◎魔王の如く道人の如く策士の如く詩客の如く
雑誌『世界』の「第22号」(一九四七年一〇月)から、小泉信三のエッセイ「露伴と今日の読者」を紹介している。本日は、その七回目。
篇中の佳処として引くべきものは、一々数へられぬ。作者が、帝王、将相〈ショウショウ〉から宦官小吏に至るまで、数十人の人物の一々に興味を以て之を描いてゐることは驚くべきものであるが、特によく描かれてゐるのは、やはり永楽帝其人と、謀師となつて之に叛起をすゝめた道衍〈ドウエン〉とであると思ふ。露伴はこの道衍を評して「魔王の如く、道人の如く、策士の如く、詩客の如く」といつてゐるが、彼れは燕王を勧めて簒奪を敢てせしめんとしたとき、王が、彼〔建文〕は天子なり、民心の彼に向ふを奈何〈イカン〉といつたのに昂然として答へて、臣は天道を知る、何ぞ民心を論ぜん、と云つた、大胆不敵の人物である。燕王が帝位に即き、道衍は少師と呼ばれて、名をいはれなくなるほどの尊重を蒙る〈コウムル〉身となつても、彼れは甘んじて優遇を受けなかつた。「蓄髪を命ぜらるれども肯んぜず、邸第を賜ひ、宮人を賜はれども辞して皆受けず、冠帯して朝すれども、退けば即ち緇衣〈シイ〉、香烟茶味〈コウエンチャミ〉、淡然として生を終り」云々とある。さうかと思ふと、晩年に至つて、猶ほ仏教を排する程朱の説を難じて之に嘲罵〈チョウバ〉を加へ、識者の擯斥〈ヒンセキ〉を受けることを顧みなかつた。その為め故郷の良州に姉を尋ねても姉は会はず、友の王賓なるものを訪問しても賓も迎へず、賤んで遥か語り、「和尚誤れり、和尚誤れり」と呼んだといふやうな事もあつた。これが道衍のすでに八十に近い時の事であつた。露伴はこれを評して、道衍の程朱反駁は議論としては別段奇とすべきものはない。「然れども程朱の学、一世の士君子の奉ずるところたるの日に於て、抗争反撃の弁を逞しくす。書の公〈オオヤケ〉にせらるゝの時、道衍既に七十八歳、道の為にすと曰ふと雖も、亦争〈アラソイ〉を好むといふべし」といつてゐる。正に同感である。【以下、次回】
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