ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「男が泣ける昭和の歌とメロディ―」

2012-02-08 17:22:07 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「男が泣ける昭和の歌とメロディ―」という本を読んだ。
昭和の時代の歌が楽譜と共に記されていたが、著者は三田誠広氏だ。
1948年大阪生まれと言う事で、押しも押されもせぬ全共闘世代の作家である。
そういう人が昭和の日本の歌謡曲について自分の思い丈を綴ったという体裁の本であった。
その中のいくつかには私自身も大いに共感を覚えるものがあったことは確かであるが、出だしから『海ゆかば』が出てきたのには驚いた。
この歌は、戦前から戦時中にかけて、戦意を鼓舞する為に大いに歌われたと記憶しているので、そういう歌を全共闘世代の人間が真っ先に持ってくることへの違和感がどうしても先に立った。
その後に『インターナショナル』である。
この『海ゆかば』は、第2の国歌とも言われていたらしいが、私としてはどうにも好きになれない歌の一つであった。
第1の国歌『君が代』も、私個人としては好きではないが、好きでないからと言って、世俗的な式典で頑なに国歌斉唱を拒むほど強固なイデオロギーを持ち合わせているわけではない。
好きでないから、何が何でも、死んでも、殺されても歌うことを拒む、という人間は一体何がどうなっているのであろう。
好きであろうがなかろうが、『君が代』が日本国の国歌であることは否定できないわけで、この歌が「陰気臭くて、現代の日本の雰囲気に合っていないから変えてはどうですか」という議論ならば、大いに参加することに意義を見出せるが、「自分の祖国の国歌だから何が何でも口にしない」日本人というものを、どういう風に考えたらいいのであろう。
日本人以外、例えばアメリカ人、イギリス人、中国人、韓国人、北朝鮮の人々、ドイツ人、フランス人に、自国の国歌を否定し、晴れの式典で祖国の国歌を歌わない国民が果たしているのであろうか。
先の戦争で、その国歌を歌って若人を死出の旅に送りだしたから嫌悪する、という言い分は分からないでもないが、そんなことは普通の主権国家ならばごくごく当たり前のことで、出征兵士を送りだすのに他にどんな歌があるのかと言いたい。 
『君が代』の話はさておいて、この『海ゆかば』も大伴家持の歌が元だとされているが、日本の歌というのは神様に奉納するための雅楽が元にあるものだから、どうしてもゆるいテンポの間延びしたような雰囲気で奏せられるので、私のように軽重浮薄でオッチョコチョイな人間には合わない。
これこそが典型的な日本のメロディ―なのかもしれないが、こういうものは私には合わない。
合わないから式典の際にも歌わないというわけではなく、国歌である以上、それは日本国民としてミニマムの礼儀は示すべきであって、国歌斉唱の時に座ったままでいるというわけではない。
私自身この『海ゆかば』という歌の存在は知っていたが、自分の耳で直接聞いた記憶はほとんどない。
インターネットなるものが普及して、自分でもyou tubeで検索できるようになって始めて「こういう歌だったのか」という感じがしたものである。
この本の著者が1948年生まれ、私が1940年生まれであって、これだけの年令差があったにも拘らず、私が如何に無知な人間かを改めて悟った。
この著者は言うまでもなく全共闘世代であるが、この世代のものがこういう歌に何らかの思いを寄せるということは、その精神の基底に何かしら戦前の雰囲気に相通じるものがあって、共感する部分があるからではないかと勝手に想像している。
昭和の初期の時代、1925年から太平洋戦争が終わるまでの日本の政治はまさしく奇態の時代であって、人々の政治的感性が麻痺していた時期であった。
この時代に、そういう状況をもっとも憂いたのは純情で頭脳明晰な若い人達っであって、そういう人たちはある意味で政治的騎士であった。
そういう連中が世直し、政治の腐敗、資本家の労働者搾取、農村の疲弊という現実の是正を真剣に考えたうえで、直接行動に出た結果が、今日言われている5・15事件であり、2・26事件であった。
だから、彼ら若手の青年将校の決起に対する動機と行動には世の人々がある程度共感を覚えた。
この部分が当時の国民の愚昧な部分であって、世の矛盾を直接行動で是正しようという発想そのものが邪悪な思考であって、戦後の全共闘世代も同じ思考に蝕まれていたが、戦後は世間がそれを許さなかった。
戦後の雰囲気としては、「現実の世の中を良くするための、止むに止まれぬ憤怒の発露であろう」という若者の独善的な思考に同情を寄せるものは居なかったわけだ。
このように戦前の青年将校の戦後バージョンとして、戦後の復興の中で歪の是正をうたい上げたのが、いわゆる全共闘世代だったと私は思う。
彼らの親は、あの戦時中の悲惨で不自由で惨めな生活を体験しているので、自分の子供達には同じ経験をさせたくない、と願うと同時に自分自身も、目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように一目散に駈けていたわけで、子供が学校にさえ行っておれば、それを由としていたのである。
こういう政治運動に首を突っ込む若者は、政治感覚に極めて早熟であったに違いない。
だからこそ、世の中の矛盾に若い時から我慢ならず、直接行動に出て、その矛盾を是正するという思考に至るのではないかと推察する。
