◎京都・大阪の素町人に金を出してくれと頼んだ
清水伸の『維新と革新』(千歳書房、一九四二年四月)から、「金子堅太郎伯に維新をきく」の章を紹介している。本日は、その七回目。
二、明治維新と民間経済人の役割
○清水 私が拝見したのは概観椎新史だけですが、あの中に出て来るいろいろな思想的潮流、その対立や抗争からまきおこされた悲劇、池田屋事件や寺田屋騒動などより鳥羽伏見の戦、など純真な青年志士が身を捨てゝ戦つたのは涙なくして見られないですね。ところで当時の経済人、商人階級はどのやうに維新を見、またどんな働きをしましたか。
○金子伯 今の人は知りませんが、今日は尨大な予算を組んでゐるが、維新政府の出来た時は金は二、三万両しかなかつた。奥羽も江戸城も幕府が持つてゐる。東海道を下つて征討軍を差向ける金がない。如何に三条・岩倉・木戸・大久保・西郷が偉くとも金がなくては何も出来やしない。そこで京都・大阪の三井・大丸・鴻池〈コウノイケ〉・鹿島屋〈カジマヤ〉と天王寺屋など素町人〈スチョウニン〉に頭を下げて、お前たち金を出してくれと頼み込んだ。それでも足らぬので両本願寺にお前たち信徒から金を募つて助けてくれといふことであつた。両本願寺が伯爵になつたのはその時の功労であり、鴻池・三井・住友などが男爵になつたのもその時の功であつた。彼等が男爵になり両本願寺が伯爵なのはおかしいと思ふ方もあるかも知れないが、維新史を見ればよく分るのであります。それから明治二年〔一八六九〕の十月に 明治天皇が江戸城に御入りになつた御東幸〈ゴトウコウ〉の折には、三井の主人と番頭が随行し大福帳にみな費用を書いてゐる。木戸様御家来五人とか草鞋銭〈ワラジセン〉廿五文也、なんて書いてある。また北陸道征伐の時にも三井の主人と番頭が付いて来て会計元締をした。だから大福帳は非常に厚いものになつてゐる。それらは書き寄せて維新史に載せてありますが、私がその記録を見せて貰つたのであります。男爵がいふには今までそれは秘密の書類になつてゐたが、今日では三井家でみな印刷して世の中に売出すといつてゐる。それは私はよからうと思ふ。とにかく私財を擲つて〈ナゲウッテ〉尽した。然らばどの位の金を御用弁したかといふと、それは相当な額にのぼる。たとへば明治二年の十月の御東幸の費用が七十七万円であつた。七十七万円といへば大金であります。
○清水 それは全部三井が出したのですか。
○金子伯 その中〈ウチ〉三井が幾ら出したか覚えませんが、七十七円といふのは御東幸の費用の全額です。
○清水 三井・鴻池などは献金申し上げるといふ形でしたか、或は後で返すといふ形でしたか。
○金子伯 これだけは献金する、これだけは戻すといふこともあつた。いづれは太政官札を作つた時に札で払つたか、公債證書で払つたか、そこは精しくは知りません。とにかく新政府の金は少ししかなかつたと思ひます。
○清水 今日の言葉でいへば国家総力戦ですね。さういふ商業階紱の人達が全部朝廷のためにあるものを捧げて明治維新の完成に一つの役割を果してゐるのですね。
○金子伯 さうです。各々の役割をつとめたのです。今日富豪征伐とかいつて私共のところへ変な印刷物が来ることがあるが、維新の時は三并・大丸・鴻池とか住友の貢献で政府は維持してをつたのです。
○清水 他の人がどうかう言はなくても、日本の商業階級がいざといふ時に御奉公するといふ歴史的な事実ぢやないでせうか。
○金子伯 薩長は十万石づつ献納した。従つて各藩もそれに応じて一割づゝ出した。大名は大名でちやんと献納した。ですから維新といふものはさう容易に出来たものぢやないですよ。
