ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「鉄道の地理学」

2009-09-09 07:00:25 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「鉄道の地理学」という本を読んだ。
いわゆるハウツーものに近い内容であったが、地理学と名乗っている点に、ただの雑学よりもす少し突っ込んだ視点で描かれていた。
この中で、私の認識の過ちを改めさせられたことがあったので、その点で大いに驚かされた。
というのは、今日までの鉄道の発達の中で、「汽車が家のそばを通ると、ばい煙で火事になる」という理由で、鉄道の誘致に反対したため、地域の発展が遅れたところがある、という話を私は何の疑いもなく信じていた。
ところが、日本各地で、そういう理由で反対した地域は一つもないという話で、鉄道が既存の集落を迂回したのは、すべて鉄道の側の技術的な問題であったということで、当時の技術では克服できない理由のため、集落を迂回したのであって、地域住民の反対があったからではないということだ。
私は、今の今まで、地域住民が目先の利害関係に幻惑されて、先の見通しを見誤った結果として鉄道が集落を迂回したと思い込んでいたが、そういうケースはないということだ。
近代化に掉さす人達によって開発から取り残された人たちの存在というものを信じていたが、その事実を裏返して考えてみると、すべての人が近代化に諸手を挙げて賛成していたということになり、こちらの方が逆に真実味がないように見える。
人の集合という社会において、全員が諸手を挙げて賛成する事柄などというものは、そうそうあるものではないと思う。
どんな事であっても必ず反対者というものは存在する。
鉄道の初期の頃といえば当然のこと蒸気機関車が煙をモクモクとはいて走っていたわけで、その沿線の民家というのは、当然、藁屋根かかやぶき屋根であったことを考えると、火の粉が飛んできて火事になるかもしれないという恐れは十分あり得る。
だとしたら、それを理由に反対運動が起きても不思議ではないわけで、その反対運動には十分整合性があった筈で、こちらの方が信憑性が高かったに違いない。
反対の理由に整合性があり、信憑性も高かったが故に、後世、「近代化に取り残されたのはささやかな地域エゴが原因であった」という風評が定着してしまったのであろう。
一般の世間の人には、鉄道の側の技術的な理由で集落の中まで引いてこれなかったという真の理由は明かされなかったので、あらぬ風評が定着してしまったに違いない。
近代化とか開発という問題には、こういう認識の錯誤という難問がついて回ることは避けられないと思う。
平成21年の8月に行われた衆議院選挙で、いよいよ民主党・鳩山内閣が出来そうであるが、民主党はこういう開発には非常に後ろ向きで、「不要不急の開発はやめる」と言っているが、開発の計画というのはただただその場その時の思いつきで決められたものではないと思う。
その時々の状況から鑑みて、将来の未来図を思い描きながら、計画が策定したものと私は考える。
他者の目から見て、開発計画がいくら杜撰に見えても、地方の意見や希望を全く無視して出来ているわけではなく、地域に住む人々の、その時々の希望や願望を包括し、内包したものが開発計画になっているものと考える。
成田の国際空港でも、最初は国を二分するほどの反対運動の中で推し進められたが、今ではなくてはならない施設になっているではないか。
その反対に、青函トンネルは多大な犠牲と長い年月を掛けて出来上がったものの、出来上がったときは航空機の発達に押されて利用価値が半減してしまった。
計画されてから10年も20年もかけて完成したならば、その間に世の中の構造そのものが変わってしまうというケースも往々にしてあると思う。
世の中の変化というのも、実に目覚ましいものがあるわけで、私の住む地域でも、鉄道が作られ、それが廃止の憂き目に遭うという変化がこの100年の間に繰り返されている。
これも大いなる無駄のように見えるが、一見無駄のように見えてはいるが、これはこれで経済効果を生み出しているのかもしれない。
つまり、スクラップ・アンド・ビルドであって、最初に作る時に膨大な設備投資が行われ、それを壊す時に又大きな金が動くわけで、作っては壊し、壊しては作るというサイクルの中で、大きな経済効果が見込まれているのか知れない。
私の住む近くにピーチライーナーというモノレールの鉄道があって、近くの小都市と団地の間を結んでいたが、この路線の利用者が少なく、最終的には採算割れで立ち行かなくなり、開業わずか15年くらいで廃業になってしまった。
これなどは全くバカげた施設で、話にならない。
こういう企画・計画を考える者もバカならば、それに許認可を与える方もバカの上塗りなわけで、バカとバカの相乗効果で、見事にスクラップ・アンド・ビルドを踏襲している。
ピーチライーナーは、たまたま私の家の近くにあったものだから、そのバカさ加減というものを目の当たりに実感することが出来たが、この路線の失敗の原因は、まず最初に桃花台という団地の開発が景気の動向により中途半端に終わってしまったことにもあるが、その前に、地域エゴによって人の移動を無視した計画になっていたところにある。
この地域、尾張地方というのは、戦前、戦中、戦後を含めた100年の間に、集落と集落を結ぶ鉄道というのは案外こまかく地域社会を網羅していたが、それが全て採算割れで消滅してしまった。
東京はこの100年の間に鉄道網は拡張に拡張を重ねていたが、尾張地方というのは、その同じ時空間の中で、ローカルな鉄道が出来ては消え、消えては出来て、再び消え去ったわけで、残ったのは車の氾濫のみである。
愛知県はトヨタ自動車の本拠地で、すべての施策がそれを中心に回っているような感さえある。
そして中京圏というのは、東京と大阪に挟まれて、どうしてもこの両方を意識せざるを得ない。
都市集中という場合、人々は、東京と大阪は意識するが名古屋となるとついつい忘れてしまうのが現実ではないかと思う。
名古屋の不人気はさもありなんという部分も大いにある。
今度新しく就任した民主党出身の河村市長の姿をテレビの映像で見る限り、名古屋がバカにされるのもむべなるかなとつくづく思い知らされる。


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