ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「本多勝一の探検と冒険」

2009-10-22 07:24:23 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「本多勝一の探検と冒険」という本を読んだ。
私は本多勝一の一部の本に見られるように、自分達の同胞を中国に売り渡すようなポーズが大嫌いであるが、この本はその部分を突いたものではない。
彼の作品が好きで好きでたまらないという人、つまりこの本の著者、岡崎洋三という若い世代の者は、彼を大いに持ち上げている作品である。
いわば本多勝一の太鼓持ちの作品ということであって、本多勝一に敵意さえ抱いている私としては、肩透かしを食ったようなものだ。
本多勝一の作品も、古の時代には2、3点読んだ記憶があるが、今は記憶にない。
しかし、この世に秀才とか天才とか記憶力が抜群に優れた人というものは確かに存在する。
本多勝一も若い時にはそういう類の人間であったに違ない。
学生の身でありながら、ヒマラヤに探検隊を組織して海外遠征に臨むという行動力は、実に見上げたものだと思う。
その行動力が、その後、彼が数々の本を出すエネルギーであったことは論をまたないが、こういう政治的な意味合いのない探検を文章にしている分にはそれこそ人畜無害であるが、かれはその規範を乗り越えて、歴史に頭を突っ込むようになってしまった。
戦後の日本では、戦中の体験の話をすることは、自分の恥部を曝け出すような雰囲気であったので、誰もその事に口をつぐんでいた。
戦争が負け戦であってみれば、勝利を目指して戦っていた軍人・兵士達は、どの面下げて国民の前に出れるか、という思いだったろうと思う。
よって、戦時中の我々の同胞としての父や、兄や、叔父さんたちの振る舞いを掘り起こすことは一種のタブーと化していた。
勝イクサであれば自慢話の一つにもなりうるが、負けイクサではそれこそ穴にでも入りたいほどの惨めな気持ちにならざるを得ず、自分達のして来た事を語るには大いに憚らざるを得なかったに違いない。
その意味で彼、本多勝一がそのタブーに分け入ることは、新たな冒険でもあり、探検でもあったことは否めない。
だから彼はその現場に足を踏み入れ、新たなタブーに挑んだわけだが、そこで見聞きした現実は、すべて彼の同胞の犯した無慈悲な行いであったわけで、褒められるべき良き行いではなく、目を覆いたくなるような残酷で野蛮な行為であった。
だから戦後においても我々の同胞はそれに対して口をつぐんでいたにもかかわらず、彼はそれを白日のもとに曝け出してしまった。
彼は、歴史を点で捉えているわけで、連続した歴史のある部分を輪切りにして抜き出した時、そこでは日本人が中国人を殺したという現実が転がっていたが、歴史というのは後先があるわけで、ある部分だけを抜き取って自虐史観に浸って見ても、それは中国を利するだけのことで、我々同胞にフィードバックしてくるものではない。
彼、本多勝一は、大学を二つも出た秀才であったし、その上、行動力も抜群で、エネルギーに満ち溢れており、感受性も極めて繊細であるので、事の善し悪しに非常に敏感な人だと思う。
良い事と悪い事の峻別に極めて厳しく、「清濁併せ飲む」という日本人の特有の処世術は受け入れなかったに違いないが、その潔癖さが我々凡庸な人間には受け入れ難いものである。
人が人を統治する、いわゆる政治というものは、その全ての面において、何もかもが公明正大で、一切隠し事がないなどということはあり得ない。
彼の中国における取材というは、彼の言葉でいえば、殺された側の過去の事実を拾い集めてきたわけで、殺す側の論理を一切載せることなく、一方的に殺された側の歴史を拾い集めたということになる。
歴史を片一方の側からしか見ていないわけで、このことは彼がジャーナリズムの在り方として一番憂うべきことなわけで、そのことを思うと彼の作品の傾向というのは、自ずと彼の信念から掛け離れた存在になってしまっているではないか。
