例によって図書館から借りてきた本で、「官愚の国」という本を読んだ。
サブタイトルには「なぜ日本では政治家が官僚に屈するのか」となっていて著者は高橋洋一氏ということだ。
奥付きによるとこの著者は東大を出て大蔵省に入省した高級官僚、いわゆるキャリアー組であったということだが、安部内閣の時に、安部晋三の辞任と共に下野したと本人は書いている。
この本の前半の官僚批判は、私の考えていたことと全く軌を一にするもので、大いに共感を覚えるが、後半は組織内部の腐敗を曝け出す内容で、当事者でなければわかりえない事ばかりであった。
この本の中に登場してくる「官僚の修辞学」という文言は、甚だ興味ある部分であるが、その前に転勤の頻繁な繰り返しも大いに考えさせられる内容だと思う。
この著者も、大蔵省の官吏として四国の小さな町の税務署長を20歳後半の時期に1年間経験したと述べられている。
組織に新しく採用された人が、組織全体の業務を掌握するために、方々のセクションに転勤するということは、本人の知識を蓄積するのには良い機会だとは思う。
キャリアー組の高級官僚が、自分の組織の末端で如何なる業務をしているのか、を知ることは極めて重要なことだと認識している。
ならばそれが1年間ではいささか短すぎると思う。
如何なる人間でも、たった1年間では仕事の輪郭さえも掴むのが難しいと思う。
お巡りさんでも、学校の先生でも、税務署員でも、1年で仕事の全貌乃至はその一端でも理解するには短すぎると思う。
組織の人間として、組織の全貌を知るためには、色々なセクションを廻るということも必要なことだとは思うが、仮にそうだとしても1年では何もわからないまま、また次のセクシュンに移るということになり、組織の全貌を知るという目的は中途半端に終わるに違いない。
この著者が戦後世代なので、旧軍との比較という視点に思いが至らないのはいた仕方ないが、その意味では、日本の敗戦という大きな外圧があっても、大蔵省だけは戦前の官僚の遺伝子を実につつがなく継承しているように思える。
戦前の各省庁は、陸海軍をはじめとして内務省のようなセクションも、いわゆる天皇制との絡みで、ことごとく解体されたが、大蔵省のみは占領という外圧にも見事に生き延びた。
大蔵省が生き延びたということは、何も仕事をしなかったから生き延びれたということが言えると思う。
我々、戦後世代も、あの戦争中の様々な記述に触れて、日本の軍人は実に愚かだった、ということを身を持って体験したわけだが、その中でも戦時中の大蔵省に関する記述というのは読んだ記憶がない。
戦前には企画院というのがあって、それが戦争遂行のために統制経済を牛耳っていたという話は聞くけれど、その中で大蔵省が何かをしたということは聞いた事がない。
しかし、戦争中と言えども、大蔵省は安穏としておれたわけではないと思う。
例えば、日本軍が進出した地域では軍票というものが通貨の代用として流通していたわけで、それと日銀券との関係を考えると、大蔵省とて無関心ではおれなかった筈であるが、そういう話は我々の耳に届いていない。
大蔵省というセクションが国家の財布を握っていることはよく承知しているが、国家の財布であるからこそ、自らアクティブに行動出来ないという部分もあるかと思う。
昔の王様とは違って、自分自身の贅を尽くすために金銀財宝を集めるということはあり得ないわけで、少なくとも国民国家であるとするならば、常に周囲とのバランスの上に行動せねばならない筈で、それには何もしないことが一番の得策なのかもしれない。
今現在、2012年の段階で、我々の国の産業界は如何なる分野でも大打撃を受けて四苦八苦しているが、これは自らの努力では如何ともし難く、まさしく天与の災害という他ない。
昨年の東日本大震災は災害そのものであるが、それと合わせて、東南アジアの目を見張るような勃興も日本にとっては大きなジレンマであったわけで、そのうえ為替の変動からヨーロッパの通貨危機に至るまで、全てが日本にとっての災難であったことを考えると、官僚を責めたところで解決に結び付くものは何一つとしてない。
この本の中には、官僚の目から見た官僚システムが描かれているわけで、その中で注目すべきは、日本の政治は政治家があるべき姿として本来の機能を果たしていないと記述されており、それはもっともな指摘だと思う。
