礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

朝鮮百人乗り改造バスの構造仕様書

2014-04-25 04:14:10 | 日記

◎朝鮮百人乗り改造バスの構造仕様書

 昨日のコラムで、戦前、朝鮮・清津市内を走っていた「百人乗りバス」について触れたので、本日は、同バスの仕様書を紹介する。出典は、一九四二年五月五日発行の『汎自動車・技術資料』に掲載された「朝鮮都市交通の雄 百人乗りバスの構造」(野萱美雄・執筆)である。改造前と改造後が、対照できるように記載されている。改造を担当したのは、朝鮮金属工業株式会社である。

 百人乗り改造バスの構造仕様書
種  別     改造前
車名及年式  トヨタ2600年
機  関     6気筒26・3馬力
最大出力   3000回転75馬力
排気量    3390立方糎〈センチメートル〉
最大出力   最高32瓩米〈キログラムメートル〉
車  台     軸距3・6米型トラツクシヤシ
車  軸     2軸4輪
駆動装置   2輪駆動
動力伝達並に減速装置 「トランスミツシヨンギヤー」より「デフレンンシヤルギャー」に伝達す
操行装置   〔記載なし、「前軸2輪を操作す」か〕
前部発条   縦架式1組
後部発条   縦架式2点支持
制動機 足  マスターシリンダー1組油圧式4輪制動
制動機 手  機械式2輪制動
軸  距     3600粍〈ミリメートル〉
轍間 前位  1440粍
轍間 後位  複1650粍
タイヤ 前輪 32×6 8プライ
タイヤ 後輪 32×6 10プライ

種  別     改造後
車名及年式  トヨタ2600年
機  関     6気筒26・3馬力
最大出力   3000回転75馬力
排気量    3390立方糎
最大出力   最高32瓩米
車  台     従来のサイドメンバーを取離し新規に厚さ10粍、高さ180粍、巾90粍のコ型鋼材を以て架装す
車  軸     4軸とし前後方共に2軸8輪車に改造す後部2軸4輪は複輪とす
駆動装置   後軸前方2輪駆動装置
動力伝達並に減速装置 「ミツシヨンギヤー」と「デフレンンシヤルギャー」の中間に3/5の減速ギヤーを装備す
操行装置   前2軸4輪を操作す
前部発条   重連縦架式の2組に変更す
後部発条   縦架式2点支持
制動機 足  マスターシリンダー2組油圧式8輪制動
制動機 手  機械式後部前軸2輪制動
軸  距     5370粍
轍間 前位  1440粍
轍間 後位  複1650粍
タイヤ 前輪 32×6 10プライ
タイヤ 後輪 32×6 10プライ

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朝鮮・清津市を走った「百人乗りバス」(1940)

2014-04-24 05:30:40 | 日記

◎朝鮮・清津市を走った「百人乗りバス」(1940)

 昨日の続きである。雑誌『図書設計』N0.82(二〇一二年八月)に載せた拙稿「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」の紹介で、本日が三回目で最終回。   

 三〇年以上前に私は、『汎自動車・技術資料』十数冊を入手し、今でも愛蔵している。この雑誌には、上に紹介した記事以外にも、きわめて興味深い写真・記事・資料などが満載されている。以下に、そのごく一部を紹介しておこう。
 一九四二年五月五日発行の『汎自動車・技術資料』には、戦時下の朝鮮・清津市で使われていた「百人乗りバス」についての記事がある。おそらく、かなりのバス愛好家でも、このバスの存在は知らないのではないか。記事によれば、このバスは一九四〇年に完成し、その翌年以降、計三輌が運行されたという。「トヨタ二六〇〇年」を改造し、もともと二軸四輪であったものを、四軸一二輪(前方二軸四輪、後方二軸八輪)としている。朝鮮金属工業株式会社による製作だという。車幅は二・二メートル、全長は一一メートル。
 骨組みの写真を見ると、エンジンは前置きで、そのエンジンの上に運転台を設けて、キャブオーバー型としていることなどがわかる。
 また、一九四三年六月六日発行の『汎自動車・技術資料』には、成田鉄道、成田・八日市場間(多古線)で運行された日燃式M-100型、および日燃式C-100型が、写真によって紹介されている。前者は木炭、後者は石炭を燃料とする(Mはモクタンの略で、Cはcoalの略か)。ともに、ガソリンカーを改造してガス発生炉を取り付けた、いわゆる「代用燃料車」である。なお、多古線は、一九四四年一月に休止され、戦後の一九四六年に廃止された。M-100型、C-100型の活躍は、長くは続かなかったものと推測される。

