◎無反省と高慢とは亡国の悪徳である(田中耕太郎)
田中耕太郎『教育と政治』(好学社、一九四六)から、「言論界の責任と其の粛正」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)。
四
承詔必謹〈ショウショウヒッキン〉の精神は何処に存するか。我々は徹底的抗戦を堅持してゐたが、一旦大詔渙発した以上は勅命に従ひ奉る外ないと云ふ態度であつてはならない。我々は大詔が渙発せられなければならなかつた必然性を衷心より理解し、自らの盲目不見識を痛悔することこそ聖旨を奉戴する真の態度でなければならない。又此度の敗戦が単なる失敗と考へてはならない。我々が最も恐れるのはそれが軍事的敗北以上に道義的敗北でなかつたかといふことである。所謂総懺悔は道徳的のものでなければならぬ。平和主義人類主義が正で、軍国主義、民族主義が誤りだとするならば、それは将来に対してのみならず過去に対しても然るのである。過去に対し此の意味での厳正な自省、宗教的な罪の痛悔が要求せられる。個人に就て三省が徳への道程である如く国家に就ても同様である。又人を責むる前に向分で反省し、又謙譲が美徳であることは個人と国家に依つて異なる所はない。無反省と高慢とは国家にとつても亡国の悪徳である。
「剣にて立つ者は剣にて滅ぶ」と云はれてゐる、我々は剣を恃んで〈タノンデ〉滅亡の危険に瀕した。今や剣は奪はれんとしてゐる、斯して〈カクシテ〉我々は滅ぶる危険から確実に救はれるのである。斯して我々は彼等の所謂平和愛好国の先駆たり得るのである。
我々は此の信念、此の心境を以て道義日本の再建設に発足し、世界平和と人類の福祉に、我が日本民族の課せられた使命の範囲に於て貢献しなければならぬのである。(二〇・九・六) 〈三四八~三四九ページ〉
「所謂総懺悔」というのは、第四十三代首相・東久邇宮稔彦王が、首相に就任して間もないころにおこなった「一億総懺悔」発言を指している(東久邇宮の首相就任は、一九四五年八月一七日)。東久邇宮が、実際に「一億総懺悔」という言葉を使ったかどうかは不明。一九四五年(昭和二〇)九月五日に国会でおこなった施政方針演説では、「全国民総懺悔」という言葉を使っている。「この際私は軍官民、国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思う。全国民総懺悔することがわが国再建の第一歩であり、わが国内団結の第一歩と信ずる。」
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