ブログ・Minesanの無責任放言 vol.2

本を読んで感じたままのことを無責任にも放言する場、それに加え日ごろの不平不満を発散させる場でもある。

「FBI」

2009-09-22 07:38:26 | Weblog
例によって図書館から借りてきた本で、「FBI」という本を読んだ。
相当に重厚で、分厚く、読みでのある本であった。
サブタイトルが示している通りFBIの歴史を綴ったものであるが、アメリカの警察のシステムというのは、どうも我々の感覚からするとわかりにくい部分が多い。
日本でいう警察というのは、あくまでも違反行為の摘発に主眼があるわけで、それは何も人殺しの検挙だけではなく、あらゆる犯罪行為の摘発であって、法律違反に対する取り締まりの窓口は警察一本である。
私に言わしめれば、今の日本の警察の在り方というのは、現実の社会と乖離しているのではなかと思う。
例えば、列車転覆事故から旅客機の墜落事故から国会議員と業者の癒着事件まで警察がしゃしゃり出てくるわけで、警察にそれを探求する能力があるかどうかまことに不思議でならない。
警察が出てくる背景には、それらの事故の中に、人為的な法律違反があるかどうかの探求であろうと思うが、とにかく何か大きな事故が起きると、そこには必ず警察が顔を出す。
しかし、それは犯罪捜査に対する窓口が、警察という組織に一本化されているという面は否めない。
ところがアメリカはそうでもないらしい。
それはある面でいた仕方ない、というところも理解しなければならない。
というのは、日本とアメリカでは、政治のシステム、行政のシステムが違っているので、それを同じに見ることは最初から不可能なわけで、アメリカにはアメリカの実情があって、今日のシステムが息づいているものと考えるのが妥当である。
私がFBIという言葉から真っ先に連想するのは、言うまでもなく禁酒法時代の「アンタッチャブル」のエリオット・ネスである。
私自身は軽佻浮薄なアメリカかぶれだと自負しているので、テレビ映画からでも得るものは十分あるものと確信している。
「アンタッチャブル」のエリオット・ネスと、シカゴのマフィアのボス、アル・カポネの抗争なども、見方によればアメリカ流民主主義の具現に見えたものだ。
つまり、禁酒法なるものがいくら悪法であったとしても、法は法であって、その法が生きている間は、その法に従わねばならないというのは民主主義の基本だと思う。
これは確かに理想論であるが、悪法を順守していたら自分自身が生きていけない、という部分も現実にはあろうかと思う。
そういうときには民主的な手法、つまり国家議員を通じて、国会で法の訂正を実施するというのが、真の民主主義である。
真の民主主義の実現というのは極めて困難なことであって、アメリカといえどもそう安易に実現させているわけではない。
アメリカの民主主義にも大きな瑕疵が多分にあるわけで、それにアメリカ自身も大いに悩んでいると思う。
犯罪者と警察という対比をすると、我々はどうしても犯罪者が悪者で、警察は良きもの、善良な市民の味方というイメージを抱きがちであるが、内実はそう安易にこの対比が成り立っているわけではない。
警察の裏事情もそれはそれなりに物語として興味深いものがある。
必ずしも正義を具現化しているわけではない。
それはさておいて、アメリカの政治あるいは統治、行政というものは、日本とは比較検討しきれない複雑なものがある。
アメリカの統治体制、いわゆる州が集まって成り立っている合衆(州?)国という名称からして日本とは違うわけで、これを同一の土俵においては議論が成り立たない筈である。
だからこそFBIは連邦捜査局として、州を越えた事犯に対処するとされているわけで、こうなると我々の思考が全く及ばない範疇に足を踏み入れることになってしまう。
そして、面白い事に、この連邦捜査局なるものが、最初の立ち上がりの契機が、財務省の税徴収の一環としての脱税のがれを摘発するための組織だったというのだから驚く。
要するに、アル・カポネのようなマフィアが密造酒を作り、それを州を越えて物と金を移動させ、そのことによって収益を上げる行為を摘発することが設立の最初の趣旨だったらしい。