つまり、日本の政治は、3権分立で、立法、司法、行政と別れており、官僚は行政府の一翼を担っている筈であるが、立法府がきちんとしていないので、官僚が立法府の業務を代行する形で、法律を起案するケースが非常に多く、それが為官僚は自分たちに都合の良いように法案を作ってしまうと指摘している。
確かにその通りだと思う。
統治の根拠となるべき法律は、本来、国民から選出された国会議員、つまり立法府・議会で議員立法として作るべきところであるが、日本の議員にはそれだけの能力が無いので、官僚が作ったものを政府側が提案して、それが議会で審議されて法案となる。
だから官僚が起案した法案の中身を、国会議員はよくわからないまま審議し、盲人が像をなぜるような状態で法案成立となり、官僚の思うがままに運用されることになると説かれている。
この部分に「官僚の修辞学」が存在するわけで、それは日本語の極めて曖昧摸糊とした表現の機微を突くもので、そういう手練手管で以て法律の毒毛が抜かれ、官僚の思う壺に嵌ってしまうということになる。
こうして作られた法案は、もともと下々の下世話なことに通暁していない官僚が考えた内容であるが故に、その運用に際して齟齬が出るわけで、その齟齬が法律の盲点となり、そこが抜け穴と化すのである。
この抜け穴を密かに紛れ込ませるテクニックとして、「官僚の修辞学」が機能するということだ。
そこで問題の根源は、官僚対政治家という構図に必然的になるのであるが、本来の統治という概念でいえば、政治家が官僚を従えて国家を統治するのがノーマルな姿ではないかと思う。
ところが、政治家が法律について無知なものだから、この関係が成り立たず逆転してしまっている。
今の政治家の中にも元官僚という人が大勢いるので、官僚を牛耳ることも可能ではないかと思うが、ここで双方に相互扶助の助け合いの精神が機能して、敵対関係には成らず同じ目的意識を持った同志的な関係に昇華してしまうので、結局は慣れ合いの混沌の渦に埋没してしまうということだ。
国家を運営していくには組織が必要なことは言うまでもなく、その組織は必然的にピラミッド型にならざるを得ないが、問題は、組織の底辺よりも頂点の方に大きな齟齬が生じるわけで、底辺の方は一生懸命自己の使命に忠実たらんと頑張っている。
ところが、そういう底辺の官吏の上に立って日常のこまごました業務を指揮監督すべき高級官僚は、そういう底辺の人たちとは別のルートで組織に入ってくるわけで、ここでは管理する人とされる人という階層が歴然と別れてしまっている。
私の好きな言葉に、「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という戯れ歌があるが、高級官僚というのは全て「駕籠に乗る人」を目指して、その組織に蝟集してくるわけで、その発心のときから人の上に立って利得を掠め取ることを目指して、国家公務員1種試験に挑戦してきている。
人生の出発点に立った若人が、こういう世慣れた抜け目のない目的意識を持つということは、極めて老成した老獪な選択で、こ狡い人か、悪賢い人か、わか年寄りか、とにかく世間の潮の目を見定めるに優れ、保身の術に長けた、ある意味で優秀な人材であることは否めない。
「駕籠に乗る人」の立場からすれば「草履を編む人」のこと等眼中にないのが普通だと思う。
組織の末端で日々日常業務に励んでいる人は、それこそ国家の為に、人々の為、地域の為に貢献している人達で、こういう人達は自分ではそんな大それた意識で仕事をしている、などとは考えていないと思う。
それはそれで立派なことだと思う。
自分に与えられた仕事あるいは任務を、天職と思い、日々黙々とそれをこなすことこそが、人間の生きる真の姿だと私は考える。
こういう人たちの上に立って、こういう人たちの日々の実績の上前を撥ね、あたかも自分の功績であるかの如く振舞う高級官僚は、実にさもしく、意地汚く、貧乏人根性丸出しで、見下げた存在であるが、彼らには国家公務員1種試験に合格したということだけが、自らの誇りであったに違いない。
既に旧日本軍の高級将校に関しては、組織内の純粋培養という言い方で、厳しく糾弾しているが、他の官庁においてもキャリアー組は殆どの人が官費で留学しているとなれば、日本の官僚もその留学の成果が政治の場とか行政の場に出て来てもよさそうに思う。
