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●《米軍の爆撃から逃れ川を渡る親子2組を捉えたピュリツァー賞作品の「安全への逃避」など、沢田は戦争に翻弄される民衆の姿を多く撮影》

2020年12月15日 00時00分21秒 | Weblog

[※ 『NNNドキュメント’17記憶の澱』(2017年12月3日(日))↑]



琉球新報のコラム【<金口木舌>報道カメラマン沢田教一没50年】(https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1223836.html)。

 《ベトナム戦争など戦争の最前線で撮り続けた報道カメラマン 沢田教一が亡くなってから50年が過ぎた。1970年10月28日、紛争地のカンボジアで何者かに銃撃され34歳の生涯を閉じた…▼沖縄も出撃拠点となったベトナム戦争は、自由に取材できた最初で最後の戦争といわれている。多くの従軍カメラマンが同行し、生々しい戦争の写真や映像が全世界に配信された。反戦運動が高まり、73年、ニクソン大統領は米軍撤退を余儀なくされた》。

 どう戦争の記憶を残し、戦争を回避するのか。戦争の記憶の継承、《語り継ぐ》。でも、今のような自公政権やお維が幅を利かす世の中では…。

   『●加害者性と被害者性…「私たち一人一人が被害者となり、
              加害者となり得る戦争。戦争はどこかで今も…」
    「【記憶の澱/NNNドキュメント’17】…。
     《先の大戦の記憶を、今だからこそ「語り、残したい」
     という人々がいます。
     …心の奥底にまるで「」のようにこびりついた記憶には
     「被害」と「加害」、
     その両方が存在しました》」

   『●「現実の戦争を知るベテランジャーナリスト」石川文洋さんの言葉に耳を
    《沖縄で写真展を開いた時のことだ。沖縄戦を体験したお年寄りが、
     異国の戦場の様子にじっと見入っていた。平和教育が盛んな土地柄。
     保育士に連れられ、保育園児も足を運んでくれた。「戦争の記憶
     日常の中にあり、子どもたちに引き継がれている。常に戦争を
     意識せざるを得なかった歴史の裏返しです」
      兵士や兵器を積んだ米軍機が今も戦地に向けて飛び立つ
     ベトナム戦争当時と変わらぬ沖縄の風景だ。差別的な基地負担を
     強いられ、常に事件や事故と隣り合わせの被害者であると同時に、
     「後方支援基地として、命を奪う加害者側でもある。そんな罪悪感にも
     似た感情を持つ人は少なくない」。被害者の痛みが理解できる。
     それもまた、沖縄が歩んできた歴史ゆえだ》

   『●「絶望は愚か者の結論」を心に、壊憲を続けるアベ様に根気強く対抗を
   『●現在進行形の「身代わり」: 「反省と不戦の誓いを…
             沖縄を二度と、身代わりにしてはならない」
   『●アベ様に犯罪をもみ消してもらえる「報道」者、
     かたや、「卑劣な報復=身辺調査」を噂される新聞記者…
   『●大矢英代さん「私たちは、過去の歴史からしか学べません
            …私たちが何を学ぶのかが今、問われている」①
   『●『憲法くん』の誇りとは? 《私は六六年間、戦争という名前で
             他国の人々を殺したことがない。それが誇り》
    《演じるのは、ベテラン女優の渡辺美佐子(86)。この短編を挟んで、
     初恋の人を疎開先の広島の原爆で亡くした渡辺が続けている慰霊の
     旅と原爆朗読劇のドキュメントが描かれる。朗読劇は渡辺が中心と
     なって同世代の女優たちと33年間続けてきたもので、今年が最終公演。
     未来に託す戦争の記憶と女優たちの平和への思いが語られる》

   『●水木しげるさんの言葉を…《戦争に向かうハードルが低く…
       戦争の怖さが(若者の)耳に届きづらい》恐ろしい世に
    《沖縄タイムスの【社説[慰霊の日に]知ることから始めよう】…
     《こういう時期だからこそ、沖縄戦の実相をより深く学び、
     戦争の記憶を引き継ぐ意味を心に刻みたい。きょう沖縄は
     「慰霊の日」を迎える。県民の4人に1人が犠牲になった
     沖縄戦から75年の節目となるが、今年の「6・23」は新型コロナ
     ウイルスの影響で慰霊祭の中止や規模縮小を余儀なくされている》》

