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説教要旨とみことば

いのちの冠福岡教会の礼拝説教の要旨と聖書のことばです。

2017年9月24日 説教箇所

2017-10-17 22:10:42 | 説教要旨
2017年9月24日 説教箇所 
エペソ人への手紙5章10節~20節

そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。
実を結ばない暗やみのわざに仲間入りしないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。なぜなら、彼らがひそかに行っていることは、口にするのも恥ずかしいことだからです。
けれども、明るみに引き出されるものは、みな、光によって明らかにされます。明らかにされたものはみな、光だからです。それで、こう言われています。「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意し、機会を十分に生かして用いなさい。悪い時代だからです。
ですから、愚かにならないで、主のみこころは何であるかを、よく悟りなさい。
また、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。
詩と賛美と霊の歌とをもって、互いに語り、主に向かって、心から歌い、また賛美しなさい。
いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。

2017年9月17日 説教要旨

2017-10-14 22:08:08 | 説教要旨
2017年9月17日 説教要旨 
エペソ人への手紙5章1節~9節

「ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。」

私たちはイエス・キリストの十字架を信じた時に罪が赦され、神の子どもとなります。その私たちを神は愛しておられます。どのような愛で愛されているかというと、そのままの私たちを愛しておられます。罪人であり、弱い者、愚かな者である私たちを愛しておられ、十字架でひとり子のイエス様を私たちの身代わりにするほど愛され
ています。しかし、私たちの方で実感がなかったり、よくわからないことがあります。このとき、問題なのは神様に接しないとわからないのです。大切なのは神様に触れ、交わりをもつことです。問題やすべてのことを神様の前に出して祈ったり、すべてを感謝したり、罪は悔い改め、教会に繋がり、主に従っていくときに私たちは神様を体験し、神様の愛を知っていきます。私たちが神様の愛を体験的に知っていかないと、真に「神様にならう者」、人を愛したり、「愛のうちを歩む者」となっていかないのです。

「あなたがたの間では、聖徒にふさわしく、不品行も、どんな汚れも、またむさぼりも、口にすることさえいけません。また、みだらなことや、愚かな話や、下品な冗談を避けなさい。そのようなことは良くないことです。むしろ、感謝しなさい。」

聖徒とはイエス様を信じた者のことです。私たちは罪人ですが、イエス様という尊い犠牲が払われているゆえに聖徒なのです。不品行は性的な罪、けがれは神様以外の霊的なものに触れること、むさぼりは貪欲などです。それらは口にするのもいけない、そして感謝に口を用いなさいと言われています。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためは、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」また、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」と聖書は言っています。私たちは信仰を用い、悪いと思う事や失敗、問題もすべてを感謝する時、神様が私たちの益のために働いて下さるのを見ます。

2017年9月10日 説教要旨

2017-09-24 19:23:38 | 説教要旨
2017年9月10日 説教要旨 
エペソ人への手紙4章25節~32節

「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」
先週は、私たちが古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るという事について学びました。新しい人とはイエス・キリストの身代わりの十字架を信じ、罪を悔い改め、罪が赦され、永遠の命が与えられます。そして霊が生きたものとなった人のことです。ただ、ここで問題なのは私たちにその感覚がないことです。しかし、これは真実なので、大切なのはまず「新しい人になった」ことを信じ受け取ることです。主が言われたことを受け取るかどうかは、主の言葉の成就や実質と直接関わってきます。次に新しい人の歩みをすることです。私たちは罪人なので自分の意志や力でそれをすることができません。信仰の対応が必要なのです。「全てのことを感謝しなさい」また、「神の計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」とありますから、問題や困難、そして人から何か害を受けた時も感謝をしていくのです。また、罪を悔い改めることです。どんな罪も悔い改めれば赦して頂けますが、そのままにする時に、罪を犯しているという感覚が無くなっていきます。また、握っている罪があるなら捨てなければなりません。そして主に従うのです。その時に新しい人の実質が現れてきます。もし、私たちが新しい人になったことを受け取らず、信仰を用いないならば、新しくされているにも関わらず、古い人の実質しか現れてきません。古い人の実質は25~31節にある通り、偽りを語る、怒り続ける、盗みや不正、悪いことばを語る、無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしり等等です。そしてそれは神の聖霊を悲しませんることになります。しかし、新しい人の歩みをしていく時に、(32)「お互いに親切にし、心の優しい人となり、神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、互いに赦し合いなさい。」という歩みへ変えられていきます。

2017年9月3日 説教要旨

2017-09-21 22:17:13 | 説教要旨
2017年9月3日 説教要旨 
エペソ人への手紙4章11節~24節

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」

ここで五職と教会のことが述べられています。私たちはイエス様を信じる時に新しく生まれます。そして神の子になります。また、同時に私たちはキリストの体である、教会の一部となります。教会に関してはふた通り聖書に書かれています。
① カトリック、ギリシャ正教も含めて救われた人たちの群れ。
② 各教会の身体の一部(たとえば、いのちの冠福岡教会の身体の一部)
身体にいろいろな部分と機能があるように、それぞれに役割や働きがあります。「力量にふさわしく働く力により」と書かれているように皆さんお一人ひとりを通して身体全体が機能していくのです。そしてあらゆる結び目とあるように、礼拝に来るとか、いろいろな結び目があって、それを通して成長していくます。
「異邦人」と書いてありますが、ここではクリスチャン以外の方々のことを指しています。神を信じていない時、むなしい心で歩んでしまうということです。むなしくない事とは神様と神の言葉を信じる歩みです。ノンクリスチャンの方は人のことば(自分の思いや、他の人のことばしか持っていませんが、クリスチャンは神のことばが与
えられています。しかし、自分を見ると新しくなっていないと感じたりします。感じなくても実際に新しくされているのですが、信仰を用いなければその実質が現れてこないのです。たとえば「すべてのことについて感謝しなさい」とあり、神は「すべてを働かせて益としてくださる」とあります。もし私たちがみことばを信じ、感謝し従うなら新しくされた人の実質が現れ始めるのです。

2017年8月27日 説教要旨 

2017-09-09 13:57:37 | 説教要旨
2017年8月27日 説教要旨 
エペソ人への手紙4章5節~13節

「主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」

イエス・キリストを信じ救われた者に同じ聖霊がおられます。そして誰一人例外なく、神からの賜物が与えられています。賜物は①実際的な賜物②霊的な賜物があります。賜物は最初から顕著に現れる人もいますが、多くは訓練を通して明確に現わされてきます。神のために忠実に用いることが重要です(マタイ25章)。また、神は私たちの長所を用いられますが、短所、欠点をも通して栄光を現わされます。欠点を忌み嫌うことなく、それを感謝し、主に捧げて行きましょう。欠点をも与えられた主が働かれます。

そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」──この「上られた」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです──こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

教会は五職の働きによって成長し、発展し、完成へと導かれています。この形が本来の教会の働きです。しかし、使徒の働きの時代以降、途絶えていましたが1906年のアズサリバイバルを始めとして後の雨の時代が始まり、1950年頃からは使徒団の働きが始まってきました。レストレーション(回復の教会)と言いますが、主の十
字架CCの教会もこの流れの中にあり、聖書が書いている本来の教会の働きへと向かっています。
  (説教要旨を書いて下さる方を募集しています)