 朝鮮・清津市の「百人乗りバス」、多古線の代用燃料車とも、雑誌では詳しく紹介できなかった。このコラムでは、写真の紹介は割愛したが、雑誌『汎自動車・技術資料』には、貴重な写真が載っている。またその一部は、雑誌『図書設計』N0.82に転載しておいた。

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使えるコンデンサーは10個に1個(1944)

2014-04-23 04:05:08 | 日記

◎使えるコンデンサーは10個に1個(1944)

 昨日の続きである。雑誌『図書設計』N0.82(二〇一二年八月)に載せた拙稿「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」の紹介で、本日が二回目。    

 さて、『汎自動車』は、一九四四年の四月をもって終刊する。戦局の悪化が、こうした雑誌の存続を許さなくなっていたのであろう。
 同年四月五日発行の『汎自動車・技術資料』終刊号には、「自動車整備工の挺進策」と題する座談会記録の後半部分が掲載されている。
 この座談会は、同年二月に開かれたものだというが、各出席者がずいぶんと思い切った発言をしている。東急電鉄自動車部の築山清は、「部品はコイルが悪くて困るね。何しろ五個買つて満足に使へるのが一個か二個ですからね」と言う。その二個にしても、一次線の巻き方が悪く、すぐ熱を持ってショートしてしまったらしい。
 東京都交通局自動車両課の大内巳之助もこう言う。

《大体物が少いといふのは前の方から話され尽きたと思ひますが、根本になると商人の根性から直さなければならないと思ふのです。コンデンサー10個に一つしか使へない。而も商人のその時の態度が恐れ入つてしまふ。これぢやア具合が悪いからと云ふと、それぢやア他所様〈ヨソサマ〉からといつて売つてくれない。》

 いずれも、二月五日号の巻頭言における山口安之助の「告発」を裏づける発言である。というより、山口は、こういった座談会を企画することで、当時の深刻な事態を、広く世間に訴えたかったのではあるまいか。
 いずれにしても、決戦下の産業界の内部でこの種の「荒廃」が生じていたことは、あまり知られていない。その意味で、この座談会記録は資料的価値が高いと考える。【以下は、次回】

 最後の部分は、今となってみれば、少し言い換えたいと思う。決戦下の産業界の内部で、この種の荒廃が生じていたことは、戦争体験者はよく知っていることだし、戦争体験者でなくても、私のような古い世代の者は、年長者から何度となく聞かされてきたことだからである。また、若い世代の方でも、小熊英二氏の労作『〈民主〉と〈愛国〉』を読まれた方であれば、そういった荒廃の実態をご存じであろう。ただし、そうした実態を、リアルタイムで告発している史料というのは、そう多くはないと思う。その意味で、やはり、この雑誌の記事、座談会記録等は、史料としての価値があると思う。

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不良部品製造業者は、理屈なしに抹殺せよ

2014-04-22 12:37:43 | 日記

◎不良部品製造業者は、理屈なしに抹殺せよ

 最近、必要があって、戦時体制について調べている。数年前に、『図書設計』という雑誌のN0.82(二〇一二年八月)に、戦時体制に関わる雑文を書いたことを思い出し、引っぱり出してみた。
 非常に専門的な雑誌なので、あまり広くは読まれなかったことと思う。以下に、紹介させていただく。文章のタイトルは、「戦中の自動車雑誌『汎自動車』から」である。

