも、防衛局はずっと「ヘリパッドとオスプレイは関係ない」と言い続けました。
取材していくと、すぐに分かることなんですが、オスプレイにとって高江のヘリパッドはどうしても必要なものでした。まず辺野古をオスプレイのホームグラウンドにし、高江を訓練地にするという計画。つまり、海からやんばるの森(高江地区を含む)へ向かってきて、高江のヘリパッドを目指す、というルートです。だから新しいヘリパッドが必要なんだ、ということです。
結局、オスプレイが高江に来ることは、96年のSACO合意のときから分かっていたことなんですね。ただ、ヘリパッドの位置が本当に高江の集落を囲むように6ヵ所も造られると分かったのは、2006年くらいでした。
編集部
すべては米軍と日本政府の了解の上だったんですね。
三上
そうです、すべては分かっていたことなんです。そのことを取材していくと、なんと「ベトナム戦争当時、あそこには『ベトナム村』があったんだよ」という話が出てきました。
最初は「えっ、何それ?」って感じでしたけど、調べてみたら、県の公文書館に「USCAR(ユースカー・琉球列島米国民政府)」が撮った写真が整理されていて、私たちもびっくりしたんです。映画にも出てきますけど、高台から米国高等弁務官が訓練を笑いながら見下ろしている写真があるんですが、ベトナム人の村人の役で配置させられているのが沖縄の住民、それを標的に米兵が訓練をしているわけです。
編集部
それが『標的の村』というタイトルに結びつくわけですね。
三上
ええそうです。でもね、それでこの地区の住民たちが怒っていたかというと、それは違うんです。
その当時、遥か遠い那覇にあった沖縄民政府なんて、山奥の高江に何もしてくれない、何の恩恵も与えてくれなかった。逆に、米軍は近くにいて住民を雇ってくれて、毛布や食べ物もくれたし、学校を作るときにはジャングルジムも寄付してくれた。怖いことなんてなんにもなかった、とおばあたちがみんな言うんです。そんな中で、私たちが取材とはいえ「ベトナム村で、ベトナム人役をさせられていたんですね」なんて訊いて回るのは、とても辛かったですね。
国に訴えられた
高江の住民たち
編集部
なるほど、そういう歴史がこの高江という集落にも隠されていたんですね。そして、この映画のもうひとつの側面は「スラップ(SLAPP)訴訟」です。
三上
それがこの高江では、本当に大きな問題なんです。あまり聞きなれない言葉ですけど、スラップ訴訟というのは、大きな権力を持った側、例えば政府や行政、大企業などが恫喝的に住民や個人を訴えるというもので、アメリカなどでは禁止している州(カリフォルニア州など)もあるという、問題のある訴訟です。
今回、高江では通行妨害という名目で、たくさんの住民が防衛局から訴えられました。なんとその中には、当時たった7歳の女の子まで入っていた。しかも調べてみると、訴えられた日の現場に、その女の子はいなかったということも分かった。つまり、何でもいいから反対するヤツは裁判にするぞ、という脅しなんです。
普通の人が裁判に訴えられる。こんな怖いことがありますか。裁判に呼び出されて時間もとられる。生活の破壊にもつながります。結局、ほとんどの訴えは取り下げられて、仮処分から本裁判にされたのはおふたりだけですが、それでも「恫喝」という防衛局(日本政府)側の目論みは成功したわけです。もっとも、住民側はまったくへこたれてはいないので、完全な成功というわけでもないですけど。
編集部
その訴えられた海月ちゃんという女の子は、この映画の中でも印象的でしたね。
三上
海月ちゃんは映画の最後では、小学6年生になっています。彼女は6歳のとき「オスプレイが来たら逃げる」って言っていたんですね。でも今は、「お父さんやお母さんがやってきたことを、今度は私が引き受けるんだ」と言っています。
小学6年生の女の子にそう言わせてしまったことに対し、沖縄のメディア関係者は総懺悔しなければいけない。だからこの映画は、海月ちゃんに象徴される次の世代に対する懺悔で作ったような気もするんですよ。私たちメディアは、結局世の中を変えられなかった、という…。
編集部
映画では最後に「(沖縄に)刃をふるっているのはいったい誰なのか…」というナレーションが入ります。沖縄の問題というのは、誰が敵なのか、分かりづらい面もありますね。
三上
大きな何かじゃないと思うんです。小さな無関心、小さな責任転嫁というか、小さな狡さの集積でこんな国になっちゃったんですよね。
米軍を歓迎したことはない。無理やり共存させられた基地と折り合って生きてきたところに、外から「それは問題でしょう」と言われても、「ほっといてほしい」という感覚は、確かに沖縄の中にもあります。自分たちなりに納得して乗り越えようとしてきたものを、内地から波風立てて、実は不幸なんでしょ? って言われても、大きなお世話だって。
ほんとうは現実にちゃんと向き合って、何かをやらなければいけないんですが、やっていない自分を弁護する論理として「傷つく人がいるから」とか「家族が基地で働いているから」ということで終わらせようとしてきたから、それじゃ沖縄は変われない。
そこへ投げ込まれた石として、オスプレイの普天間配備、辺野古移設、そして高江ヘリパッドの問題があったんだと思うんです。だから、沖縄へ捧げる私たちの想いがこの映画には詰まっている…。
憲法はまだ、沖縄では
きちんと適用さえされていない
編集部
その沖縄からは「日本国憲法なんて、これまで我々には関係なかったし、これからだって米軍基地が押し付けられている限り関係ないだろう」という声が挙がっています。やっぱり、沖縄から見える日本国憲法の姿って、我々本土の人間が認識するものとは違って見えますか?