そのことは同時に、いくら違法行為であっても、州を越えなければFBIとしては動くことができず、また動かなかったようだ。
この州の存在というのが、我々にはいまいち理解しがたいところで、我々がアメリカというときはアメリカ合衆国を一つのものとしてとらえがちであるが、州の自治ということはある意味で、アメリカの民主主義の具現でもあるのであろう。
州によって酒が飲めたり飲めなかったりするというのは、我々からするとまことに不合理そのものであるが、民主主義というものはオール・マイティ―ではないわけで、その中には耐えなければならない不合理も内包しているということだ。
FBIを語るとなれば、どうしても1963年、昭和38年のケネデイー大統領暗殺事件に関連せざるを得ないが、この事件をFBIが掘り下げていくとジョン・F・ケネデイーの醜聞を暴露せざるを得ないという状況におい込まれてしまう。
ケネデイー大統領暗殺事件については、以前「ウオーレン報告書」なるものを読んだことがあるが、いくら読んでも「真相は藪の中」という感で終わってしまっていた。
つまり犯人をオズワルドの単独犯とはっきりとは断定できないまま終わっている。
興味深い点は、FBIがその真相究明を掘り下げていった結果として、ジョン・F・ケネデイーがマフィアのボスの情婦と通じていたが故に、とことん掘り下げることが出来なかったという言い方になっている。
それを掘り下げて止まないのがFBIであったわけで、ジョン・F・ケネデイーの裏事情はFBIでさえも真実を語るにしのびなく、報告は曖昧のままで終わったということであろう。
ジョン・F・ケネデイーの醜聞の中にはマリリン・モンローとの話もあったが、私レベルでは真偽のほどはわからない。
しかし、私ごときまでがそれを耳にしているということは、その噂話が根も葉もない話とは思えない。
ケネデイー大統領暗殺事件に関しては、様々な本が出ているので、相当に深く掘り下げて研究もされているであろうが、それを暴くとなるとアメリカの政治の暗部が曝け出されてしまうに違いない。
アメリカのメデイアは相当執拗にそういう部分に食い込むことが常態となっているが、それでもこれ以上暴き切れないということは、もう底が割れてしまったということかもしれない。
この時も問題となったのがFBIとCIAの確執であって、アメリカにおいて国家の危機に瀕するような大事件のときには、この二つの組織が暗躍するのが我々から見て不思議でならない。
この二つの組織は手柄の取り合いのようにも見えるし、少し視点を変えると、責任のなすり合いのようにもみえる。
要するに自分の都合に合わせて、手柄を強調したいときにはそのように振舞うし、自分の方が不利だと思われそうに感じると、責任を相手にぶつけようとしている。
もっともCIAの方は第2次世界大戦後の冷戦の過程で出来たわけで、その意味では社会の複雑化に伴い、その状況の推移にともなって、組織が大きくなったという面があろう。
そしてCIAの誕生と共に、FBIの職務分担も今まで以上にはっきりと峻別されてきたわけで、CIAはアメリカ国外の情報収集、FBIはアメリカ国内の犯罪捜査と、それぞれの職務分担をはっきりさせたようだ。
世の中の進化というのは、如何なる国でも、官僚の規模拡大を招かざるを得ない状況になったので、時代とともに犯罪捜査の組織も、それぞれに大きく膨らんでしまったわけだ。
FBIというものが西部開拓の時代から、月に人間が行く時代まで同じ組織ということはあり得ないわけで、その時代という時の経過とともに、さまざま変化するというのは当然のことであろう。
最初は密造酒の州間移動に伴う脱税の摘発の組織だったものが、21世紀ではアメリカ国内の犯罪の摘発にまで、その職掌範囲が拡大するのもいた仕方ない。
その中には9・11事件のようなテロリストの摘発まで含まれるようになってしまった。
大きな事件が起きるたびに、こういう組織は「何故阻止できなかったのか?」と、世間の糾弾を浴びるのもこれまたいた仕方ない面がある。
9・11の事件について、なぜあの事件が予防あるいは予知出来なかったかという問題は、一般大衆からすれば極めて素朴な疑問であるが、FBIにしろCIAにしろ、そうそう安易に根拠もなしに「恐れがあるから」という曖昧模糊とした理由で、人々を引っ張るわけにもいかないのも当然であろう。