留学と称して国費で以て外国で遊んでもらっては納税者として納得できないのは当然で、そういう意味の思考は彼ら官僚には全く見られない。
サブタイトルには「なぜ日本では政治家が官僚に屈するのか」となっていて著者は高橋洋一氏ということだ。
奥付きによるとこの著者は東大を出て大蔵省に入省した高級官僚、いわゆるキャリアー組であったということだが、安部内閣の時に、安部晋三の辞任と共に下野したと本人は書いている。
この本の前半の官僚批判は、私の考えていたことと全く軌を一にするもので、大いに共感を覚えるが、後半は組織内部の腐敗を曝け出す内容で、当事者でなければわかりえない事ばかりであった。
この本の中に登場してくる「官僚の修辞学」という文言は、甚だ興味ある部分であるが、その前に転勤の頻繁な繰り返しも大いに考えさせられる内容だと思う。
この著者も、大蔵省の官吏として四国の小さな町の税務署長を20歳後半の時期に1年間経験したと述べられている。
組織に新しく採用された人が、組織全体の業務を掌握するために、方々のセクションに転勤するということは、本人の知識を蓄積するのには良い機会だとは思う。
キャリアー組の高級官僚が、自分の組織の末端で如何なる業務をしているのか、を知ることは極めて重要なことだと認識している。
ならばそれが1年間ではいささか短すぎると思う。
如何なる人間でも、たった1年間では仕事の輪郭さえも掴むのが難しいと思う。
お巡りさんでも、学校の先生でも、税務署員でも、1年で仕事の全貌乃至はその一端でも理解するには短すぎると思う。
組織の人間として、組織の全貌を知るためには、色々なセクションを廻るということも必要なことだとは思うが、仮にそうだとしても1年では何もわからないまま、また次のセクシュンに移るということになり、組織の全貌を知るという目的は中途半端に終わるに違いない。
この著者が戦後世代なので、旧軍との比較という視点に思いが至らないのはいた仕方ないが、その意味では、日本の敗戦という大きな外圧があっても、大蔵省だけは戦前の官僚の遺伝子を実につつがなく継承しているように思える。
戦前の各省庁は、陸海軍をはじめとして内務省のようなセクションも、いわゆる天皇制との絡みで、ことごとく解体されたが、大蔵省のみは占領という外圧にも見事に生き延びた。
大蔵省が生き延びたということは、何も仕事をしなかったから生き延びれたということが言えると思う。
我々、戦後世代も、あの戦争中の様々な記述に触れて、日本の軍人は実に愚かだった、ということを身を持って体験したわけだが、その中でも戦時中の大蔵省に関する記述というのは読んだ記憶がない。
戦前には企画院というのがあって、それが戦争遂行のために統制経済を牛耳っていたという話は聞くけれど、その中で大蔵省が何かをしたということは聞いた事がない。
しかし、戦争中と言えども、大蔵省は安穏としておれたわけではないと思う。
例えば、日本軍が進出した地域では軍票というものが通貨の代用として流通していたわけで、それと日銀券との関係を考えると、大蔵省とて無関心ではおれなかった筈であるが、そういう話は我々の耳に届いていない。
大蔵省というセクションが国家の財布を握っていることはよく承知しているが、国家の財布であるからこそ、自らアクティブに行動出来ないという部分もあるかと思う。
昔の王様とは違って、自分自身の贅を尽くすために金銀財宝を集めるということはあり得ないわけで、少なくとも国民国家であるとするならば、常に周囲とのバランスの上に行動せねばならない筈で、それには何もしないことが一番の得策なのかもしれない。
今現在、2012年の段階で、我々の国の産業界は如何なる分野でも大打撃を受けて四苦八苦しているが、これは自らの努力では如何ともし難く、まさしく天与の災害という他ない。
昨年の東日本大震災は災害そのものであるが、それと合わせて、東南アジアの目を見張るような勃興も日本にとっては大きなジレンマであったわけで、そのうえ為替の変動からヨーロッパの通貨危機に至るまで、全てが日本にとっての災難であったことを考えると、官僚を責めたところで解決に結び付くものは何一つとしてない。
この本の中には、官僚の目から見た官僚システムが描かれているわけで、その中で注目すべきは、日本の政治は政治家があるべき姿として本来の機能を果たしていないと記述されており、それはもっともな指摘だと思う。
