◎終戦の場合の訓示を用意した下村定大将
藤本弘道『陸軍最後の日』(新人社、1945)から、「大局は動かず」の章を紹介する。かなり長いので、何回かに分けて紹介したい。
大 局 は 動 か ず
かうした陸軍最上層部の動きに対して、末端である各地部隊の将兵の動きは如何〈ドウ〉であつただらうか。
それは、中央が一般の情報に暗かつたと殆ど同様の理由で、中央の情勢動向には暗く、その終戦を判然と知つたのは玉音の御放送があつて後のことであつたため、そこに動揺があつたとしても、十五日以降のこととなるのである。
彼等はそれまで、たゞ本土決戦にのみ馬車馬式に眼を向けてゐた。そして中央に対する監察眼は閉ざされ、軍人たるものは上司の命令を遵奉〈ジュンポウ〉してさへゐれば決して間違ひはないのであるとする軍人教育の実際が忠実に護られてゐた。
それでも、ときたま、接触面を持つ一般民間から中央部の面白からざる噂を聞かぬでもなかつたが、さうした場合彼等はその噂の真偽をたしかめる以前に於いて、地方人が何を知るか、軍のことが地方に判つてなるものかと、その一切を否定してしまふやうに習慣づけられてゐた。
軍隊が、軍人が絶対に日本の中心であるとする物の見方から、一般世間、大衆を、地方或ひは地方人と呼びならし、軍服を最上として背広を商人服といやしめるなど、所謂軍人に非ざれば人に非ずとした態度は、彼等の謂ふところの地方からかへつて反撥的にきらはれ、むしろ東條〔英機〕大将の性格による情報の入手難といふことよりも、さうしたことにずつと大きな障害になつてゐたことは確かである。
外地部隊に於いてもやはり同様の現象はあつた。而もそれが中央部から離れ、絶えず作戦の関係で移動してゐただけになほさらであつた。
終戦の玉音御放送を聞いた北支軍に於いてもそれが全く予期しないことであり、北支に於いては特に皇軍が敗けてゐるといふ実情とは全くかけ離れてゐた状態にあつたために、その瞬間に於いてはかなりの対外、対内的の衝動があつた。
玉音の御放送のあることはかねて中央部から通達されてゐたのであるが、彼等とてもやはりその御主旨となるべきことは現戦局に対する最後の奮闘を御要請あそばさる尊い玉声であらうと考へ、当時の北支最高指揮官下村〔定〕大将は、玉音御放送終了後隸下全部隊に与ふるその意味の激励の書を用意してゐた。しかしその前夜、数日来の支那人の動き或ひは重慶側放送の様子から、もしかすると北支軍が考へてゐることと全然反対の立場になるかも知れぬといふことに考へついた下村大将は、場所が外地であるところから、もしさうなつた場合は即座にこれに対処すべき手をこちらからうたねば大変なこととなると、密かに終戦の場合の訓示及び部隊に対する用意を単独に徹夜で完了、翌日に望んだのである。それがために瞬間的の動揺はあつたが、大いなる醜態を演ずることなく、事態を処理することが出来た。
しかしこれは実に特殊の例で、それとても最高指揮官の軍人的短見を抑制した機敏なる判断が事態の実通しをあやまらなかつたといふことにすぎなく、結局は中央の様子はそれまでに判らず、これに対する万全の対策が考へられてゐたといふのでもない。【以下、次回】
今日の名言 2023・8・10
◎軍人に非ざれば人に非ず
戦前戦中の軍人が抱いていた人間観を批判的に表現したと思われる言葉。上記コラム参照。
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