礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

時刻はおよそ七時だ(木部正義・元伍長)

2016-02-21 04:57:37 | コラムと名言

◎時刻はおよそ七時だ(木部正義・元伍長)

 今月一八日のコラムで、『二・二六事件と郷土兵』(埼玉県、一九八一)という本から、中島与兵衛(当時、上等兵)が書いた「私は軽機射手だった」と題する手記を紹介した。この手記で、中島与兵衛上等兵は、当日「午前七時頃」、渡辺錠太郎教育総監私邸の「正門前に到着」したと述べている。
 中島与兵衛上等兵は、斎藤邸襲撃と渡辺邸襲撃の両方に参加している。しかも、軽機関銃の射手として、将校とともに行動している。である以上、事件後、憲兵から厳しい取り調べを受け、その手記と同じような調書を取られているはずである。したがって、その手記の内容は、事実に即したものである可能性が高い。
 とはいえ、中島与兵衛上等兵ひとりの証言で、襲撃隊が渡辺邸に到着した時刻を「午前七時頃」と断定することにも、問題がある。
 本日は、同じく『二・二六事件と郷土兵』から、木部正義という人物(当時、伍長)が書いた「教育総監邸で負傷」という手記を紹介してみよう。

 教育総監邸で負傷     木部 正義  大正四年九月一八日生
             (歩兵第三連隊第一中隊 伍長)   【住所・職業略】

 私は昭和九年一月二十日現役志願兵として歩三第一中隊に入隊し、以後下士官候補者として仙台教導学校で教育を受け、翌十年十一月下旬卒業と共に原隊に復帰、十二月一日付で伍長に任官、第一中隊第二内務班長を命ぜられた。
 その時の中隊の将校は、中隊長矢野正俊大尉、中隊付将校は坂井直中尉、教官は高橋太郎、麦屋清済の両少尉という顔ぶれであった。
 昭和十一年一月初年兵が入隊しこの教育が始まってまもなく私は連隊本部の暗号斑に迎えられ、専ら本部勤務となり、内務班では点呼をとる程度になっていた。従って私には事件の起こる前ぶれというものは全く感じられず、連隊はあげて渡満に備えて進捗しているとばかり思っていた。
 さて二月二十五日夜、つまり事件前夜のこと、私はいつものとおり日夕点呼をとるため中隊に帰り、終了後、連隊本部に戻ろうと廊下に出て将校室の前まできたとき、フト坂井中尉に呼び止められ下士官集合の旨を告げられた。そこで下士官全員は第二中隊の下士官四、五名と共に将校室に集合すると正面の机の側に坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉それに砲工学校の安田優少尉がいて、すぐ入口の扉が閉められた。坂井中尉は下士官全員に安田少尉を紹介すると徐ろに厥起趣意書なるものを読上げた。難解な文章であったが大要だけは判った。さてはこれから何かやるのだなとそんな予感がひらめいた。
 坂井中尉は読みおわると一同を見渡し、
「以上厥起趣意書にもとずき、中隊は明朝を期して赤坂方面に発生しつつある暴動鎮圧のため出動する、これには歩三は勿論在京部隊が全部厥起することとなっている」
といって今度は机の上に地図を拡げ目標としての斎藤内府私邸付近の地形を説明の上、編成と任務を下達〈カタツ〉した。このとき私に付与された任務は分隊長となり二年兵を主体とした兵八名を指揮し、同邸付近の省線ガード〔四谷駅・信濃町駅間〕手前で警戒に任ずることであった。なお第二班は殆んど出動と決った。ここで下士官側から質問が出され、中隊長不在の理由を伺ったところ、坂井中尉は「隊長も承知していることだ」と簡単に答えたので、中隊長は後刻姿を見せるものと思った。
 打合せが済むと解散にたり、時間まで皆よく寝ておくよう指示があった。私は部屋に戻り編成のことなど思いをめぐらせているうち、〇〇・〇〇非常呼集が発令された。服装は一装用着用で仕度がはじまった。そのうち新軍曹(連隊兵器掛〈ガカリ〉助手)が実包を運んできて各班に配った。私の班は二年兵には一二〇発、初年兵には六〇発が支給されそれぞれ薬盒〈ヤクゴウ〉に収められた。この時初年兵達は皆ビックリした顔で受取っていた。
 ここでしばらく舎内待機となり〇四・〇〇愈々舎前集合が告げられ整列したところで、坂井中尉が号令をかけて一斉に「弾込メ」が行なわれ安全装置をかけた。私はこのとき、MG隊から重機四基が配属されたのを知った。
 次いで坂井中尉は全員に向って訓示をした。
「中隊の指揮を坂井中尉がとる。中隊は三宅坂方面の暴動鎮圧のため只今から出動する。合言葉尊皇―討奸、では建制順序に出発!」
 こうして〇四・〇〇中隊は粛々として出発していった。この時の兵力約二百、この中にはMG隊と第二中隊の一部下士官兵も加わっていた。その頃残雪はあったが雪は降ってはいなかった。
 目的地斎藤邸には〇五・〇〇頃到着、私はすぐ示された省線の陸橋の位置を確め警傭についたが何等の異常はなかった。間もなく静かな邸内の方向からLGや小銃の音が響いてきた。私はそれが暴徒との衝突と思いこんでいた。警戒配傭について十分ぐらいたった頃「状況おわり集合」が告げられ中隊は内府邸門前の道路上に集合、すると屋内から坂井中尉を先頭に一隊が出てきた。中尉の右手には拳銃が握られその手は血だらけだった。中尉は集合した私たちを見つめながら「暴漢を仕止めてきた」と云って血だらけの右手を高くさしあげた。何事ぞ、暴漢とは斎藤〔実〕内府だったのである。私はここにおいて出動の真意を知り、愕然とした。
 中隊はその後三宅坂に移動すべく行進してゆくと赤坂離宮の前でトラック二台と遭遇した。ここで高橋少尉は小銃三コ分隊、LG二コ分隊に乗車を命じた。私も二年兵六、七名を指揮して乗車した。その時の兵力は約三〇名と記憶、将校は高橋少尉と安田少尉の二名であった。
 トラックはすぐ走り出し約一時間後に停車、そこは渡辺教育総監私邸の近くであった。時刻はおよそ七時だ。私邸から五〇米ぐらい手前で車を止め全員下車、そこから渡辺教育総監の襲撃を開始した。未だ明方〈アケガタ〉のためか一帯はヒッソリしていた。一隊は足音を殺して邸に近ずいた。先ず二中隊の蛭田〔正夫〕軍曹が門を乗りこえて中に入り内側から門扉をあけると、全員がドッと邸内に入った。将校以下五、六名が襲撃班となって正面玄関に突進、他の者は周囲を包囲して警戒につく。私は襲撃班として将校のあとに続いた。
 先ず玄関の扉から突入を図ったが頑丈でビクともしない。そこで代りばんこに体当りしたがまだ開かず、高橋少尉はごうを煮やし、「軽機前へ」と命令し遂に中島与兵衛上等兵が錠前目がけてLG〔軽機関銃〕を発射しようやく開けることができた。その頃四周から盛んに銃弾が飛来した。多分警護の憲兵が発射しているものと思う。
 扉をあけて中に入ると三尺入ったところにまた一つ同じ扉があった。私が近寄ってグッと体当りしたところ途端に内側から拳銃が発射されその銃弾が私の右足フクラハギに命中し盲貫銃創を負った。私はすぐ外に出て植込みのワキに腰をおろし手当てをうけた。その間襲撃隊は裏手に廻り、屋内に進入した模様である。私が見守っていると二階の部屋に電気がついたので私は小銃で二発射った。
 この襲撃も三〇分弱で終了し襲撃班は高橋少尉を先頭にして出てきた。結果は成功であった。全員は再びトラックに乗り都心にとって返し陸軍省付近で下車本隊に合流、負傷した私と兵一名はそのまま東京第一陸軍病院に行き、すぐ入院した。
 病院内はすでに今日のためにベットが用意されていて私はすぐ病室に通された。早速弾丸摘出の手術が行なわれ手当てを受けたお蔭で大事に至らなかった。治療を行う間、二回ぐらい憲兵がきて私の行動を詳細に聞き調書をとった。私は万事命令による行動だと答えた。すると三月三日、まだ治癒していないのに退院を命ぜられ、その足で代々木の陸軍刑務所にブチ込まれてしまった。それでも治療だけは続けてやってくれた。
 入所すると囚人服に着替え同時に取扱いが一変した。身分は未決であるが囚人には変りないのである。私は雑居房であったが談話は禁止され終日壁を見つめて正座と安座のくり返しを要求された。【以下略】