三上
そりゃあねえ…(苦笑)。27年間のアメリカ統治時代の苦しみは、日本国憲法さえあれば全部終わるんだ、というイメージで、沖縄の人たちはずっと片思いしてきたわけですからね。
「憲法手帳」というのがあって、保革を問わず、沖縄の議員さんたちはいつも胸ポケットにその手帳を入れている、という話がありました。それほど、沖縄の人たちは焼け付くように日本国憲法の下への復帰を望んでいたということなんです。
でも、片思いのままにもう40年も過ぎてしまいました。憲法で保障されていることが、日本国内でさえきちんと行われていないという実態はあったかもしれませんが、でも沖縄では、教育の自由さえなかったわけですからね。日本の歴史を教えていいのかどうかさえ、アメリカの顔色を伺ってでなければ判断できなかった。教育基本法さえなかったんです。
思想信条の自由、表現の自由、教育の自由、何もなかったんですよ。日本に復帰した今、その自由を手に入れたかと言われれば、やっぱり実感はない。
日本人は憲法の下で、基本的人権は国家によって保障されるし、武器は持たないと言っている。しかし、沖縄は武器だらけです。戦争に巻き込まれた状態のままで、教育も平和的生存権も人格権も、そして何より財産権も保障なんかされていない。沖縄県民の財産権は、今も米軍基地というもので蹂躙されている。
『標的の村』も、最初の30分番組のときには、これが大きなテーマでした。もともとの自分たちの土地に入ったら、米兵に銃で追いかけ回されて、日本へ復帰したら「日本国の法律によって罰せられる」という看板で土地から追い出されたという状態は、今も続いています。
しかも、少女暴行事件のあとの97年には、軍用地特措法が改定されて、どんなに首長が反対したって「あんたの土地が必要だよ」と日本政府に言われたら取り上げられてしまう。だから、財産権なんて、いまだかつて沖縄では保障されたことなんかないんですからね。
編集部
それは、日本政府に対してだけではなく、「内地」で普通に暮らす一般の日本人に対しても鋭い批判になっています。
三上
何も日本人総体を批判するつもりはないんです。
でもね、日本国憲法で権利が保障されていない復帰前の沖縄から見ると、保障されている日本国の人はほんとうに羨ましかっただろうし、憧れという簡単な言葉ではなく、のどから手が出るほど日本国憲法がほしかったんです。ところが、日本国憲法がある日本国へ復帰すれば、その憲法によって沖縄県民の生活も一変するだろうと思っていたにもかかわらず、まったく何も変わらなかった。そのことへの恨み、というより哀しみは強いですね。
しかも、今度の参院選で、憲法を変えようという勢力が大勝してしまった。沖縄では今も、憲法を沖縄できちんと機能させよう、という運動を頑張ってやっているというのに、その憲法が沖縄できちんと適用される前に、「もう憲法が変えられちゃうんだってよ」と、沖縄の人たちは自嘲気味に、でも普通に言っていますよ。
編集部
適用されなかったからこそ、その意味がよく分かる。もらえなかったからこそ、その価値が見える。日本国憲法とは、沖縄にとってそんなものだったのかもしれませんね。日本国民に、憲法はきちんと機能しているかといえば、最近はことに怪しくなってきてもいますが。
三上
そういう意味では「日本国憲法を変えてしまうというのなら、まずその前に一度、沖縄でその憲法をきちんと施行してみてからにしてください」と、私は言いたいですね。
編集部
この映画もつきつめれば、「日本国憲法の保障がない沖縄」という現実を照射した作品といえるかもしれませんね。
ただ、そんな言葉の軽さではとうてい表現できない現実です。東村の明るい陽光と木々の葉のそよぎ、住民たちの普通の生活などが極めて美しく描かれているだけに、それらを踏みにじる理不尽さに体が震えました。
今日は、ありがとうございました。映画の成功を期待します。
三上
こちらこそありがとうございました。
映画は8月10日(土)から、東京・東中野の「ポレポレ東中野」を皮切りに、順次全国でロードショーです。沖縄の現実を、少しでもお伝えできればと思っています。
ぜひ、よろしくお願いいたします。
(構成/鈴木耕 写真/吉崎貴幸)
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