ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「僕たちのヒーローはみんな在日だった」

2012-02-11 20:57:46 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で「僕たちのヒーローはみんな在日だった」という本を読んだ。
著者はそれこそ在日の朴一(パク・イル)という人で、在日3世で、同志社大学を出て、現在、大阪市立大学教授ということだ。
日本に限らず人間の織り成す社会には差別問題というのは自然発生的に生まれる現象だと思う。
人間と人間の付き合いの中で、あいつが好きだ嫌いだ、あいつとは気が合う合わない、惚れた腫れたという問題は、人間社会から排除できない自然現象のようなものだと思う。
日本民族の置かれた地勢的な条件は、絶海の中の孤島であったことは否定のしようもないわけで、絶海の孤島であるが故に、大陸からゴミが流れ着くように人間が流れ着いたとしても何ら不思議ではない。
大陸から流れ着いた人間を、もともとそこに住んでいた人間が、棒で以て打ち殺したこともあれば、温かい食事を与えてもてなしたこともあったに違いない。
近代の戦争でも、敵の捕虜を暖かくもてなしたこともあれば、その同じ民族が墜落したB―29の搭乗員を竹槍で突き刺して殺したこともあるわけで、異民族と異民族の接点ではこういうことは必然的に起こりうる。
しかし、我々は海に囲まれているので、異民族との接触の機会はごく限られていたことは間違いなく、大陸に住む諸民族の生存競争とは比較にならなほど安穏としていたに違ない。
中国の歴史は、それの繰り返しであったわけで、それは人類の過去の歴史には必然的なことであって、それを今の価値観をあてはめて論じても意味をなさない。
私は昭和15年生まれで、敗戦は5歳の時で、小学校に上がったのは昭和22頃であったが、その頃にも日本の小学校に朝鮮人の生徒はいた。
私は彼らともよく遊んで、決して今でいうところの差別などした記憶もなければ、お互いの家の行き来もしていた。
その後、私は彼らとは違う学校に進んだので、交流は途絶えたが、彼らが朝鮮人だからと言って、差別した記憶は一切ない。
しかし、こちらが成長し、知識を得るに従い、被差別とか在日朝鮮人とか。という問題がこの世に存在することを知るに及んだ。
被差別の問題でも在日朝鮮人の問題でも、普通の日本人、普通の日本の市民は、始めからそんな事は何ら意識していない筈である。
小学生ぐらいの子供の世界で、イジメと言うかどうかはともかくとして、「朝鮮ボウ―」と言ってはやし立てることを差別と解釈し、イジメと捉えるのは余りにも大人気ない振る舞いだと思う。
そんな子供も口喧嘩は、「お前の母ちゃんデベソ」といった類の何の意味もない話であって、それを真に受けて「幼いころイジメられた」という言い方、あまりにも大人気ない捉え方だと思う。
この程度のことならば、世界中のどの国にもどんな民族にも、こういう子供の喧嘩の類のトラブルあるわけで、それを差別の問題にまで拡大解釈する行為は、まことに大人気ない立ち居振る舞いだと私は思う。
今の日本には「パワハラ」という言葉がある。その意味はパワー・ハラスメントの略で、権力によるイジメを総称する言葉であるが、こんなことは如何なる社会にもあり、如何なる国や民族にも同じような問題はあるわけで、それをことさら「在日だからイジメられた」と声高に叫ぶ行為は、ある意味で大きな偏見である。
我々の側としては何もイジメているわけではないにもかかわらず、「あいつがイジメた、こいつがイジメた」と騒いでいるわけで、こういう場面に我々が直面すると、非常に煩わしく思い、最初から身を引いてしまうことになる。
私自身、人間を70年もやっていると、今までの過程の中で、都はるみは朝鮮人との温血だ、松坂恵子も同じで、和田あき子もそうだということは風のたよりに耳に入る。
しかし、そんなこといくら耳に入った所で、私自身の精神の変化はあり得ず、彼女らの歌の価値が下がるものでもなく、普段と変わらずテレビで見ているが、それをことさら同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭をとっている在日3世の口から聞くと、「今まで風の便りで聞いていたことは真実だったのだな」という思いを改めて確定することになった。
