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満州事変、5・15事件、2・26事件に見られる朝日新聞の論調

2023-04-12 22:58:07 | メディア

 1931(昭和6)年9月18日に満州事変は起こった。その概要は、

➡関東軍が満州(現中国東北部)奉天(現瀋陽)の柳条湖で南満州鉄道(日本の半官半民の国策会社)線路を爆破、それを「中国軍」の仕業とし(謀略)、「自衛」と称して軍事行動を開始。立憲民政党第2次若槻礼次郎内閣(1931年4月~31年12月)は不拡大方針を表明したが、閣内不一致で総辞職。関東軍は不拡大方針を無視し、32年1月までに満州全域を占領、3月には満州国を建国した。立憲政友会犬養毅首相(1931年12月~32年5月)は満州国の建国と承認に反対したが5.15事件で暗殺され、海軍大将斎藤実内閣(1932年5月~34年7月)が満州国を承認した。

 満州事変直前の論調はどのようなものであったか。朝日新聞は「大阪朝日新聞」と「東京朝日新聞」に分れており、特に「大阪朝日」は軍備縮小や軍部批判の論調が強かった。同年4月19日の社説「内閣の決心を示せ 軍備整理の実現につき」では「軍部の一手に軍制改革の大事業を任せて置く事はわが国策のうえに多大の不安が伴生するおそれがある。この上は内閣の方針として軍備整理及びこれに伴う経費節減額を決定し内閣において断然これが実行の決心を示すべきである」と軍縮断行を強く要求

同年8月8日の社説では「軍部が政治や外交に嘴を容れ、これを動かさんとするは、まるで征夷大将軍の勢力を今日において得んとするものではないか。危険これより甚だしきはない。国民はどうしてこれを黙視できようぞ」と主張。

同年9月17日の社説では「故に吾人は若槻首相に望む。昨今満蒙問題の論議、漸く激化せる折柄、軍部の興奮を善導して意外の脱線行為をなからしめ、これを支柱として対支外交に清鮮味を加えてその基礎の上に国際正義に基づく近代的外交の殿堂を築き上げんことを。これが何人かの手に成し遂げられなければ、徒に退嬰の結果による衰退か、または猪突主義による転落か、日本の運命は二者その一つを出でないであろうことを確信する」と中国と外交による解決を要望

そして、1931年9月18日、満州事変起こる。

同年9月20日の社説「日支兵の衝突 事態極めて重大」では、「中国軍の仕業」と断定し、「わが守備隊が直ちにこれが排撃手段に出たことは当然の緊急処置といわねばならぬ」と自衛のための武力行使は当然と主張。

同年10月1日の社説「満蒙の独立 成功せば極東平和の新保障」では「満州に独立国の生まれ出ることについては歓迎こそすれ反対すべき理由はないと信ずるものである」と中国からの満州独立を喜んで認めた

事変を境に論調が変わった。その原因は何か。後藤孝夫著『辛亥革命から満州事変へ 大阪朝日新聞と近代中国』によると、直接の原因は軍部と密接な関係にあった右翼の内田良平からの圧力だという。それ以前から社長や役員に対する襲撃事件や社屋への乱入事件など、右翼がテロの標的としていた。また、在郷軍人や軍部、右翼などが、朝日新聞に対する不買運動を展開した。このような嫌がらせや妨害を受けてきた上での内田の圧力によるものといわれる。

大阪朝日新聞は、同年10月12日には重役会議を開き、軍部批判を中止し軍部を支持する事、東京朝日にも同調させる事を決定(満州事変に対する社論を統一)したといわれる。

朝日新聞は満州事変後、事変の報道を強化して読者を煽り、喜び夢中になるような紙面作りをした。そのため発売部数は拡大し、利益も増大した。報道の特徴はどのようであったか。①軍の発表を受け、事態の変化を追認、②衝撃的な話や写真を好んで掲載、③勧善懲悪型で日本軍を善、中国軍を悪とする、④戦場を誇張、銃後の美談を報道

政府や軍部などの言論統制だけでなく、自ら進んで戦争を肯定し、敵国への憎悪をかきたて国民を戦争へ駆り立てた。満州事変に関する講演会や映画上映も頻繁に実施した。

1931年10月16日には社告「満州に駐屯の我が軍将士を慰問、本社より壱万円、慰問袋二万個を調製して贈る」を載せ、朝日新聞が費用を負担して満州の前線将兵に日用品など様々な品物を詰めた慰問袋を送り直接軍を支援した。同時に読者に対して「慰問金募集」も呼びかけ、巨額の慰問金を集めた。

1932年の5・15事件に対する論調はどうか。東京朝日新聞や読売新聞など他紙が事件参加者に同情的で、政治の無策を批判したのに反して、同年5月16日の社説「帝都大不穏事件 憂うべき現下の世相」では「陸海軍の軍服を着したるものの暴行(警視庁発表)なりというに至りては、言語道断、その乱暴狂態は、わが固有の道徳律に照らしても、立憲治下における極重悪行為と断じなければならぬ」「今回の団体的暴挙は、例えその動機に如何様のもの含まるるも国憲擁護の上からその行為はこれを厳罰に処し、またと再びかくのごとき事の繰り返さざるよう国民一般に戒慎しなければならぬ」と主張。

同5月17日の社説でも「テロ」や「ファシズム」を排撃した。しかし、5・15事件に関連した大阪朝日新聞の軍部批判はこの2回で終わる。

1936年の2・26事件に対する論調はどうか。この事件では東京朝日新聞の社屋なども襲撃されたが、同年2月29日の東京朝日新聞社説「一億臣民一致の義務」では「二十六日早暁、帝都に起こりし大不祥事は、国の内外の驚きであり、今更いう言葉を知らぬのであるが、これを機会に国体を一層安泰にし、政治の刷新にまい進することが、国民全体の負担する第一の義務であると信ずるのである」と主張。同年3月1日の東京朝日新聞社説では、軍部首脳の責任を追及するのでなく、反乱を鎮圧した軍当局に「敬意を表する」というものであった。

朝日新聞は、2・26事件を期して、政府や軍部に対する姿勢を転換し、同調・迎合し、日本の侵略を全面的に支持し、読者や国民に対し戦争への協力を訴え戦意高揚を図る論調を強める。

このような動向は、他紙も大同小異であった。読売新聞社の正力松太郎氏は、満州事変に際して、「戦争は新聞の販売上絶好の機会」と語り、夕刊発行に成功したという。

今日、マス・メディアに携わる者は、この歴史から何を教訓として学んでいるであろうか。

(2015年12月20日投稿)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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