◎松永久秀が将軍を殺したのは「嫌疑をかけられたから」か?
雑誌『伝統と現代』、「叛逆」特集号(第二巻第一〇号=通巻第一六号、一九六九年一一月)から、杉山博の「戦国の叛逆者たち」という文章を紹介している。本日は、その四回目(最後)で、「3 松永久秀の叛逆」の後半を紹介する。
フロイスは、松永久秀の叛逆の目的が、すでに権力欲にあることを正しく指摘している。叛逆が、道理や論理をこえて、欲望のために行なわれるならば、たとえそれが成功してもその叛逆は、衆人の憎悪を招く結果となることは明らかである。久秀の叛逆には、そうした欲望の要素が多かったことがわかる。
しかしフロィスの、つぎの記述は、叛逆ということを調べるものにとって注目すべきものである。
「公方様〔足利義輝〕には日に日に恐怖がたかまり、三位一体の日曜日の前にある土曜日に、他国へ逃れようとして、最も懇意な殿や友人の少数に伴われて、夜、極秘の裡〈ウチ〉に邸を出て行った。それはとりもなおさず、もし叛逆があった場合、自分にはそれに抵抗する力がないことを認めたからであった。市外約一レグワほど行った時、彼は同行者たちに自分の意図を打ち明けた。
すると、皆は彼に反対した。かような高貴な身である彼が、家臣たちの叛逆的意図の明らかな証拠を何も握っていないのに、況んや彼がどれほどの良君であるかを、また今まで臣下の誰一人をも苦しめたことがないということを皆が知っているのに、このように家臣から逃れるのは、彼の威厳をおとすことであると、皆は言った。それゆえ、直ちに立返って王者の声名にいかなる恥辱をも加えないがよろしかろう、万一不慮の災あらば、自分たちは皆公方様とともに死ぬであろうから、と言うのであった。それで、彼は皆に説得されて、甚だ不本意ながら 再び帰還した」と。
その翌朝、義輝は、三好義継と松永久秀の一万二千余の大軍に屋敷をかこまれ、鉄炮をうちこまれ、火を放たれ、ついに「胸に一槍、頭に一矢、顔に刀傷二つ」を受けて悲愴な最後をとげた。ときに三十歳であった。
フロイスの記述は、まだこのあと、久秀の惨虐が、義輝の一族や近臣者、それに多くの京都の町衆やキリシタンの身に及んだことなど、ながながと続いている。
しかしフロイスのこの記述によって、われわれは、当時の叛逆をするものと、叛逆をうけるものとの具体的な姿を見ることができるのである。一説によると、久秀が義輝を殺したのは、義輝が久秀を嫌い、彼をのぞこうと画策したので、機先を制して久秀が義輝を急襲してしまったともいう。そうなると、さきにオルガンチーノが、のべたように、「嫌疑をかけられたから、先に主人を殺す」という一例となる。
またフロイスが、義輝の逃亡をのべたところで、「自分には力がない」から逃げるのだという点は、叛逆者の「強い力」を是認しているといえよう。
このあと、「4 叛逆の倫理」に続くが、これは割愛する。杉山博は、歴史学者で東京大学名誉教授。この文章を発表した時点では、東京大学史料編纂所員。
明日は、話題を変える。
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