礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

桃井銀平論文の紹介・その3

2016-08-29 04:43:42 | コラムと名言

◎桃井銀平論文の紹介・その3

 今月22日からの続きである。桃井銀平さんの論文「日の丸・君が代裁判の現在によせて(1)」の三回目の紹介である。
 論文は、A4で一八ページに及ぶ長文だが、本日までに、約半分を紹介したことになる。

(3) 蟻川恒正と日本における<憲法的思惟>
① <教師としての思想・良心>の優位
 蟻川恒正は研究者としての出発点から、国旗国歌強制問題については強い問題意識を持ってきた。裁判や運動の現場からは一歩離れた地点からではあるが重要な論考を次々と発表してきた。彼の最初の著作『憲法的思惟』(創文社、1994)は、1943年にアメリカの小学校における国家忠誠宣誓儀礼強制を憲法違反としたバーネット判決及び首席裁判官ジャクソンの思想を近代立憲主義の立場から読み解いた名著とされている〔11〕。
 蟻川が、2011年5月末から6月にかけて相次いで下された国旗国歌関係の一連の最高裁判決の分析において重視した点の一つは「私的」なものとは区別される「公的」な思想・良心を主張した事例があったことである。一つは彼が最初の最高裁判例として分析の中心対象とした2011年5月30日最高裁第二小法廷判決(蟻川はこの判決を「不起立訴訟最高裁判決」と呼んでいる。)である。それは、不起立で懲戒処分を受けて定年後の再雇用を拒否された一人の都立高校教師を原告とするものである。そこでの原告の思想・良心とは、判決文に拠れば以下のとおりである。
「上告人は、卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について、日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人、在日中国人の生徒に対し、「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは、教師としての良心が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは、「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる〔12〕。」
 蟻川が「公的」な思想・良心という点で重視した今一つの事例は、彼の要約によれば以下のような思想・良心を主張したものである。
「職務命令それ自体は上記不起立訴訟最高裁判決(2011年5月30日判決-引用者注記)と同質のものであるが、自らは公私にわたり日の丸・君が代に敬意を表する行動をとることを進んで行う教諭が、自らが担任するクラスに、在日中国人の生徒・旧日本軍との戦争で敬愛する祖父を亡くしたイギリス国籍の生徒がいることから、彼らの前でいわゆる起立斉唱行為をすることは教師としての良心が許さないと考え、上記職務命令に違反していわゆる起立斉唱をしなかった場合〔13〕」
 蟻川は、教師の責務を強調したこれらの原告の思想・良心を重視する。
「この両事例におけるような不起立行為者の「真蟄な」動機は, それを有する者に対して格別の配慮をすることなく発出される職務命令の憲法19条適合性を判断するに際しても何らかの形で「較量」要素とするに値するものを含んでいると考える余地があるにもかかわらず. 上述のように, 公私の別を問う良心(後者-引用者注記)であるか, それとも, 公私を通じて貫徹される良心(前者-引用者注記)であるか, の違いに法的処遇の上での差異をもたらす可能性がある」
不起立訴訟最高裁判決(2011年5月30日判決)は思想・良心の「公私の別」に関わる論点を顧慮していない。しかし、別個の判断枠組みの採用も考えられるという。
「不起立訴訟最高裁判決とは異なる「判断枠組み」 (公教育の場においては私的良心を貫徹することではなく教師としての職業的良心にもとづく「やむを得ざる」行動をより尊重すべきであるとする思考前提に立った判断枠組み」) を自覚的に採用すれば、その「判断枠組み」のなかで上記論点に関する事実を(むしろ事柄の主要な側面にかかわるものとして) 取り込むことは充分可能であり. 場合によっては, 望ましくもありうる 。」〔14〕
 蟻川は2014年の学会報告〔15〕ではこの点についてさらに踏み込んでいる。彼によれば、一連の最高裁判決で採用された事案類型分析が思想・良心の自由に対する「間接的な制約となる面がある」事案類型となった前提には、最高裁が原告の行為のみならず主張に対しても「一般的、客観的に見る」方法論をもちいて「「私的」世界観」として一括した判断が存在しているという。最高裁は原告が行った主張の中に「「私的」世界観の保護」を求める部分があったのにつけ込んで、「間接的な制約となる側面がある事案類型」として判断して、審査基準としては緩く「事案類型をほとんど絞り込まずに憲法判断をしようとする」「総合的較量」という判断枠組みに持ちこんだのだという。このような最高裁の論理の流れを「インターセプト」するためには、「原告は、「私的」世界観の保護を求める主張をしないか、そうでなければ、するとしても、その主張と「公的」な主張とが完全に切れたものとなるような主張を自覚的に組み立てる必要がある」という。 さらに蟻川は、憲法の条文では第12条(「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。」)にもとづく理論武装-「教師たる私の権利主張は「公共の福祉」のための権利主張である」とする理論武装」-が必要だとしている。〔16〕
 最高裁の「一般的、客観的に見る」という方法論は、はたして原告の主張を基本的に「「私的」世界観」の保護を求めるものに一元的に解釈してしまったのであろうか。むしろ、「「私的」世界観」の保護を求める主張の存在を認めたからこそ最高裁は迷うことなく憲法19条についての判断をしたともいえるのではないだろうか。また、教師としての「公的」思想・良心の保護に焦点を合わせることは必ずしも「総合的較量」ではない厳格な審査方法の採用の道を開くものとはいえない。職務命令による制約が「直接的制約」であっても、制約を受けた内心がそもそも厳格な審査方法採用如何が問題にはならないような内容のものだという判断もありうる。学校儀式の現場で行われていることの中で、日本の歴史と国家に批判的な個人に対して、大日本帝国と同じ国旗に正対起立して天皇賛歌の歌を歌わせること以上に明確に思想・良心の自由に対する「直接的制約」となりうるものが他にあるのであろうか。そこで厳格な審査方法が採用させることができなくて、いったい何処で採用されうるのであろうか。これは教師だけでなく儀式に参加する生徒・保護者にも共通する問題の本質である。
 蟻川の言う「「私的」世界観の保護」についての主張の分離または取り下げは、かえって(司法及び被告側の取り上げ方次第では)この訴訟を憲法19条論から離脱させて全面的に職務権限論の土俵に移行させてしまう危険性を持つものである。憲法上の人権侵害如何を明確に問題とし得る個人としての権利主張が消失してしまえば、<儀式=集団的教育活動についての考え方の問題であって、合法的手続きに従って決定された儀式の進行とそこでの個々の教師の役割には個人としての考えはさておいて組織人としてしたがうべきである>という論理による処理は、より容易になるであろう。19条の核心である個人としての思想・良心と切り離して主張された「公的」な思想・良心は、(2)で言及した最高裁判事那須弘平の補足意見の射程範囲に入るものである。 

