◎それぢや男女混合の仮装会をやらう(伊藤博文)
清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その十三回目(最後)。
六、鹿嗚館時代と条約改正の苦心
日本の国際的地位と英国大使の忠告
○清水 さきほどの条約改正問題に関連して、例の鹿鳴館のダンス事件のことは、なかなか艶めかしい〈ナマメカシイ〉はなしですが、これは伊藤公の唯単なる西洋追随だといふ風に国民の頭にこびりついてゐるやうですが、あの時の話の真相はどうなのですか。
○金子伯 どうも伊藤さんの鹿鳴館の舞踏の話が大分誤解されてゐますからお話しませう。 明治四年〔一八七一〕岩倉〔具視〕公が全権大使で木戸〔孝允〕・大久保〔利通〕・伊藤・山口〔尚芳〕外務少輔等百人ばかり若いものを連れてアメリカからヨーロッパへ条約改正の問題で出掛けた。まづワシントンでアメリカ外務大臣に会見した。条約は旧幕時代に結んだもので関税は五分より上げることはならぬとか、治外法権などあつて窮屈不平等である。今は王政維新となり天皇御親政である。欧米諸国と対等の権利義務にしなければならぬと米国外務大臣にいふと、「至極尤だ、然らば条約改正に関する天皇の御委任状を持つてゐるか」と外務大臣はいふ。持つてゐないと答へると、大統領に宛てた天皇の御委任状を持たなければ条約改正の談判は開くことは出来ないといふ。岩倉公は、私は全権大使で天皇の命によつて来てゐる、委任状の必要はないではないかといふと、それはいけません、国際法によつて天皇が条約改正をこの者に委任するといふ委任状がなければ談判を開くわけにいきません、さういふものなんですといはれた。
これには木戸・大久保も一本参つた。そこで宿へ引揚げてどうしようかと評定して、それなら大久保と伊藤が急に日本へ帰つて、 陛下に申上げて、特に必要があるさうですからと御委任状を賜はることになつた。急に帰るといつても当時二ケ月も掛つたのですから、その間二百人もの者がワシントンでぶらぶらしてゐたわけで、失敗だつた。伊藤さんの如き大外交官でも当時はさうであつた。そして折衝を重ねるがイギリスが一番やかましい。割合にロシヤとドイツはよかつたのです。露・独はそれは御尤だ、英・仏が応ずれば私共も改正するから英仏によくお話なさいといふ。しかしイギリスは香港、印度とか東洋に植民地があり一番勢力を持つてゐるためでせう、なかなか聞入れない。
その後十八年〔一八八五〕伊藤さんが総理になり、井上馨の大立物は外務大臣にしてやつて見たがなかなか承知せぬ。時にイギリス公使はプランケツト〔Sir Francis Richard Plunkett〕であつた。伊藤さんとは大変懇意で、一日たまたま伊藤さんが関税の五分はひどい、治外法権も近々立憲政治になるのだからどうかしてくれと公使に話すと、それなら私が何とかしませうとプランケットが口を利いた。これが条約改正の交渉に応じた最初だと伊藤さんから私は聞いてゐる。ところが公使は――治外法権を撤廃して内地雑居といふか、日本人と一緒に外人は居住せにやいかぬ。それでは政治上は同等になつても国民的に日本人が外人と同等に交際出来るだらうか。第一あなた方参議にしてからが、幾らパーテイに呼んでも男ばかり来る、奥さん方は一度も来ない、参議の奥さん方が我々の細君と交際が出来ぬ位なのに、どうして国民が治外法権を撤廃して西洋人と同等の位置を保つことが出来ませうか。それも出来ぬのに改正々々と呼んでもをかしいではありませんか。――といふので、これには伊藤さんは非常に強く感じたやうです。
鹿鳴館のダンスと女性の洋装