つまり、日本の政治は、3権分立で、立法、司法、行政と別れており、官僚は行政府の一翼を担っている筈であるが、立法府がきちんとしていないので、官僚が立法府の業務を代行する形で、法律を起案するケースが非常に多く、それが為官僚は自分たちに都合の良いように法案を作ってしまうと指摘している。
確かにその通りだと思う。
統治の根拠となるべき法律は、本来、国民から選出された国会議員、つまり立法府・議会で議員立法として作るべきところであるが、日本の議員にはそれだけの能力が無いので、官僚が作ったものを政府側が提案して、それが議会で審議されて法案となる。
だから官僚が起案した法案の中身を、国会議員はよくわからないまま審議し、盲人が像をなぜるような状態で法案成立となり、官僚の思うがままに運用されることになると説かれている。
この部分に「官僚の修辞学」が存在するわけで、それは日本語の極めて曖昧摸糊とした表現の機微を突くもので、そういう手練手管で以て法律の毒毛が抜かれ、官僚の思う壺に嵌ってしまうということになる。
こうして作られた法案は、もともと下々の下世話なことに通暁していない官僚が考えた内容であるが故に、その運用に際して齟齬が出るわけで、その齟齬が法律の盲点となり、そこが抜け穴と化すのである。
この抜け穴を密かに紛れ込ませるテクニックとして、「官僚の修辞学」が機能するということだ。
そこで問題の根源は、官僚対政治家という構図に必然的になるのであるが、本来の統治という概念でいえば、政治家が官僚を従えて国家を統治するのがノーマルな姿ではないかと思う。
ところが、政治家が法律について無知なものだから、この関係が成り立たず逆転してしまっている。
今の政治家の中にも元官僚という人が大勢いるので、官僚を牛耳ることも可能ではないかと思うが、ここで双方に相互扶助の助け合いの精神が機能して、敵対関係には成らず同じ目的意識を持った同志的な関係に昇華してしまうので、結局は慣れ合いの混沌の渦に埋没してしまうということだ。
国家を運営していくには組織が必要なことは言うまでもなく、その組織は必然的にピラミッド型にならざるを得ないが、問題は、組織の底辺よりも頂点の方に大きな齟齬が生じるわけで、底辺の方は一生懸命自己の使命に忠実たらんと頑張っている。
ところが、そういう底辺の官吏の上に立って日常のこまごました業務を指揮監督すべき高級官僚は、そういう底辺の人たちとは別のルートで組織に入ってくるわけで、ここでは管理する人とされる人という階層が歴然と別れてしまっている。
私の好きな言葉に、「駕籠に乗る人、担ぐ人、その又草鞋を作る人」という戯れ歌があるが、高級官僚というのは全て「駕籠に乗る人」を目指して、その組織に蝟集してくるわけで、その発心のときから人の上に立って利得を掠め取ることを目指して、国家公務員1種試験に挑戦してきている。
人生の出発点に立った若人が、こういう世慣れた抜け目のない目的意識を持つということは、極めて老成した老獪な選択で、こ狡い人か、悪賢い人か、わか年寄りか、とにかく世間の潮の目を見定めるに優れ、保身の術に長けた、ある意味で優秀な人材であることは否めない。
「駕籠に乗る人」の立場からすれば「草履を編む人」のこと等眼中にないのが普通だと思う。
組織の末端で日々日常業務に励んでいる人は、それこそ国家の為に、人々の為、地域の為に貢献している人達で、こういう人達は自分ではそんな大それた意識で仕事をしている、などとは考えていないと思う。
それはそれで立派なことだと思う。
自分に与えられた仕事あるいは任務を、天職と思い、日々黙々とそれをこなすことこそが、人間の生きる真の姿だと私は考える。
こういう人たちの上に立って、こういう人たちの日々の実績の上前を撥ね、あたかも自分の功績であるかの如く振舞う高級官僚は、実にさもしく、意地汚く、貧乏人根性丸出しで、見下げた存在であるが、彼らには国家公務員1種試験に合格したということだけが、自らの誇りであったに違いない。
既に旧日本軍の高級将校に関しては、組織内の純粋培養という言い方で、厳しく糾弾しているが、他の官庁においてもキャリアー組は殆どの人が官費で留学しているとなれば、日本の官僚もその留学の成果が政治の場とか行政の場に出て来てもよさそうに思う。
留学と称して国費で以て外国で遊んでもらっては納税者として納得できないのは当然で、そういう意味の思考は彼ら官僚には全く見られない。