彼はこの世の出来事をその両面から見ることを常に心がけていると言いながら、一方の側しか見ていないということになってしまう。
中国戦線では我々の同胞がある意味で無意味で無慈悲な殺生をしたことは事実ではあろう。
戦闘の最前線では、無抵抗の婦女子を無意味に殺傷したこともあったに違いない。
彼のみならず、戦後の飽食の時代のジャーナリストは、こういう状況での人々の殺し合いというものを悪行と認識して、人の倫理にもとる行為だと糾弾して止まないが、それはインテリ―の傲慢だと思う。
戦闘の最前線から遠く離れた安住の地で、理想論を声高に叫んでいる図であって、無責任極まりない振る舞いだと思う。
戦闘の渦中においては、殺さなければ自分が殺されるわけで、自分が生き延びる為には自分が先に相手を殺さなければならない。
それを暖衣飽食の中から糾弾する発言というのは、あまりにも無責任であり売名的であり、欺瞞だと思う。
戦後になっても中国戦線で戦った同胞の中から、自分が殺したと名乗り出る人がいないというのは、彼ら自身、理不尽な行為を相手にしたという贖罪の気持ちがあったればこそ公言出来なかったわけで、その意味で彼、本多勝一にとっては、その部分が精神の探検に等しく、暴くに値する対象に映り、足を踏み入れたい衝動に駆られる暗黒の部分であったに違ない。
「人を殺す」などという行為は、誰でもが好き好んでするものではなく、任務とはいえ、命令とはいえ、殺さなければ自分が殺されるとはいえ、まともな人間が見ず知らずの人間を殺すなどということが、そうそう安易な気持ちで出来るわけがないではないか。
日中戦争のさなか、中国の地で日本の兵隊が中国の人々を殺したことも多々あったことは事実であろう。
当然あの地には、日本軍の進攻の被害者としての中国の人々が戦後も生き残っていたことであろう。
そういう被害者に、日本で戦争を体験したこともない者が話を聞きに行けば、相手は自分の受けた被害を針小棒大に言うわけで、彼等の言うことは嘘ではないことも確かであろう。
彼等にしてみれば、自分の肉親が殺されているわけで、その恨みは筆舌に尽くしがたいというのは、被害者の真理として当然のこととは思う。
その前に、日中戦争そのものの中で、彼等には抗日、反日の機運が人々の底流に流れていたし、彼等の国民党政府も中国共産党の側からも、抗日、反日の機運が一般の人々の間に教育、宣伝されていたわけで、彼等には日本人憎しの機運が隅々にまで醸成されていた。
だから彼等は日本人というだけで敵愾心を奮い立たせたわけで、そういう点からも、現地の日本の兵隊は二重にも三重にも危険な立場にいたわけである。
にもかかわらず、日本人が中国人を殺す立場にいたということは、中国人同士がお互いに助け合わなかったということでもある。
日本が中国を侵攻したといっても、日本の占領した地域は、あくまでも点と線でしかなかったわけで、中国人がもう少しましならば、日本の占領ということは成り立たなかったにもかかわらず、彼等は日本の侵攻を許したわけである。
本多勝一はこういう背景を全く考えることもなく、殺された中国人の声のみを収録してきたに違いない。
それに引き替え、殺した側の我々の兵隊たちは、思い出すだけでも嫌なことを、自分の意思とは関係なく無理やりやらされたわけで、復員してきてもその事については一切他言出来なかったわけである。
自己の良心との葛藤から、その贖罪の気持ちを誰に吐露するわけにもいかず、その呵責に耐えながら残りの人生を歩まざるを得なかったわけで、結果として自分のして来た事を家族にも言えなかったので、戦時中の行為は封印された形になってしまったのである。
そういう前提のもと、戦後の日本人はあの戦争の実態を全く知らない、という現実を引き起こしていたのである。
我々日本人は民族として非常に軽佻浮薄な部分を抱えていることは事実だと思う。
今日の視点から見て、非常に好戦的な民族だと思う。