   『●『沖縄スパイ戦史』と《記憶の澱》…
     「護郷隊…中高生の年頃の少年たち…スパイと疑われた仲間の処刑…」

   『●戦争の記憶の継承…《大谷昭宏さんから伺った話。「戦争の記憶が
     風化する中、語り継ぐ一つの手段が見えるのでは」と水を向けられ…》

 コラムの「沖縄も出撃拠点」に〝共感〟し、また、コラムから石川文洋さんを思い浮かべた。

   『●「政府は沖縄を分断し、苦渋の判断をさせ続けている」: 
               「住民分断」「沖縄差別」を恥じぬアベ様ら
    《六十年前の本土復帰運動で歌われた「沖縄を返せ」という歌は、
     辺野古で座り込む市民らに受け継がれている。変わったのは、
     訴える相手に米国だけでなく、日本政府も加わったことだ。
      「軍隊がいる所が最も危険というのが、沖縄戦の教訓
     辺野古に基地ができれば、沖縄は出撃拠点として固定化してしまう
     だから歌は、沖縄を、沖縄に返せと言っているんです」》

   『●「だが我が国は成熟国家になってから粉飾を始めた
       相当情けない国家」(阿部岳さん)だなんて、哀し過ぎる
    《▼2014年、たまたま訪れた沖縄が米軍のイラクへの出撃拠点だった
     ことを知る。「日本も沖縄も加害者だった」。ちょうど辺野古新基地の
     建設が始まり、「また同じことが起きる」と、反対運動に加わった。
     そのさなかに罪に問われ、一審有罪判決を受け控訴している。
     身をもって戦争を体験した稲葉さんの総括は続く ▼一方、
     開戦を全面支持し、後に自衛隊を派遣した日本政府。イラクに
     大量破壊兵器なかった米英の指導者が誤りを認めた後も
     押し黙ったまま


   『●「沖縄から核兵器を撤去させ、ベトナム戦争の出撃拠点と
           しないようアメリカと激しい外交交渉を重ねた」人
    《基地は復帰まで、共産圏をにらむ最前線として最大約千三百発もの
     核が配備され、ベトナム戦争の出撃拠点となった。冷戦終結後も
     湾岸戦争、イラク戦争などに空軍や海兵隊を送り出してきた
    《千葉一夫は、沖縄返還で外交交渉の最前線にいた、実在の人物。
     …本土から切り離され、アメリカの統治下にあった沖縄は、
     米軍がベトナム戦争へ出撃する拠点となり、
     核兵器まで配備されていた沖縄から、核兵器を撤去させ、
     ベトナム戦争の出撃拠点としないよう、アメリカと激しい
     外交交渉を重ねた千葉。》

   『●《この期に及んで、まだ傍観者》? 《憲法を維持するための
           「不断の努力」を怠った…加害者側に立つ人間》
    《もちろん、辺野古にこだわる理由はそれだけではない。
     日本政府としては何が何でも沖縄に一大出撃拠点を造っておきたい
     という将来の軍事利用が根底にある…》

   『●《中国の海洋進出への対抗策というが、
     住民の安心をないがしろにして、地域の平和を守るといえるの》か?


   『●沖縄と報道カメラマン・石川文洋さん
   『●辺野古破壊や高江『標的の村』などなど……
      「本土の人間が「沖縄だからいいや」と差別している」
   『●「在日沖縄人」石川文洋さんの写真集
       『基地で平和はつくれない――石川文洋の見た辺野古』
   『●「現実の戦争を知る
      ベテランジャーナリスト」石川文洋さんの言葉に耳を
   『●「在日沖縄人」石川文洋さん… 《宗谷岬を出発し…
       沖縄まで約3500キロを約11カ月間かけて完歩》

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https://ryukyushimpo.jp/column/entry-1223836.html

<金口木舌>報道カメラマン沢田教一没50年
2020年11月12日 06:00
金口木舌 沢田教一 ベトナム戦争

 ベトナム戦争など戦争の最前線で撮り続けた報道カメラマン 沢田教一が亡くなってから50年が過ぎた。1970年10月28日、紛争地のカンボジアで何者かに銃撃され34歳の生涯を閉じた

▼没後50年の節目に都内で開かれた、沢田の生きざまを振り返り、戦争報道を考えるシンポジウムとドキュメンタリー映画「SAWADA」(五十嵐匠監督、97年公開)の上映会に足を運んだ

沖縄も出撃拠点となったベトナム戦争は、自由に取材できた最初で最後の戦争といわれている。多くの従軍カメラマンが同行し、生々しい戦争の写真や映像が全世界に配信された。反戦運動が高まり、73年、ニクソン大統領は米軍撤退を余儀なくされた

▼米軍の爆撃から逃れ川を渡る親子2組を捉えたピュリツァー賞作品の「安全への逃避」など、沢田は戦争に翻弄(ほんろう)される民衆の姿を多く撮影してきた。加えて苦悩する米兵の姿も捉えた。戦争とは一体、何か。沢田は写真を通して伝えたかったのだろう

▼映画では「安全への逃避」で被写体となった2家族のその後も描かれていた。沢田が家族を訪れて交流していたことが明かされている

▼沢田は生前、戦争が終わったら、ベトナムの日常風景を撮りたいと言っていたという。戦争の傷痕を深く残しつつ、著しい経済発展を続けるベトナムの今を、沢田はどう切り撮るのだろうかと、ふと思った。
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