三、明治維新に挺身した指導的人物
廃藩置県までの一流政治家
○清水 廃藩置県までの第一流の政治家はどういふ風になりますか。
○金子伯 三条・岩倉が上にをつた、下では西郷が一番偉かつた。それから木戸・大久保、それと長州の広沢兵【ヒヤウ】助、彼は明治三年だつたか四年に暗殺された。
○清水 相当皆さん若かつたやうですね。
○金子伯 みんな卅以内でせう。
○清水 征韓論の問題では三条さんは卒倒したやうなこともあつたさうですね。
○金子伯 心配したでせうからね。島津久光は袂〈タモト〉を蹴つて帰て行く。副島〔種臣〕も後藤象二郎もやめる。江藤新平もやめて故郷へ帰つてしまつた。西郷がやめると桐野利秋もやめ、篠原〔国幹〕といふ近衛兵の隊長もやめて帰つてしまつた。近衛兵は薩長の御親兵を明治四年〔一八七一〕に献納したものであるから、その錚々たる幹部連中は西郷と一緒に鹿児島へ帰つてしまつた。ですから三条さんも弱つてしまつたのでせう。
○清水 最近人物だ払底してゐるといふ声が高いが、伊藤博文・山県有朋等の諸公の高邁な精神力を身近に色々御経験になつたと思ひますが、適切なお話はありませんか。
○金子伯 伊藤・井上・山県等といふ人は秀才であつたらしいですな。木戸・大久保・西郷等の先輩に献策をしたことはあつたやうです。それの例があります。横浜・長崎・函館は開港してゐた。欧米諸国は神戸開港を迫つて来たが、幕府が倒れて王政維新になり、神戸開港が面倒な問題になつた。その時伊藤さんは県令として兵庫へ行った。ところが姫路の殿様〔酒井忠邦〕が王政維新になつた以上、三百諸候を潰して郡県の制度にすべきだと木戸に取次いでくれと伊藤さんに言つて来た。伊藤さんは木戸の乾児〈コブン〉です。京都へ行って木戸に話した。その頃は薩長あたりでも廃藩置県など言ふのはなかつた。ところが木戸は、……今そんなことを言ふと日本国中が蜂の巣を突いたやうになる。俺だけはちやんと肚〈ハラ〉の中に決つてゐるぞ、唯問題は時機だ。今公けにしたならば大変だから握り潰して置け。……と伊藤さんに言つた。木戸は既に廃藩置県といふことを頭の中に持つてゐたのである。とにかく廃藩置県を出したのは姫路が第一である。木戸・大久保とか西郷が上にゐて薩長の荒武者を意の如く使つてゐた。そして親分が死ねば親分の跡を継いで行つた。今日の政治家から見れば色々意見もあらうが、どうも今日は親分乾児といふ政治家の関係がなくなつて来たやうでずね。伊藤・山県は大村益次郎あたりの訓陶も受けた人です。皆由来するところがある。元勲の意思は第二の元勲が受継いでやつた。第二の元勲が今度は第三の元勲にそれだけの訓陶を与へたかどうか、又第三の者が受けたかどうか、問題でしてね。【以下、次回】
清水伸は、征韓論の問題で、三条実美が「卒倒した」件について聞こうとしたようだが、金子堅太郎の答は、的外れのものになっている。閣議で征韓論についての論争があったのは、一九七三年(明治六)一〇月、太政大臣・三条実美は、西郷隆盛の派遣を決定したが、これに岩倉具視、大久保利通が反発して、辞表を提出した。混乱に陥った三条が卒倒したのは、この時だったという。このあと、岩倉が太政大臣臨時となり、西郷の派遣は延期された。
また金子は、「伊藤・井上・山県等といふ人は秀才であつたらしい」と述べている。この「井上」は、井上馨を指しているのであろう(井上毅を指している可能性もある)。
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