◎除夜の鐘が鳴らなかった昭和18年の大晦日
今月一九日・二〇日にも紹介したが、高田保馬『社会歌雑記』(甲文社、一九四七)から、また一首、紹介させていただくことにする。
(38) 除夜の鐘遂にをならず夜更けて今さらなれやこのゆゆしさは(昭和十八年)
数年まへまでは大晦日の晩、除夜の鐘の放送があつた。私も其夜には、各地から送らるる放送の鐘の音をきく為に深夜まで本をよんでゐた。年の少い子どもたちを間際になつて起しもした。足許〈アシモト〉の知恩院のかね、百万遍のかね、遠くは上野寛永寺、長野の善光寺、近江の三井寺、越前の永平寺など方々の鐘の限りもない音色が次々に伝へられて来るのを、緊張弛緩の感情の波をうねらせながらにきいてゐた。ところが戦局の動きは到頭寺々の鐘、ことに名刹の巨鐘までも引き上げてしまつた。回顧して見ると、かつての京都は鐘の都であつた。大正十年頃、京都を去つて広島にゐた私は久し振りに春の彼岸の一夜を来泊したことがある。旅の寝覚〈ネザメ〉は早い。暁床にゐてきいてゐると、遠近の寺々の鐘がだれかの指揮に演奏でもするかのやうに次々に方々から鳴り出してゐる。仏教の信念がどれだけ実生活を支配してゐるか、それにはいろいろの見方もあるであらう。けれどもかつてのその隆昌の形は今もなほ、此鐘の音に残つてゐると思つた。しかしふりかへつて見ると、日本の全国が一面からいふと鐘の国であり、仏教の国である。放送せられてみると、全国の寺々の鐘が次々に京都の方方の仏閣の鐘の如くに鳴る。ところが鐘も大抵は出しつくしてしまつた。全国を通じて幾つの鐘が残されてゐるであらうか。京都の寺々からも今年将に〈マサニ〉暮れるといふ零時になつても鳴り出でぬ。遠くのはとにかく耳許〈ミミモト〉の相国寺〈ショウコクジ〉からも一声のひびきもない。なるほど国にとつてゆゆしい時期であると思ふ。
今年〔一九四六年か〕の冬の終り頃であつたらうと思ふ。大阪に用があつてのかへり、相国寺の境内を通つてゐたら、ふと近くに鐘の音がきこえる。その方向を仰ぐと鐘楼の鐘をついてゐる一人の修行僧がある、よくも此鐘が残つてゐたと思つた。「残されてありけるものか此寺に久々にして宵のかね鳴る。」しかしこの鐘さへもその後容易に鳴ることはない。やはり今はいづれの御寺も皆沈黙の寺である。
第二次大戦末期には、除夜の鐘が聞けなかったなどという話も、こうした短歌やエッセイが残されていることによって、初めて後世に伝わる。
なお、冒頭の短歌中の「遂にをならず」の「を」は、詠嘆をあらわす間投助詞だと思われる。
今日の名言 2012・12・26
◎遠くはとにかく耳許の相国寺からも一声のひびきもない
高田保馬の言葉。昭和18年(1943)の大晦日、相国寺から除夜の鐘は聞こえてこなかったという。『社会歌雑記』(甲文社、1947)112ページより。相国寺は臨済宗相国寺派の大本山で京都五山のひとつ。京都市上京区にある。