2015年8月2日 説教要旨
創世記12章1~4、
ローマ人への手紙7章6節
創世記12章にはアブラハムが神の声を聞き、そのことばに従っていったことが書かれています。当時75歳になっており、文化的に発展したハランに住み、何不自由なく暮らしていたアブラハムでしたが、彼は目に見えるものではなく、神のことばに信頼して未開の地に出て行きました。
信仰は神を信じ、神のみことばを信じることであり、その実質は聞き従うことであることがわかります。新約時代の現在においても信仰が私たちの歩みの中心であり、アブラハムの信仰は私たちの手本です。
さて、ローマ7:6では「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」と書かれています。私たちは律法(神のおきて)に対しては死んでいます。私たちは罪人であり律法を全うすることができませんが、それはイエス・キリストの十字架の贖いの死によって全うされ、私たちは解放されたからです。
しかし、信仰生活の中で律法を自分の力や意志で頑張って行おうとしてしまう時、私たちは律法を行えない罪の自分を自覚することになります。
私たちがイエス・キリストの十字架の罪の身代わりを信じた時に救われたように、信仰によって、信仰の歩みによってしか律法を全うすることはできません。
具体的には律法に対してもすべて信仰によって、神がそれを行えるように変えてくださる、してくださると信じる事、受けたと信じた信仰の対応をとることがポイントであることを覚えてください。
律法のことに関わらず、神さまは信仰によって何事でもできるという道を私たちに開いてくださいました。その道を歩んでいきましょう。
創世記12章1~4、
ローマ人への手紙7章6節
創世記12章にはアブラハムが神の声を聞き、そのことばに従っていったことが書かれています。当時75歳になっており、文化的に発展したハランに住み、何不自由なく暮らしていたアブラハムでしたが、彼は目に見えるものではなく、神のことばに信頼して未開の地に出て行きました。
信仰は神を信じ、神のみことばを信じることであり、その実質は聞き従うことであることがわかります。新約時代の現在においても信仰が私たちの歩みの中心であり、アブラハムの信仰は私たちの手本です。
さて、ローマ7:6では「しかし、今は、私たちは自分を捕らえていた律法に対して死んだので、それから解放され、その結果、古い文字にはよらず、新しい御霊によって仕えているのです。」と書かれています。私たちは律法(神のおきて)に対しては死んでいます。私たちは罪人であり律法を全うすることができませんが、それはイエス・キリストの十字架の贖いの死によって全うされ、私たちは解放されたからです。
しかし、信仰生活の中で律法を自分の力や意志で頑張って行おうとしてしまう時、私たちは律法を行えない罪の自分を自覚することになります。
私たちがイエス・キリストの十字架の罪の身代わりを信じた時に救われたように、信仰によって、信仰の歩みによってしか律法を全うすることはできません。
具体的には律法に対してもすべて信仰によって、神がそれを行えるように変えてくださる、してくださると信じる事、受けたと信じた信仰の対応をとることがポイントであることを覚えてください。
律法のことに関わらず、神さまは信仰によって何事でもできるという道を私たちに開いてくださいました。その道を歩んでいきましょう。