 文中に、MG、LGという略語が出てくるが、それぞれ、machine gun,light machine gun の略語であろう。一般に、前者は機関銃または重機関銃、後者は軽機関銃と訳されている
 さて、この手記で注目したいところは、ふたつある。ひとつは、護衛憲兵が、玄関内側から発砲しているという事実である。しかし、この阻止行動は徹底したものではなく、憲兵は渡辺総監を守ることなく、二階に移動したと考えられる。
 さらに注目したいのは、襲撃隊渡辺邸に到着した時刻である。木部伍長は、「トラックはすぐ走り出し約一時間後に停車、そこは渡辺教育総監私邸の近くであった。時刻はおよそ七時だ」(下線)と述べている。中島与兵衛上等兵のみならず、木部正義伍長もまた、渡辺邸に着いたのは、「およそ七時」と証言している。このことを、無視することは許されない。
 憲兵であった大谷敬二郎は、当然、中島与兵衛上等兵や木部正義伍長の調書を読んでいたであろう。にも拘わらず大谷は、その著書『二・二六事件』の中で、襲撃隊が渡辺邸を引き揚げた時刻を「六時半頃」としている。不可解という以外ない。
 中島上等兵や木部伍長が、渡辺邸に着いた時刻を偽らなければならない理由は何もない。一方、大谷敬二郎には、襲撃隊が渡辺邸を引き揚げた時刻を「繰り上げる」理由があった。護衛憲兵の「怠慢」を隠蔽するためである。【この話、続く】

 *20日は、アクセスが急増しましたが(訪問者が、19日の二倍以上)、その大半は、コラム「憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか」に対するものだったようです。なお、今月にはいって、いろいろ調べた結果、右コラムは書き直す必要があることに気づきました。書き直しは、数日後を予定しています。

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