礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

渋沢栄一、伊藤博文に政党組織を勧告

2019-04-16 03:51:57 | コラムと名言

◎渋沢栄一、伊藤博文に政党組織を勧告

 国民新聞編輯局編『伊藤博文公』(啓成社、一九三〇年一月)から、渋沢栄一の「辱知四十年の回顧」という文章を紹介している。本日は、その六回目で、「九、伊藤公と慶喜公」と「十、政党組織の勧告」を紹介する。
 このうち、「九、伊藤公と慶喜公」は、一度、このブログで紹介したことがある(「伊藤博文、徳川慶喜に大政奉還の際の心中を問う」二〇一四・六・一五)。

  九、伊藤公と慶喜公
 伊藤公が〔徳川〕慶喜公に対面されたのは、多分私の宅でが最初であつたと際しますが、両公について面白い話があります。いつ頃の事か一寸〈チョット〉失念しましたが、私が所用あつて横浜に参らうとすると、汽車中で偶然伊藤公に逢ひました。する公が、渋沢君、君に是非話さねばならぬことがあると云つて話されたのは斯う〈コウ〉云ふ事でした。実は昨夜有栖川宮〈アリスガワノミヤ〉殿下が、来朝された西班牙〈スペイン〉皇族を晩餐にお招きになつて、両公が相客として同じく御招待を受けたのであります。その夜晩餐が済んで、相客の両公が対座された時に、伊藤公が突然慶喜公に向つて、甚だ卒爾〈ソツジ〉な質問をして失礼であるが、これは拙者が永年の疑問として胸底に残されてゐる事で、いつかお目にかふる機会を得たら、お訊ねしたいと思つて居た。それは外でもないがあの政権奉還の際、公が一身を投げ出して、朝命に唯これ従ふと云ふ恭順の態度に出られたのは、全体どう云ふお考へからなされたのか、人に依つては、卑屈とも、賢明とも、表裏両様の解釈が出来るので、甚だ立入つた事であるが、当時の御心中を伺ひたいと云ひ出した。すると慶喜公は言下に答へて、それは甚だ改まつた御質問であるが、実は何もお話する程の良い思慮があつてやつたものではありませぬ。私はあの場合に、予て〈カネテ〉から申含められた親の遺命を思ひ出しました、それで私はその遺命を傍目〈ワキメ〉もふらず奉じた迄の事であります。と云ふ意外千万〈センバン〉なお答でした。それから伊藤公が其の理由をとお尋ねすると、慶喜公は如何にも謙遜な態度で、御尋ねに接して汗顔の次第に堪へませぬ、今更らお話する程の事でもありませぬが、私の生家たる水戸家の勤王は遠く義公〔徳川光圀〕以来の事であります。父の烈公〔徳川斉昭〕は殊に勤王の念の深かつた人で、私が一橋家に入つた時など非常に心配して懇々〈コンコン〉訓諭されました。私が二十歳に達した時などは、改めて小石川の邸に招かれて、これからの邦家は却々〈ナカナカ〉面倒になるが、幼少の折から教へて置いた水戸家の遺訓を忘れてはならぬ、今日は汝が成人の日であるから、特に申付けるとの事でありました。私は父の此の言葉は深く胆〈キモ〉に銘じて、忘れた時はありませぬ、然るに後年四囲の情勢は御承知の如き有様となりましたから、あの場合私としては、此の遺命を奉ずるの外はないと考へたのであります、たゞそれだけの事で、誠に智慧のない遣り方で汗顔の外はありませぬとの返辞でありました。これを聞いて伊藤公が私に云はれるには、実は君から慶喜公の人と為りを屡々聞かされたが、それ程偉い人とは思つて居なかつた。併し昨夜の対談で全く感服して了つた、実に偉い人だ、あれが吾々ならば、自分と云ふものを云ひ立てゝ、後からの理屈を色々つける所だが、慶喜公には微塵〈ミジン〉もそんな気色なく、如何にも率直に云はれたのには実に敬服した、と云ふ様なお話がありました。

  十、政党組織の勧告
 この後も井上〔馨〕侯邸などで折々伊藤公にはお目にかゝりましたが、公はいつも温情を以て、何彼と古い友人の私どもの為めに心配して下さいました。明治三十一年〔一八九八〕頃の事だつたと記臆しますが、私は公にお目にかゝる毎に、いつも公に政党組織の事をお勧めしました。私は政治家ではないから、面倒な議論は知りませんが、私どもの見るところでは、どうも超然内閣なんてものは余りに卑怯です。寧ろ進んで堂々と政党を組織し、どこまでも憲政有終の美を済す〈ナス〉事に努められたい、私はかう云ふ意見で、その事を井上侯にも話したが、伊藤公にお勧めしました。大隈〔重信〕公が改進党を率ゐて居られた時ですから、それに対抗して、伊藤公が一大政党を組織せられたら、こゝに政界の分野も自ら〈オノズカラ〉判然して、立派な政治が出来るに相違ない。ちやうど英国でジスレリーとグラツドストンの二大政治家がしのぎを削つたやうに、伊藤大隈の二大人物が相〈アイ〉対立すると、そこに初めて二大政党が出来ると思つたのです。伊藤公が政友会を組織せられたのは、色々深い慮り〈オモンバカリ〉があつたでせうが、私として見れば、私が口癖のやうにお勧めした意見も、多少は公のお心を励かしたものがあつたと信じて居ます。

「九、伊藤公と慶喜公」に、「有栖川宮殿下」とあるが、第八代の幟仁(たかひと)親王、第九代の熾仁(たるひと)親王、第十代の威仁(たけひと)親王のうち、いずれを指すか、これだけではハッキリしない。しかし、たぶん、威仁親王であろう。なぜかというと、徳川慶喜は、維新以来、三〇年間、静岡に蟄居していたという。一方、第九代の有栖川宮熾仁親王は、一八九五年(明治二八)に亡くなっているからである。

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