朝鮮人との混血がテレビにいくら出ようと、普通の日本人には何の関係もないわけで、彼女らがテレビで良い歌を歌って、しっかり稼いで、しっかり納税してくれれば何一つ問題はないわけで、この本の著者、朴一(パク・イル)氏は何故に、彼女らの出自を暴いて、何を得ようとしているのだろう。
普通の日本人として、そういうことを知っている人は知っているが、知らない人は知らないわけで、私自身も、噂は聞いていたが真偽を確かめるほどの熱意も持ち合わせていなかった。
普通の日本人のとって、そんなことはどうでもいいわけで、彼女らが良い歌を歌い続けてくれれば、在日だろうが純粋日本人だろうが、何の問題も無かったに違いない。
この本の著者のように、同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭をとっているような朝鮮人が、ことさら騒ぎ立てるから、純粋日本人としては関わり合いを避けようとするわけで、私自身のように自分は純粋な日本人だと思い込んでいても、明治維新の前あたりまで遡れば、自分自身のルーツも極めて曖昧なもので、果たして本当に純粋日本人かどうかは自信が無い。
彼ら在日朝鮮人が「自分たちは差別されている」というのは、彼らの持っているコンプレックスなわけで、彼らが純粋の日本人でないという意識は、ただの思い込みに過ぎない。
確かに、芸能界という世界は、噂が噂を呼び、つまらない噂で、自分のポジションが危機に曝されることも往々にしてあると思うが、それは芸能界という世界が本質的に抱え込んだ大きな矛盾なわけで、芸能界が虚構の世界である限り、在日であろうとなかろうと、リスクは同じではないかと思う。
この本の著者のような在日コリアンが、日本で録を食みながら、「純粋日本人よ!俺達を差別するな!」と声高に叫ぶと、我々の側としては始めから差別などしているつもりでないので、極めて鬱陶しい気分になる。
そういうことを言う人とは関わりたくない、と思うのは当然の帰結だと思う。
だから、自分の周りの人にも「あいつには気をつけよ」となるわけで、こうなると完全に差別が確立される。
この本の著者は在日3世であって、私が問題とすべきは、彼の祖国の日本に対する対応に対してであって、日本のメデイアは朝鮮人の混血であったとしても何の差別もなく出演させているが、同じことが韓国では可能かどうかどうかである。
韓国といえば、戦後しばらく日本の文化は禁止されていたはずで、こういう場面に朝鮮民族の文化的な狭量な面がにじみ出ている。
朝鮮民族は日本民族と血で血を洗う戦闘を交えることもなく、日本がアメリカに敗北すると、アメリカの尻馬に乗って威張る所が、極めて朝鮮民族的である。
弱みを見せるとつけ上がる性癖というのは、日本人、日本民族の価値観からすれば一番見下げた思考であるが、彼らにはそういう発想は存在しない。
彼らにもプライドはあるが、日本の武士道に当たる精神文化はないわけで、弱みを見せるとすぐにつけ上がる、という畜生並みの精神文化しかないということだ。
この著者の使っているフレーズでもう一つ私の気に入らないことは、『植民地時代』という言葉であって、在日3世としてこういう言い方はないと思う。
韓国の本国で使うのならばまだ理解し得る部分もあるが、日本の同志社大学を卒業して、大阪市立大学で教鞭とっているような学者が、こういう言葉を使うということは、まさしく純粋日本人に対するコンプレックス以外の何ものでもない。
こういう在日の人の存在がある限り、朝鮮半島出身者に対する我々の側の差別か解消することはないだろうと思う。
この言葉を聞いて、我々、純粋日本人、これは在日朝鮮人に対する対比としての言葉であるが、良い感じがしないのは火を見より明らかであって、彼らがそういう言葉を無神経に使うということは、我々がうらで「あいつは朝鮮だ!」と言っているのと同じことである。
如何なる国の人でも、如何なる民族でも、人の面前で相手の悪口を言う人は、下劣極まりない非常識人間であろうが、この著者はそういう思考を欠いている。
あの戦争を通じて、その時期に日本に来た朝鮮民族の一世がたちが、生き抜くために苦労に苦労を重ねたのは確かであろうと思うが、それは彼らだけがそうであったわけではなく、我々も同じように苦労を重ねていたことに変わりはない。
この著者の言い分を見ると、苦労したのは朝鮮民族だけで、純粋日本人は酒池肉林に耽っていたような印象を受けがちである。