もしそんなことをすれば「権力の横暴」と、メデイアから袋叩きにあうのは目に見えている。
常識的に考えても、何の根拠もないのに、ただ「恐れがあるから」というだけで人々を拘留するとなれば、それはまさしく暗黒政治であって、そういうものを普通の大衆は望んでいないが、政府の機関がテロを防げなかったということになると、大衆の気持はそれを望む方向に傾斜しがちではある。
国の安全ということは極めて難しい話で、国の安全という場合、我々は安全保障を連想しがちであるが、確かに安全保障も国の安全の大きな部分を占めるが、テロ対策も直接的に国の安全に結びついている。
けれども、我々日本人の感覚では、まだそこまで徹し切っていない。
我々は国の安全ということに極めて鈍感で、安全保障の大部を占める戦争に関しても、ないことを前提にものを考えているし、テロに関しても、日本にはテロなるものは存在しないし、これからも存在しないという思い込みから脱しようとしない。
我々日本という国は、アメリカの一つの州並みの面積しかないので、州をまたぐ問題というのはありえないわけで、警察一本でコトが済んでいる。
アメリカの場合、州の自治権が極端に強いので、同じ犯罪でも州によって有罪であったりなかったりするわけで、だからこそ州を越える犯罪については、連邦捜査局、いわゆるFBIの存在価値があるということなるが、この部分が極めつけのアメリカン・デモクラシーの所以なのであろう。
アメリカン・デモクラシーは完璧なものではないわけで、非常に多くの欠陥を内部に抱え込んでいるが、それでもなおアメリカに住む人々は、自由と平和と自治を尊重して、自ら不自由な欠陥だらけのアメリカン・デモクラシ―に身を委ねているのである。
あっちの州では酒が飲めるがこっちの州では飲めない。あっちの州では有罪だがこっちの州では無罪だ、などということは我々には理解しがたいことであるが、そういう不合理、不都合を抱え込んでいるが故の自治であり、その自治を自治たらしめているのがアメリカのデモクラシーなのである。
我々がデモクラシ―という場合、世界の人々が皆均一に、同じ条件で生かされ、権利を行使し、同じ待遇を得、同じ環境を享受するものだという風に思い込まされているが、現実のアメリカの民主主義というのは、欠陥だらけで決して絵に書いたような理想像ではないわけである。
思えば、アメリカのデモクラヒーというのは、彼ら自身が試行錯誤を重ねて築き上げてきたものであって、南北戦争を経て黒人が解放されたとはいえ、それは表向きの事だけで、裏ではKKK団の暗躍が絶えなかったわけで、それを初期のFBIが一つ一つ潰して今日に至っている。
そういう犠牲の上にアメリカン・デモクラシ―というものが出来上がったということだ。
そして出来上がったものも完璧ではないわけで、内部にはさまざまな欠陥を内包しているが、それでも民意を反映するというところに大いに共感する部分が残っているわけである。
テロ対策で、FBIにしろCIAにしろ、ただ「テロをする恐れがあるかもしれない」という曖昧な理由で、そういう顔つきの人間を拘留しないのは、民衆・大衆の自由を侵す可能性がある、という官憲の側の良心であり、寛容の精神であり、民衆や大衆に対する慈悲であり、おもねる気持ちがあるからだと思う。
官憲の側の人間も、職務を離れれば民衆・大衆と同じ立場になるわけで、そう考えれば何の根拠もないのに人を拘留する不具合も当然理解できるわけである。
アメリカの人々は、建国以来の様々な葛藤の中で、そういうものを自ら築き上げてきたが、我々は戦争に負けたことによる占領という形での上からの押しつけの民主主義であったので、いわば接木された民主主義である。
だから民主主義そのものがまことにぎこちなく、未だに自分のものとなっていない。
民主主義というものは万能で、何でもかんでも自由奔放に振舞っていいし、自分の思う通りにならないことは相手が悪い、自由ということは我儘のオンパレードで、自分の我さえ通れば後は野となれ山となれ、という思考になり下がっている。


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