古いところでは日露戦争で勝利した後のポーツマス条約が気にくわないと言っては日比谷公園焼打ち事件を起こしているし、関東大震災の時は朝鮮人が暴れると言っては騒ぎを起こしているし、戦後に至っても我々の同胞が血で血を洗う暴力事件は枚挙にいとまがないわけで、これは全てが日本人、日本民族の内なるエネルギーで引き起こされている。
日本人、日本民族の内なるエネルギーが外に向かうか内側に内向するかの違いで、我々の民族というのは実に好戦的であり、戦闘的であり、血で血を洗う暴力が好きか、ということを如実に表しているではないか。
戦後の例でいえば、血のメーデー、安保闘争、学園紛争、成田闘争、浅間山荘事件、連合赤軍、オウムのサリン事件等々、我々の民族の中の闘争心、暴力を好む性癖、血で血を洗う抗争への依存、こういうものを我々は民族の血、血統として、DNAとして日本人、日本民族、大和民族の必然性として抱え込んでいると思う。
戦前、戦中においては日本人のこういう血で血を洗う抗争は、戦争という手段で当時の若者の敵愾心を吸収していたが、戦後日本から軍隊というものがなくなると、血気盛んな若者の闘争心、血で血を洗う抗争の場がなくなってしまったので、それが角棒を振り回す行為や、歩道の石をはがして投げつけるという行為に昇華したわけで、極めて幼稚な戦争ゴッコを演じるという仕儀になったのである。
とは言いつつも、戦後の若者、学生運動の過激な行動は、死を前提とした行為ではないわけで、角棒をいくら振り回しても、歩道の石をいくら投げ付けても、死に直面するケースは稀なわけで、その意味で彼等は安易な思考で以って戦争ゴッコの現を抜かしていたわけである。
本多勝一が中国の旅で掘り起こした中国人に対する残虐な行為は、戦後、安保闘争や学園紛争で世間を騒がせた若い世代と同じ世代の我々の父や、兄や、弟や、親せきの叔父さんという人たちによっておこされていたのである。
本多勝一は、こういう日本人が歩んできた道を再びトレースすることによって、日本人の恥部を世界に晒したわけであるが、彼にはこういう残酷な日本人を擁護という気が全くないということである。
この世にあると思われている絶対的な善に対して、それに沿っていない行為だから断じて許せない、という正義感を振り回している姿だ。
人倫にもとる行為だから弾劾してしかるべきだ、という安直な正義感を振り回したわけだ。
何でもかんでも白日の下にさらせば、世の中は幸せになると思い込んでいるわけで、それはあまりにも人として奢りきった思考だと思う。
そもそも他人に幸せを授けようという考えそのものが傲慢だと思う。
人の幸せというのは、その個人がそれを自ら築きあげるものであって、他者が授けるなどというものではない筈である。
その意味で、本多勝一が中国人の被害者意識を煽りに煽ったということは、ブーメランのように日本に降りかかってきて、主権国家としての誇りをますます委縮させる方向に作用している。
諸手を挙げて喜んだのは言うまでもなく中華人民共和国の政府首脳であろう。
彼はあの国から勲章でも授与されるかもしれない。
私には中国における日本の戦争の終結というのはどうにも不可解な思いがする。
だって、1945年、昭和20年8月の時点で、日本の陸軍は実質中国の地を点と線であったとしても実効支配していたわけで、その部分では日本軍は負けていなかったはずだ。
それが天皇の一声で銃を地においてしまうというのは、何とも不思議だと思う。
この行為、つまり天皇の一声で戦いを止め、銃を地に置くという行為は、我々の同胞としての兵士たちは、戦いの継続にほとほと嫌気がさしていたに違いなく、これ幸いと戦いを放棄したに違いない。
この戦いは国際法で認定された正式の戦争ではないわけで、後のベトナム戦争と同じで、正規軍というものがあるのかないのか全く分からないわけで、日本軍から見てどれが戦闘員でどれが一般市民か峻別することが出来ず、結果としてその場にいるものすべてを敵とみなさなければならなかった。
そういう殺戮にこの時の日本軍もほとほと嫌気がさしていたに違いなく、「戦争を止めよ」という命令は、それこそ文字通り天祐であったに違ない。