『汎自動車』(自動車資料社)という雑誌がある。戦中の一九四〇年に、『自動車界』、『自動車と機械』、『自動車文化』、『自動車雑誌』、『乗合と貨物』の五誌が統合されてできた雑誌で、一九四四年に終刊している。月二回、五日と二〇日に発行され、五日に発行される『汎自動車・技術資料』と、二〇日に発行される『汎自動車・経営資料』とがあった。
 次頁の図版〔略〕で紹介したのは、一九四四年二月五日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙である。そこに見える自動車は、トヨタ大型B乗用自動車。戦争末期に試作された高級乗用車で、直列六気筒、排気量三三八九ccのエンジンを登載し、定員は七名。内装には、帝国美術院会員の和田三造画伯も関わったとされる。
 同誌同号の巻頭に「自動車の整備問題を繞つて」という文章がある。執筆は自動車資料社の山口安之助。その一部を引用してみよう。

《今日、整備員は、不良部品の配給に驚くと共に、それさえ入手困難と云ふ二重の悲鳴を挙げてゐる現状である。だが幸ひ、部品配給の円滑化と重点処置に就ては運輸省が目下折角立案中であると云ふから、専横なる配給、無責任なる不良部品の製造業者等はこの際徹底的に粛清されるものと思はれるが、不良部品製造業者などは時局下理屈なしに完全に抹殺すべきであると大声したい。》

 火を吐くような告発である。当時の自動車業界の危機的状況、いや、戦時体制そのものの危機的状況を髣髴とさせる文章である。こうした中で、なぜか政府中枢は、トヨタ、ニッサン、ヂーゼル自工(いすず)の各社に対し、「高級自動車」の試作を命じていたのである。ちなみに、ヂーゼル自工は、トヨタよりも一足早く試作に成功している。その通称は、「大型いすゞ乗用車」。一九四三年一二月五日発行の『汎自動車・技術資料』の表紙には、同試作車の写真がある。【以下は次回】

 

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「外交官及領事官試験委員長」埴原正直

2014-04-21 03:54:17 | 日記

◎「外交官及領事官試験委員長」埴原正直

 昨日も述べたことだが、相良佐の『増訂 英文の手紙正しき書き方作り方』(開文社、一九二九訂正第一七版)というのは、実に興味深い本である。それは、そこで例示されている文章が、妙にリアルだからである。本日、紹介する、「獅子堂静雄」の試験願書もそのひとつである。獅子堂静雄などという名前は、仮名として思いつくような名前ではない。
 同書「第二篇 作り方、範例及び実例」の「第十九章 届書、願書、証明書及び履歴書」の「五」を、ほぼそのまま紹介する。
 なお、「外交官及領事官試験委員長」とされている埴原正直〈ハニハラ・マサナオ〉は、もちろん実在の人物である。埴原正直は、一九二二年(大正一一)から駐アメリカ大使の職にあったが、一九二四年(大正一三)に「排日移民法」問題でアメリカの世論を刺激し、同年に大使を辞任している。ただし、同年九月の時点で、外交官及領事官試験委員長を務めていたかどうかは未確認。

(五)試験願書
 獅子堂静雄
  明治三十二年一月十二日生
   満二十五歳八ケ月
 私儀外交官及領事官試験相受度〈アイウケタク〉候に付同規則第四条に掲ぐる書類相添へ此段奉願〈ネガイタテマツリ〉候也
  大正十三年九月十五日
 族籍 大阪府士族
 本籍 大阪府堺市戒之町〈エビスノチョウ〉二丁目五十二番地
 現住所 東京市神田区裏神保町一番地 福岡茂雄方
外交官及領事官試験委員長 埴原正直殿

App1ication for Examination.
To Mr. Masanao Haniwara,         September 15, 1924
Chairman of Diplomatic
and Consular Service
Examination Committee.
 Sir:-
 I beg to apply to be admitted to the Diplomatic and Consular Service Examination,  and enclose herewith the papers specified in Art. IV. of the Regulations relating to the said Examination. 
 I have the honour to be, Sir.
  Your Obedient Servant,
 Shizuo Shishido.
  Born, January 12th. 1899, aged. 25 years 8 months.
Social Status:    Shizoku of Osaka.
Domicile:        No. 52, Ebisumachi-nichome, Sakai City, Osaka Prefecture.
Present Address:   c/o Shigeo Fukuoka, No.1, Urajimbocho, Kanda Ward, Tokyo.

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