その精神の成熟の度合い、政治的感覚の早熟性というものは、人間の成長の早い時期に具現化したのが、こういう青年将校や全学連の政治的運動という形で世間に認知されたのではなかろうか。
この『海ゆかば』という歌は、若者の精神を高揚させる要因はまったく内包しておらず、明らかに死者に対する鎮魂歌であって、これを聞いたからと言って気分が高らかに高揚するものではない。
それと相対して『インターナショナル』という歌は、まさしく革命を高らかに歌い上げているわけで、その文言の実に下品というか、おどおどしいというか、血生臭いというか、人命軽視というか、革命、暴力、人殺し、粛清、監禁という行為を是認する言葉でまぶされているではないか。
まさしくロシア革命を称賛して止まない、血で血を洗う革命の本質を、そのまま歌い上げているわけで、全共闘世代で、学生運動あるいは政治活動に明け暮れた共産主義者乃至はそのシンパの心情を見事に具現化した内容だと思う。
20歳代の前半という時期に、こういう精神風土の中で生きていたとすれば、その後の本人が既存の社会の価値観に順応することは甚だ難しいと思う。
人の集まり、つまり既存の社会の中には人間の英知では克服できない矛盾というのは掃いて捨てる程内在しているわけで、それを青白い青年の潔癖性で打破しようとしても、安易にできるものではない。
「貧富の格差の是正」と言ったところで、そんなことは人類誕生の時からあるわけで、人が今まで生きて来たということは、そういう矛盾を引きずりながら生きてきたわけで、それを今是正すると言ったところで出来るわけがない。
「戦争の撲滅」というテーマでも同じことが言えるわけで、戦争は人類の誕生と同時にあったに違いない。
これは矛盾ではなく、人が生きるための必然であって、自分が生きようとすれば誰かを犠牲にしなければ自分自身が生き残れないということだと思う。
この世における他者の犠牲というのは、何も戦争の犠牲者だけを指すのではなく、「貧富の格差」の貧者の側の存在も明らかに生存競争の犠牲者の立場だと考えざるを得ない。
若者が、こういう矛盾を追及する行為そのものは、極めて若者らしい青春群像であるが、日本人でも何処の国の若者でも、民族のDNAに根ざした独特の思考というのは、きっと存在すると思う。
アメリカの青年にも、韓国の青年にも、中国の青年にも、ブラジルの青年にも、その国の若者らしい若者の気風というものがあるように思う。
第2次世界大戦の終了は、1945年の5月にヨーロッパで、8月には太平洋で終わったわけで、この戦いに駆り出された兵士は、この時期を境に祖国に帰還したに違いない。
現役の兵士が祖国に帰還すれば、真っ先にすることは恐らく、愛の交換、愛情の確認、愛の結実であったに違いなく、結果として赤ん坊の誕生ラッシュではないかと思う。
だとすれば、全共闘世代というのは日本だけではなく世界的規模でベビーブームが起きていたわけで、この赤ん坊が成人に達し、政治活動、あるいは学園紛争に身を投じる時期は、必然的に1960年代から70年代となるわけで、この時期は地球規模で新しいムーブメントが湧きおこったことも大いに頷ける。
この地球規模での新しいムーブメントの中で、日本だけの特徴といえば、我が民族の新しいジェネレーションは、自分の国の尊厳をいささかも信じていないという不幸である。 
その基底をなした大きな理由は、公立学校の先生の組合が共産党員か共産主義者に占領されてしまって、『インターナショナル』に代表される「暴虐の鎖断つ日、旗は血に燃えて……」とか、「圧政の壁破りて固き我が腕……」という精神を注入されたとすれば、我々の次世代が良くなるわけがないではないか。
戦後の公立学校で教わる内容には、個人の夢実現へのフォローには極めて寛大であるが、公に尽くす、公衆の為に、人々の為にというフレーズは影をひそめてしまって、個人の利益のみが大手を振って罷り通る世の中になってしまった。
この理由の大きな源泉は、戦後のベビーブーマーたちの置かれた環境が余りにも豊かになりすぎて、反体制、反政府というポーズでも生きていけれる、拘束されない、牢屋に入れられない、という状況があるからだと考えられる。
それが民主主義の成果ではあるが、究極の民主主義というのは、限りなく衆愚政治に近いということでもあるわけで、全員が納得する政策などというものはあり得ないにも拘らず、それを争点としているわけで、結果として政治は限りなく混迷するだけで、前には一歩も進まないということになる。
戦後世代の著者が、自分の歌へ思いのトップに、『海ゆかば』と『インターナショナル』を持ってきたことには正直驚いた。
他の歌は、本人の体に沁み込んだ成長の過程の柱の傷のようなもので、私としては共感を覚える部分もあったが、新しいフォークソングやシンガーソングライターにも傾倒していたという意味では、私よりも音楽の感性が豊かだなという思いは残った。
本の題にも「昭和の歌」となっていることは「歌謡曲が主だよ」ということを示唆しているのかもしれないが、他のジャンヌに関する記述が無いのがもの足らない。
私自身のことを述べれば、若い時にはステレオに少しばかり凝っては見たが、所詮、全財産を継ぎ込むほどのめり込んだわけではなく、中途半端に終わったが、それでもなけなしの金をはたいて買ったLPやCDが今でも残っている。
それを今はウオークマンに入れて、隙間の時間に聞いている。
ウオークマンのイヤホーンを耳に突っ込んで聞いていると、昔、高い金を出して買ったステレオのことがバカらしくなってきた。
又、昔買ったCDがコンピュータを介してウオークマンに入るというのも実にすばらしいことだと思う。
まさしく文明の利器そのものだ。