きっと相手もそう思ったに違いない。
で、立場が逆転してみると、当然のこととして相手は今までの恨みを一気に吐き出さんとするわけで、BC級戦犯の処遇に見るように、裁判も何も無視した仕返しが起きるのも必然的なことである。
だがここでも中国なりの事情があったわけで、日本軍は天皇の命令で銃を地に置いたが、彼等はまだ蒋介石の国民党政府軍と毛沢東の中国共産党軍の間で交戦が続いているわけで、銃を置いた日本軍を何とか自分の方に引き込もうと画策するわけである。
この状態を解り易く敷衍すれば、アメリカ映画の西部劇と同じで、インデアンの跋扈する不毛の大地で、インデアンの各種族と白人が入り乱れて利権を漁っている図である。
日本も西洋列強に伍して利権漁りに入っていったはいいが、天皇が「戦争を止めよ」と言ったので、荒野の真っただ中でインデアンに包囲された騎兵隊のような立場に置かれてしまったわけである。
だから歴史というものは片一方の側からだけ見てはならないわけで、その事は彼自身が若い時から自覚していたにもかかわらず、結果としてヒラメかカレイのような視点に陥ってしまったわけである。
歴史という時の流れの中で、日本軍が中国戦線で勝っていた時だけを抜き出して、「我々の同胞は中国でこんなに悪い事をしてきた」と言っても、それは歴史を検証したことにはならない。
この本は本多勝一を最大限、奉り上げているが、それはそれで著者の主感だから構わないが、彼の存在を考えた場合、彼の一部の作品が日本という国の品位を著しく貶めているということをどう考えたらいいのであろう。
私自身、日本民族は極めて好戦的で残酷な種族だと公言してはばからないが、私ごときは無名も無名で、日本社会の中ではゴミのような存在でしかないが、彼の場合はその知名度が計り知れないものがあるわけで、彼の一言は世間に対して大きな影響力を与える。
そういう彼が、自分の同胞と祖国の国益を中国に売り渡し、自分の国を貶めるような本を書いたことに我々はどう反応すべきなのであろう。
こういうポーズをとる著名人というのは、彼のみではなく、大森実をはじめとする日本の知識人の中には大勢いるわけで、これはただ単なる売名行為なのであろうか、それとも彼等はそういうポーズをとることによって、本を売り、金を儲けて、私利私欲を貪っていると見なすべきなのであろうか。
そもそも大森実や本多勝一の本が売れるということ自体、日本人の国民の側にそういうものを読みたいという欲求が潜んでいるということではなかろうか。
我々は、日本国民の総意として、我々の父や、兄や、弟や、親戚の叔父さんたちが、中国人を滅多矢鱈と突き殺して喜んでいた残虐非情な人たちだよ、ということを確認し合っているということなのであろうか。
戦後の安保闘争、学園紛争、成田闘争の実態を見るにつけ、我々の国の学生といわれる高等教育を受けた世代の人達というのは、実に好戦的で戦闘的で残忍であったではないか。
これと同じ血が、中国に渡った日本軍の兵士の中にも流れていたわけで、その中の一部の人は、中国人を殺すのに自己の倫理観に抗しきれずに悩み苦しみながら、命令を実行せざるを得なかった人がいる一方で、喜々として、自らの手は汚さず、部下にそれをさせた部隊の幹部もいたに違いない。
戦後の学生運動が極めて好戦的、攻撃的であったことは事実だが、彼等としても武器が棒きれや歩道の石コロである限りにおいては、直接的な殺人にまでは至らないわけで、その意味でいくら暴れても程度が知れている、という甘えがあったかもしれない。
しかし、我々の同胞は実に残酷であり、好戦的であり、戦闘的な思考を内に秘めていると思う。
ただし、一人ならば極めて温和であるが、我々の同胞が仲間を作ると、その良心の規範が壊れてしまって、付和雷同となり、傍若無人となり、群集心理に陥り、理性が効かなくなってしまう。


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