それならどうすればよいか、それには男女同権といはないが、御夫人ももう少し同等に交際するやうにしなさいといふわけです。公使館の夜会へ行くとしても晩餐会に行くにも、婦人の着物では困るだらうと伊藤さんは考へた。欧米では夜会などで脛〈スネ〉が見えてはいけない、ストッキングが見えてもいけないことになつてゐる。日本の女の着物ではどうしても脛がちらつくので、洋装を着せようと考へた。それには宮中から洋服を採用して貰はにやならぬといふことになつた。ところが宮中ではおすべらかしとか十二単衣とかいつてなかなかやかましいのであります。それを伊藤さんはどう説かれたか知りませんが 照憲皇后様に申上げて、どうしても女官から洋装して頂く、それには 陛下から御洋服を召されたい。そして女官も洋服を着られるならば、我々大臣の家内も否応なく洋服になると、御許しを願ふた。そして婦人の洋服は宮内省から始められたのでありますが、宮内省に雇ふてゐたドイツ人の式部官と、その細君がイギリス人だつたが、この夫妻が日本の婦人に洋服を着せたわけで宮内省が最初であります。すると欧米人と交際するには、たゞ午餐会や晩餐会だけではいかぬから一つ一緖になつて娯楽を共にすることにしよう、それにはダンスがよからうといふので鹿鳴館でダンスを始めることになつた。ダンスば毎日やつたわけでなく一週間に二度とか、三度ダンスの先生が来て経へたのであります。総理大臣の伊藤さんがそれぢや男女混合の仮装会をやらうぢやないかと、総理大臣官邱で開くことになつた。その時井上毅は秘書官の首席でしたが、それほどまでして西洋人の御機嫌をとらんでもいゝだらうと大反対で出席を拒絶した。そこで伊東巳代治と私の二人は行かぬわけにいかぬので、私はイギリスの弁護士が着るガウンをつけ、巳代治はイタリアの貴族か何かの上つ張り――燕尾服を着て行った。行くには行つたがすぐ二階へ上つて伊藤さんの書斎へ入つてゐた。煙草ばかりプカプカ吹かして下にも行かず、給仕にアイスクリームや紅茶を持つて来させては、食べながら大言壮語してゐると、皆が寄り集つて来たものです。ところがこの時伊藤さんは下にゐて客と歓を通じてゐたが、われわれが出てゐないものですから怒つて二階にかけ上つて来、貴様らは秘書官のくせに何をしてゐるか、俺がこんなにいそがしくしてゐるのに、下へ来て手つだへと怒鳴つたものだ。われわれ二人はヘイヘイかしこまりましたといひながら、相変らず二階でブラブラしてゐました。この時われわれは、なんだ俺はダンスや宴会の世話役ではない、国務の秘書官だぞと気焔をあげたものですから、居合はせた人々は、では君等は大臣の玉子みたいなものだなと、大笑ひしました。
○清水 秘書官が大臣の玉子だといふ言葉はその時出来たんぢやないですか。
○金子伯 そうなんです。その頃の秘書官は後によく大臣になりました。その辺は今日のと大分ちがひます。とにかく伊藤さんはどうしても社交的に対等にならにやいかぬといつて宮中に洋服の御採用を願ひ上げ、率先して鹿鳴館でダンスをやらせ、官邸で仮装舞踏会まで催したのであります。その夜、山県〔有朋〕さんは騎兵隊〔ママ〕の軍服を着て、ものものしい帽子を被つてゐたし、佐々木〔高行〕工部卿などは土佐の紙の着物――土佐では礼服だといふ紙の裃〈カミシモ〉を着てバサバサ音を立てゝゐた。その他色々にありました。しかし新聞では盛に悪口をいふた。伊藤といふやつは欧米に心酔してダンスまでやるとは怪しからぬといふのです。だが伊藤さんは太ツ腹の人で、新聞で何といはうと構ふもんか、俺の真意は奴等には分りやせね、書きたいなら書かして置けと打棄らかして〈ウッチャラカシテ〉置いた。俺は大局から見てゐるのだ、後になれば俺の真意も仕事も分るだらうと弁明もしないのが伊藤さんであつた。鹿鳴館のダンスも条約を改正するについて欧米人と対等に交際しなければならぬといふ国を思へばこそであつたのであります。 ――以上――
〔あとがき〕 右速記録は一度、金子伯の御高覧を願つて、誤謬なきを期したいと考へてゐましたが、本年〔一九四二〕に入つてから、伯は肺炎にかゝられ、おふせりになられました。幸ひその後の御経過も順調のやうですが、まだまだ御覧願ふなど全く不可能と存じ、ひたすら御快癒を祈りつゝ、著者が校正等の正確を期しました。従つて文責は著者にあることをおことはりします。
清水伸の「金子堅太郎伯に維新をきく」は、興味深い文献だが、「史料」としての信頼性に欠けるところがある。〔あとがき〕にあるように、金子堅太郎本人の校閲を経ていない。また、金子の記憶違いと思われるところもある。それに加えて、清水伸による校訂、考証が十分でない。本日、引用した部分では、「奇兵隊」が「騎兵隊」と誤記され、訂正されていない。
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