注〔11〕 最近、彼単独の著書が2冊同時に刊行された。ひとつは上記『憲法的思惟』の再刊である。いまひとつは、日本の現実について<憲法的思惟>にもとづいて記された論文集(『尊厳と身分 憲法的思惟と「日本」という問題』)である(いずれも岩波書店から2016年5月刊行)。
注〔12〕 最高裁第二小法廷2011年5月30日、再雇用拒否処分取消請求事件。
注〔13〕 蟻川恒正「不起立訴訟最高裁判決で書く」(『法学教室』NO403、2014.4)p115
注〔14〕  同上p121。
注〔15〕 蟻川恒正「不起立訴訟と憲法一二条」(『尊厳と身分 憲法的思惟と「日本」という問題』(岩波書店2016年)初収。もとは日本公法学会編『公法研究』77号(2015年有斐閣)。学会報告は2014年10月日本公法学会第79回総会。
注〔16〕  同上『尊厳と身分』p179~183
 蟻川は、この場合の権利主張も憲法19条にもとづくものであるようだが、明確ではない。上記『尊厳と身分』所収の書き下ろし論文「「命令」と「強制」の間」では、憲法19条に依拠していることが明確だが、「公的」な主張」の主題化は姿を消している。この論文は、職務命令合憲判断を前提として懲戒処分を違憲としうる「規範命題」を提出したものである。この命題が成立するには教師という職業集団は少なくともある種の職務命令にたいしては服従が自発的意思に基づくべきであるという「社会観念」の成立という不可欠な前提が必要だという。「「命令」と「強制」の間」は2015年5月28日東京高裁判決(不起立に対する停職処分を取り消して慰謝料支払いを命じたもの)を踏まえて書かれている。

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