これは著者の視点が、彼らの側からの視点のみで、総体的な視点が抜け落ちているから、こういう記述になったものと考えられる。
地球規模で世界を眺めて見ると、ある主権国家の中に異民族が入り込んで、自分たちのテリトリーを築き上げたということもしばしばあるであろうが、こういうゲットーの構築は甚だ困るわけで、庇を貸して母屋を取られるような事はあってはならない。
朝鮮人が日本に来る、中国人が日本に来る。彼らは何故日本に来るのであろう。
朝鮮人の一世は日本で生活して何故帰国しないのであろう。
日本での差別が嫌ならばさっさと自分の祖国に帰ればいいと思うが、彼らは何故日本に居残るのであろう。
在日2世は日本での朝鮮学校で教育を受けたならば、さっさと本国に帰ればいいのに、何故差別のある日本に居残っているいのであろう。
在日3世は日本の大学を出たならば、祖国の大学で教鞭を取ればよさそうなのに何故そうしないのだろう。
答えは、自分の祖国よりも日本の方がすべての点で良いからである。
昔、イタリアのマルコポールは、日本を、「黄金の国」日本を目指したが、本人は日本まで辿りつけなかった。
我々の国はまさしく彼の言う「黄金の国」であるわけで、世界中の人が日本国籍を取りたがっているようだ。
以前テレビを見ていたら、台湾出身の論客・金美齢女史が実感を込めて語っていたことは、「今回、日本国籍が取れたが、私はこれをどれだけ待ち望んでいたか。日本の国籍を示すパスポートは如何に大きな力を持っているか日本の皆さんは気がついていない」と言っていた。
まさしく在日の人々、海を渡ってきた朝鮮人も、そのことを充分に知っているが故に、日本でイジメられた、差別された、と言いつつも日本に居残っているのであろう。
人間が肩を寄せ合って生きている社会において、多少のトラブルはあるのが当たり前で、トラブルの無い社会などというものはあり得ないわけだが、その中で「イジメられたとか差別された」などということは、問題にする方がおかしいわけで、そんなことは人間の組織にはついて回ることだと思う。
決して良い事ではないので、無いに越したことはないが、一々それに目くじら立てて騒ぎ立てるほどのことでもない。
この本にも紹介されているが、日立製作所に就職出来なかったのは「自分が朝鮮人だっからだ」という言い分は、一見不合理に見えるが、こういうケースが往々にあるから、日本の大企業では朝鮮人を雇用しないのである。
社員として採用しないうちから裁判沙汰にされては、企業として金輪際、朝鮮人を採用してはならないという教訓を得たことになる。
大企業を受験して落ちる人は日本人でも数限りなく居るわけで、その度ごとにこういう裁判沙汰にされては、企業としては当然自己防衛に走るのは当たり前の話ではないか。
そういう事例の積み重ねが、朝鮮人を採用すると企業を内側から破壊されかねない、という恐れに至るのも当然だと思う。
これがそのまま差別に繋がり、偏見に繋がっていることは言うまでもないが、この本の著者の論旨も、私自身をして、精神的な警戒心を持たざるを得ない。
都はるみや和田あき子、松阪慶子がテレビの画面に映っているときは、その歌に聴きほれ、その容姿に見とれておればいいが、自分の身の回りの知っている人が、いきなり「あれは在日3世だ」と言われれば、その途端に身構えてかからねばならなくなる。
何となれば、こちらは何の意図も持っていないにもかかわらず、何かの拍子に、「あいつは俺を在日朝鮮人と言ってイジメた」と言われて、徒党を組んで迫られるかも知れないとなれば、用心するに越したことはない。
基本的に、在日ということは、砂糖に群がる蟻のように、金儲けのために少しでも条件に良い所に吸い寄せられてきた結果であって、金を追い掛けて商売も居場所も状況に合わせて変わるわけで、日本に居続けているということは祖国に居るよりも日本の方が居心地が良いからである。
その居心地の良い日本で、「イジメられた、差別された」と大騒ぎすれば、ますます知名度は上がるわけで、逆差別を心ゆくまで満喫できるということだ。
自分を被害者に見立てて大騒ぎを演じれば、それが金蔓になるわけで、我々にとってはどうでもいい事を、「あいつも在日だ、こいつも在日だ」と書き殴ったのがこの本である。
そういうことを同志社大学を出て大阪市立大学で教鞭を取るような知識人が行っていいものだろうか。
在日朝鮮人ではない純粋日本人で、大学にも行っていない馬鹿な落ちこぼれは、この非差別に対して、あるいは逆差別、あるいは開き直りに対してどう考えたらいいのであろう。