礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

飯田線ひらおか駅と東海道線あらいまち駅

2018-03-17 05:43:07 | コラムと名言

◎飯田線ひらおか駅と東海道線あらいまち駅

 一九四五年(昭和二〇)九月初旬、長野県下伊那郡天龍村の満島〈ミツシマ〉捕虜収容所に収容されていた連合国軍の捕虜が、解放されることになった。
 連合国軍の捕虜(二〇〇名弱か)は二団に分かれ、飯田線満島駅(現在の平岡駅)から、それぞれ、第一列車、第二列車に乗って、飯田線の終点・豊橋駅に向かった。これが、捕虜搬送用の専用列車であったかどうかは確認していない。列車は(あるいは、捕虜の乗った車両は)、そのまま、東海道線の上り線に入り(これも、確認したわけではない)、東海道線新居町〈アライマチ〉駅に向かった。第一列車が、新居町駅に到着したのは、午前一〇時ごろだったという。
 捕虜たちは、新居町駅で列車を降り、新居町駅北側の浜名湖岸に接岸していたアメリカ海軍の上陸用舟艇に三隻に分乗、舞坂海岸に投錨していたアメリカの軍艦に向かった。上陸用舟艇は、この日の朝、舞坂海岸の艦隊から、新居町駅東側に位置する湖口(今切〈イマギレ〉)を通って、新居町駅北側まで来ていたのであった。上陸用舟艇三隻は、都合三回、捕虜たちを軍艦まで運んだという。
 この捕虜解放の模様については、二〇一六年一二月二三日のコラム「湖口に機雷を布設してないか(シンプソン少将)」で、紹介したことがあった。また、満島捕虜収容所については、その後、ホームページ「平岡ダムの歴史を残す会」の記事「平岡ダム建設における強制連行強制労働」に、貴重な情報があることに気づいた。
 ところで私は、昨一六日、満島捕虜収容所があった場所まで行ってきた。飯田市に出かけたついでに、天龍村まで足を伸ばしたのである。前記の記事「平岡ダム建設における強制連行強制労働」によれば、満島捕虜収容所(正しくは「東京俘虜収容所第二派遣所」)があった場所は、今日の天龍村立天龍中学校の敷地の一部にあたるという。その場所は、予想に反し、平岡駅前の商店街からほど近い、かなり開けたところだった。
 満島捕虜収容所があったとされる場所を訪れたあと、平岡駅から飯田線に乗車した。記憶では、飯田線に乗るのは初めてである。一三時二五分発、上り豊橋行き、四両編成の電車である。この駅で降りた人はゼロ、乗車したのは、私含め二名だった。車内で、浜松までの乗車券を購入、二二七〇円。豊橋駅着が一六時一六分、一六時二四分発の東海道線の上り掛川行きに乗り換えた。途中、新居町駅には、一六時四一分に着いた。本当は、この新居町駅で降りたかったのだが、時間の関係で断念。電車内から、駅の北側に注目するにとどめた。駅の北側、数十メートルのところに、たしかに浜名湖の湖岸が見えた。

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